新しい環境

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新しい環境

 デリク様が、僕を連れて帰ったのは朝の十時すぎだった。僕のいた田舎は遠いので、丸一日馬車をとばしてきたのだ。 「大丈夫かね、私はもう腰が痛くて痛くて……」  地味な馬車に見せかけていたけれど、中はしっかりお金持ち仕様だったから、僕はそれほど辛くはなかった。 「大丈夫です」 「そうか、フェイは我慢強いのかな。あ、あれが私の家族だ」  春の暖かい日射しの中で、二人の獣人と人族の子供が戯れていた。 「お兄ちゃま、だめよ。折角綺麗にしたのに……」  僕達に気付いて立ちあがったのは、少女の兄だというけれど、十分大人だった。頭の上に花冠が揺れて、落ちた。  僕と同い年だという人族は、デリク様のいうようにまだ子供にしかみえなかった。 「父上――」 「アレン、この子がお前に話したΩの少年だ……」  狼族の中でも彼は優秀なαのようで、少しだけ怯んでしまう。 「これでは、お友達はともかく護衛にはなりませんよ」  歳の割にはまだ小さい僕を見下ろして、アレン様はため息を吐いた。 「無茶をいうな。元々Ωは華奢なものが多いんだ。フェイは、話してみたらわかるが、頭のいい子だ。きっとリアンのいい友達になってくれるだろう……」 「いいえ、駄目です――。父上、リアンの友達なのですから女のΩはいなかったのですか」  アレン様は、酷く僕を嫌がった。 「……僕は、もう行くところがありません。戦い方を教えてください。僕をお嬢様を護るために鍛えてください」  大事な妹を護るためだとわかっているけれど、僕は本当に行くところがない。もう二度とあの町には戻りたくないのだ。 「君は、自分の役目を理解しているのか?」 「それはっ、わかって……」 「お兄ちゃま! フェイは私のお友達よ。虐めないで――。お父様が決めたことだもの。フェイは、気にしないでいいのよ」  家長であるデリク様が認めてくれたからここにいられるのだとホッとした。ギュッと僕の手を握った少女は、リアン様と言った。瞳は、すいこまれそうな青みがかった緑色で、彼女の好奇心は僕の毛皮の色だった。 「白い毛皮は初めて見たわ。瞳は赤いのね」  いとこたちは気味が悪いと言った色だ。僕も母親以外にみたことはない。 「怖くないですか?」  恐る恐る訊ねた僕に、彼女は陽だまりのような明るい笑顔で答えた。 「いいえ、とても綺麗。お兄ちゃまのルビーと同じ色。大好きよ」  アレン様の耳にあるルビーの飾りだろう。そんな宝石と比べられるとは思ってなくて、僕の尻尾が困惑で揺れた。 「フェイが困っているぞ。リアン、お友達のために部屋を用意していただろう。連れて行って上げなさい。フェイ、昨日はほとんど眠れず疲れただろう? 部屋で休みなさい」  デリク様は、僕に安心していいというように微笑んだ。  それまで、僕達をジッと見守っていた美しい女性が僕を抱き寄せた。毛皮は柔らかで、母を思い出した。 「フェイ、私はアリシアよ。リアンをよろしくね」  僕を抱きしめた女性は、デリク様の奥方様だった。αの女性なのだということは、何となく気付いた。大人になってから、特にαの気配に敏感になっている。Ωの習性ゆえなのか、町にはαなんてほとんどいなかったから、わからないけれど。  刺さるような視線を感じて、振り向くとアレン様が僕を睨んでいた。それほど、僕が嫌なのだろうか。αの中には、αを堕落させると言ってΩを憎むものもいるという。出来れば、僕はアレン様とも仲良くなりたかった。  リアン様に着いてきたというか、僕を監視するようなアレン様も勿論αだろう。  狼族だけでなく、獣人には、第一の性として男と女があり、成長期に現れる第二の性がα、β、Ωだ。  αは、リーダーとして群れをひきいるための特性がある。優れた頭脳、大きな身体、そして覇気と呼ばれる気配だ。勿論全てのαにそれがあるのかと聞かれるとわからないけれど、ここに来て三人のαをみれば納得できた。彼等が威嚇すれば、僕などきっと腰を抜かす。だから、アレン様がいった護衛にならないと言った意味も少しだけ理解できた。  人族のΩは、優秀なαの血をさらに高める噂があるのだとダリル様に聞いた。だから、リアン様を無理矢理番いにしようとするものがいるとすれば、それは次代に期待するαに違いないのだ。  おじさんやおばさんもそうだったけれど、大半の獣人がβだ。このエッセリーグ国は、狼族の支配する国だから、他の種族のαは少ない。Ωは、そのαよりも少ない。Ωは、男でも女でも子供を産むことができる。身体の線は細く、発情期がくれば、フェロモンでαを誘惑するのだという。今は、抑制剤といわれる薬があって、勝手に発情することはないから普通に生きていくことができると聞いていた。  娼館に送られる予定だったので、僕には関係のない話だと思ってちゃんと聞いていなかったけれど。 「フェイもΩなのよね」 「はい」 「発情したことはあるの?」  こんな子供のようなリアン様が、発情などという言葉を口にしたことに驚いた。 「え、えっ」 「発情、知らないの?」 「そんな訳がないだろう。お前と違って、照れているだけだろう」 「発情って恥ずかしいことなの?」 「まぁ、初めて会った相手に訊ねることじゃないな……」  リアン様は、頬をふくらませた。 「だって、今までそんなことを言われたことないわ……」 「お前に発情について教えるなんて、勉強以外になかったからな。ナイーブなことだ。Ωかと訊ねるのもルール違反だな」 「そうなの? ごめんなさい、フェイ。私、今まで家族やこの離れに住んでいる召使いとしか会ったことがないから、世間知らずなのよ。気を悪くしたのなら許して?」  萎れてしまった花のような風情のリアン様に、僕は慌てて大丈夫だと告げた。 「優しいのね。フェイ、ここよ。私の部屋とは続き部屋なのよ。でもごめんなさいね、お兄ちゃまとも続き部屋なのよ。一応扉はあるのだけど、防犯のために鍵は掛けていないの」 「アレン様とも続き部屋なんですか?」  確認のために聞いただけなのだけど、アレン様はとても渋みばしった顔をした。 「えっと、お兄ちゃまの匂いでもとりあえず防犯になるのよ」 「防犯ですか?」 「αは、自分の番と決めたものがまだ未成年だった場合、匂いをつけてこれは自分のものだから奪うのなら覚悟しろと警告するんだ」 「番……」 「違うわよ! 兄妹だから!」 「はい、そうですよね」 「だから、防犯のためだって言っているだろう? 一緒に眠っていると全身に匂いが移るんだ。だから、たまに一緒に眠ることがある」  勿論二人からは、性的なものは一切感じなかった。三つの部屋は互いに行き来できるようになっていた。僕が、勝手に二人の部屋にいくことはないだろうけど。 「来い、風呂にいれてやる」 「リアンも一緒に……は、無理ね」 「フェイは、疲れているんだろう? リアンは勉強の時間だ」 「はい。でもフェイを虐めないでね。私のお友達なんだから……」 「わかってる。行っておいで」  アレン様がフェイと呼んだ瞬間、ズキッと心臓のあたりが痛んだ。僕は、病気かなんかだろうかと思ったけれど、それきり痛みはなかった。ハッと気付いたら、リアン様はいなかった。 「どうした?」  ぼんやりしていた僕に訊ねるアレン様の口調は、厳しくて、きっとリアン様がいない間に虐められるんだと思った。 「いいえ、なんでもありません」 「まぁいい。こっちだ。風呂は二つある。俺とお前はこっちだ」  二人の間を繋ぐ通路のところから風呂に行くことができるようだ。風呂、と言われて僕は当然のように水がためられているのだと思っていた。さすがファーカー家は、とんでもなくお金持ちなのだと気付いた。 「ここの棒を下に倒すとお湯が出る」 「え、お湯がでる?」  彼が棒を倒すと、僕達が四人くらい入れそうな大きな風呂に湯が流れていく。 「下の川から水をくみ上げる仕組みがあるんだ。それを下の部屋で沸かしている。時間にもよるが、夜中の二時から朝の6時までが使えない。先にいっておけば、大丈夫だが。何をしている、脱げ」  え、脱げ? 脱ぐ? 「あの……」 「風呂は、身体を洗うところだ。父上は何もおっしゃらなかったが、首筋に変な匂いがする。気分が悪い」 「え、匂いますか?」  馬車で一日揺られてきたからからだろうか。風呂には最後に入れてもらえたのだけど。水だけど。 「ああ、嫌な匂いだ」  近づいた彼の湿り気を帯びた鼻が僕の首筋の毛皮を匂い、顔を顰める。 「ごめんなさい……。あ、え……?」  謝っても彼は気になるのか、僕の毛皮を舐めた。毛繕いは、仲良くないとしてもらえないはずだから、気にいってもらえたと喜ぶべきなんだろうか。 「何だ、これは……? ここも」 「あ、アレン様、痛いです」  アレン様が触ったのは、多分おじさんに物をぶつけられてまだ腫れのひいいていない肩だろうか。いとこが意地悪をして鋏で切られた毛の部分だろうか。 「……行くところがないのか。なら、いい――。だがお前はわかっているのか? お前はリアンのために、自分の身を見知らぬ男にいいようにされるんだぞ? その身は、確かにΩで受け入れられるかもしれないが、心は大丈夫なのか?」  僕のこれまでの生活を想像し、これからのことを心配しているようだった。顔は、とてもリアン様のお兄様には思えないくらい怖い顔だったけれど、僕は頷くことが出来た。 「わかってます――。この身体が、リアン様のような方のためになるのなら、僕は受け入れます。僕を奴隷のようにこき使い、売り払った僕の親戚のために娼館に落とされることを思えば、どんなことだって、耐えてみせます」  僕の覚悟を知って、アレン様は頷いた。 「覚悟が足りないのは、俺のようだったな。すまない。フェイ、リアンを頼むぞ」  お風呂に着いてきたのは、僕の覚悟を確かめるためだったようだ。  僕に座るように言って、アレン様はボトルを握った。 「アレン様?」  彼は、にっこりと笑いボトルの中身を全て開けんばかりの勢いで、僕に液体を掛けた。 「洗ってやる」 「え、あ……、待ってください。え、これシャボンですか?」  お湯を掛けられ、シャボンを掛けられ、僕はアレン様の手で全身を洗われた。 「風呂に入った時だけは、リアンの毛の少なさがうらやましい」  真っ白になるまで僕を洗ったアレン様は満足げだった。服を脱ぎ、一緒の風呂に入った。 「お前は、小さすぎだ。腕なんて俺の半分しかないだろう。一つ違いとは思えないぞ」 「え、アレン様……」 「お前より一つ上なだけだ。だが、上だ。頼りにしていい」  お湯でへばりついた僕の額の毛を掻き上げるように撫でてアレン様は、言った。  それは、アレン様が老けすぎなんです――、とさすがに言えなくて僕は呆然と立派な体躯を見つめたのだった。  毛皮を乾かした後、アレン様は、僕の身体にある傷に薬をつけ、肩に湿布を巻いてくれた。更に軽い食事を運んでもらって食べた後、額を撫でられながら、僕はフカフカの寝台で眠りについた。何故かアレン様は、一緒に横になっている。  ああ、そうか僕がリアン様の護衛をする上で、僕にも匂いをつけないといけないのかもしれない。  お母さん、お父さん、今日はとても幸せです。僕は、こんなに幸せでいいんでしょうか。  知らずにすり寄った毛皮から、甘く苦い匂いがして、心地よい気持ちで僕はまどろみの中で父や母に訊ねた。  答えはなかったけれど、いつものような涙は出なかった。
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