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鼈甲のと目が合う
空気が温み、空は青を穏やかに広げ、繁茂する草花に目覚めた虫たち、人々もどこか浮かれて世の中がにわかに活気づく。
まごうかたなき春である。
数日前からぽつぽつと兆しがあったが、今ではそれは見事に開花した庭の桜に、我が家を訪問した人々は感嘆の声を上げた。何代か前の当主が気に入って接ぎ木した代物で、今では庭の池のほとりにしっかり根を張りそこを縄張りとしている。
白々と。
見慣れた光景ではあるが。
時折現れる五本の指が大きく開いては握ってを繰り返し、花房の隙間に消えていく。
白く生気のない骨張った手だ。
虚ろを掴んでは消え、桜の下に立つ人の頭を掠めることもある。大抵の者は風でも吹いたのかと頭を振って、たまたま落ちた花びらに微笑んですらいる。
あの手はなんなのか。
わたしにしか見えていないのだ。
物心ついた頃から当たり前のように見えていたのでそれが当たり前だと思っていたのだが、どうも違うらしいと気づいたのは兄が趣味の写生で庭の桜を描いていたのを覗き込み、どうして手を描かないのかと訊ねて首を傾げられたのがきっかけであった。絵の具を載せた紙には桜の隙間に覗く手が描かれていなかった。
わたしには常人とは異なるものが見えていた。
それを知ってからは、見えたものが大勢の共有する事象であるのか判別してから景色を指すようになった。自分からは口を開かない。同じ場に居合わせた人間の視線を追って、その人物が口を開いてから話を合わせるのである。たまにその場にそぐわない言をしてしまうことはあっても、ちょっととろいところのある暢気なお嬢さんを演じれば良いのだ。何を言っているのかしらねえで話が付く。
あそこの娘さんはおっとりしているから、すこゥしね、アタシらみたいにせこせこしちゃいないのよ、と。
含みがあるのに目を瞑る。
「こりゃ気が触れそうな光景だ」
急に家の人間ではない声がして、縁側に腰掛けていたのを慌てて立ち上がった。自分のいる場所から姿は見えない。足音がして、玄関から回って来た兄の隣に見知らぬ男が並んでいた。返る日差しに黒髪が赤っぽく見える。絣にそぐわない布地の羽織を着ていて、花の模様があるのは女物なのか。黒い足袋に草履は新しいのか汚れが少ない。パッと見て印象がちぐはぐになる。兄にあんな友人がいただろうか。
「凄みがあるでしょう? 幹が太くて枝振りも良いから、あれ一本で随分庭が華やぎます」
「……まあ、賑やかですねえ」
現れた二人を呆然と見つめていると、男と目があった。色が薄くて鼈甲が二つ眼窩に嵌っているようだった。
「あちらは君の……」
「ああ、妹です。啄子」
呼ばれて我に返った。姿勢を正して腰を折る。顔を上げて、いつも通りに笑みの形を作った。目尻はきっと上手く下がっている。できるだけのんびりとしたふうに口を開く。
「初めまして。周野啄子です」
兄のご友人かしらと問えば、
「舘脇先生のところで偶然知り合ったンですよ。頼まれものを届けたついでに、こちらの桜の話を伺いまして。塀の外からでも頭は見えていたものだから、ちょっと気になっていて」
なかなか桜見たさに戸を叩けるようなところじゃないでしょう御宅は、と男は愛想の好い笑い方をした。
「そう聞いたら見せないわけにはいかないだろう? それから僕の絵も見てみたいとおっしゃったから、ぜひにと思ってね。なかなかこの田舎で絵を語れる人間は少ないからさ」
兄はとても美しい絵を描く人だ。なんとかという大きな絵画展への展示も検討されたのだが、父がそれに良い顔をせず、通っていた高等学校に飾られたあとは返ってきた絵は蔵に仕舞われている。絵を描く道具もみんな蔵に放り込まれた。それでもたまに人目を盗んで、仕舞い込んだ道具を取り出し絵を描く兄をわたしは知っている。怒ると苛烈な父から死守されたそれは兄の宝だった。
スケッチを持ってくるから桜を眺めて待っているよう言われた男とわたしで二人きりになる。
「良ければこちらにお座りください。今座布団を持って参ります」
「ではありがたく。座布団は結構です。この陽気で温まったところに座れりゃ十分ですよ」
そう言って男は縁側に腰を落ち着けた。
「そういえば名乗っていませんでしたね。ボクは不時遊歩といいます」
こういう字ですと縁側の板に指で書いてみせる。
「不思議なお名前ですね」
「筆名ですから」
「本名は教えてくださらないのですね」
「それはいずれ……」
「何を書いていらっしゃるンですの?」
「ちょっとした、目が眩んだときの幻を」
たとえばですねと桜を、丁度蝋のごとく白い腕が花の間に見えたところを指差して、
「あんなに白く、月夜に幽玄な姿を見せるだろう桜木から、たとえば人の目を抉る腕が伸びたとして」
ゆらゆらと桜の花弁と揺れていた腕が、指を張るように手の平を見せて、ビタッと動きを止めた。うそ寒い気配が滲み、辺りの細かな音までも静まり返って、わたしと男と桜だけが世界の凡てであるような。
「枝と一緒に育ったあれは自分が美しいことを知っているが、自分で姿を見れないがために、己を映す人間の目に一生懸命手を伸ばすんです。あれがあれば自身の存在を確かめられますからね」
心なしか、先程より腕がこちらに伸びた気がする。
音もなく、景色の中を滑るように真っ直ぐと。
男は桜を指していた腕を一度袖に竦ませて、箸置きくらいの角を削った石を取り出した。
縁側から立ち上がり、何をするのかと思えば緩やかな動作で池にその石を投げ入れる。
ポチョン、と池の面が飛沫を上げた。
生白い腕がくたっと手首と肘の間で骨がないように曲がって、手の平が池を向く。
風が吹いて、桜の花弁が池に落ちる。鏡面のようなそこには、おそらく桜の姿も映っている。
思わず生唾を飲み込んだ。
男がこちらを見て、意地悪気に口元を歪める。
この人。
「おや、まあ」
不時遊歩は視線を桜に戻した。
何がおやまあだろうか。
するすると、腕が池に向かって伸びて。
どんどん、どんどん腕が伸びて。いったいどこで尽きるのかわからないくらい。あんなに長いのか。
「あんなものを庭に植えて、酔狂なことですねえ」
接ぎ木した人物も、こんなことは知らなかっただろう。
とうとう人間の肩に頭が出てきたと思ったら、
「あッ」
今度は一滴も水は跳ねないで、池に飲み込まれるようにそれは消えた。
「……なんだったの」
「そのうちどうにかなるでしょう。あれ一体ではないだろうし」
どうにかってなんだ。あれ一つではないのか。
「あのう、お池には……」
「近づかない方が良いでしょうねえ。まあ誰も気がつかないでしょうし、気がつかなけりゃあれらもわざわざちょっかいかけてきませんよ」
それより啄子さん、と鼈甲の一番暗いところから覗かれたみたいな心地がした。わたしはよろよろと座り込む。
「気が狂いやしませんか、こんなところでは」
不時遊歩は着ていた花の模様の羽織を脱いでわたしの肩に掛ける。やはりこれは女性の方が似合うもんですと。
「僕の住んでるところは、ここよりずっと気が狂いそうなものに満ちてはいますがね」
ぱしゃんと水の跳ねた音がした。たぶん鯉だ。もしくは春に目を覚ました蛙。
「素直に生きられる分ここよりずっとましですよ」
どうですかと掌をわたしに向ける。
呆けたように見つめてしまって、それからゆっくり自分の掌を載せた。
これが後の夫との出会いである。
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