第十五章『正武家澄彦という男。』

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 地に足が着かないまま数秒。  私たちは無言でお互いを抱きしめ合った。  背後では豹馬くんと須藤くんの掛け合い、神落ちの叫び声、夜行の喧騒とその中に居るはずの澄彦さんの高笑いが聞こえていたけれど、私の耳には寄せた胸から聞こえる玉彦の穏やかな心音が大きくしっかりと届いていた。  たった数日離れていた間の記憶が頭を過る。  本当に有り得ないほど、色々あった。  絶対安全だと思っていたお屋敷で襲撃されて井戸に落ち、隠し通路を彷徨って、ようやく出たのは三者の地で、五村のあやかしたちとの出会いと眼の覚醒。  百鬼夜行の為に長たちと折衝して、神落ちとの対峙。  普通の生活では経験できないことばかりで、命の危険だってあった。  でも何とか乗り切って、やっとここまで。 「ただいまっ。ただいま帰りましたっ……!」  色んな感情が混ざり合い、涙声で言えば、玉彦は少しだけ腕の力を強めた。 「よくぞ無事に戻った」  玉彦の絞り出すような声にますます言葉が詰まる。  家出して心配かけて、行方不明になって心配かけて、揺らぎが戻って寝込んでいたはずの時には心細い思いをさせてしまった。 「あのね、ほんとにほんとに、ごめんね」 「無事に戻って来たのだからもう……なんだこれは」  身体を離して見つめ合うと、玉彦の視線が胸元まで下りて思いっきり顔を顰める。 「なんか(しゅ)を刻まれちゃったのよ」 「どこの者がこのような」 「涛川の、枯れ木女?」  さっきも似たような会話をしたな、と思っていたら玉彦は私に足を地に付けさせ、煤汚れた白い襦袢に手を掛け、増々顔を顰める。 「なぜこのような格好を」 「着物じゃ動きづらかったのよ」  私の返答に口を開きかけた玉彦はあえて何も言わずに、襦袢の襟元を肌蹴させて胸の谷間にある渦黒子に指先を触れさせた。  ズキリと胸に鋭い針が突き刺さる様な痛みに私が身を捩ると、玉彦は私が逃げ出さないように左腕で腰を抱える。
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