新しい黒

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新しい黒

少し遠くにいる君が泣いていたような気がしたんだ。 でも僕にはどうすることもできないから、ポケットに突っ込んでいた左手を頭にかざして、つい先ほど降ってきた雨から身を守る。 距離を詰めようとして早足で歩いているのに、何故だか追いつかない。 君は緩やかな坂道を同じ歩幅で歩いているはずなのに、霧の中に消えていくように、遠く遠く幻想的に、近づけば近づくほど透明になっていってしまうんだ。 そんな気がするだけだけど。 そうして家に帰って、猫と萎れた観葉植物以外の生命がいない薄暗いリビングに帰って、僕はおもむろに冷たい水を飲んで、そのまま吐き捨てる。 そして袖で口を拭ったら、いろいろな欲望がこみ上げてきて、右手に持っているコップを壁に投げつけたい、猫の頭を撫でてやりたい、ミケランジェロの絵の上からバンクシーのグラフィーディーを描きなぐってやりたい、携帯を接着剤で天井にくっつけたい、サカナクションの音楽をイヤホンで聴きながら不均衡且つ不安定なステップを踊っていたい、タバコを吸いたい、あの人に会いたい、君のことを考えながら他の人をこの腕で抱きしめていたい、いろんな「したい」が頭の中を駆け巡るけれども結局コップはテーブルにそっと置いて、僕はベランダの窓から外の景色を眺める。 さっきまであんなに雨が降っていたのに、何故か街全体が濃い霧で覆われていた。 人の歩く音も鳥のさえずる音もこの時間になると広場に遊びにいく子供たちの声も聞こえずに、ただ静寂だけが、この世界を支配する。 コトコトと、加湿器の音と、猫につけた鈴の音以外は。 霧は好きだ。その向こうに何があるかわからないから。いつもと同じ道を窓から眺めているはずなのに、それが「同じ道」である確証はもうどこにもない。ヒュームの哲学のように、事実の因果関係は僕らの中でのみ成立する。だから僕は自分の中の論理的な思考を取っ払って、霧の向こうの世界に夢を見る。異世界の街並み、田舎の田畑、海、僕はその霧の中の世界を思い描いては心が踊るのを感じる。 思わずベランダのガラス扉におでこをくっつけると、冷たい空気が間接的に伝わってくるのがわかる。そうしてその冷たさが先ほどの雨の冷たさと混ざり合って、さっき見た君のことを少し思い出す。 濡れたスカートの裾を指でつまんで、パタパタとさせるその仕草に特に意味はないのだろうけど、遠くの世界にいる僕はそれをぼーっと眺める。少しばかりのエロスと、それを覆い隠すように君へのアガペー。君は楽園のお姫様で、僕はその遠い遠い未来で楽園を失った奴隷の末裔。本質は一緒で、でも少しだけ違ったりする。 「おはよう」 「おはよう」 「昨日のテレビ番組みた?」 「あーコントの日本一決定戦だっけ?」 「そうそう、やっぱり東京03はすごいよ」 「私、コントとか漫才ってよくわかんないんだよねー、何が面白いのかはわかるんだけどどうしても笑えないんだよね」 「まあその分君は他人の不幸話で笑うけどね」 「私そんなサイテーな人間じゃないしっ」 「へー、どうだか」 昨日の朝交わした君との会話を唐突に思い出し、僕は少し笑う。笑って、おとといテレビに録画しておいたその番組を、もう一度観ながら君に電話をするか、猫を愛でていようと思い、僕はガラスに背を向けた。 だが足を一歩踏み出そうとした瞬間、僕はよろけた。それは決して僕のせいではなかった。 地震にしては随分と等間隔でリズミカルだ。 まるで工事中のような地鳴り。 驚いて何処かへ逃げる猫。 震えるコップ。 そうして僕は部屋の外の濃い霧を眺める。 そこにいたのは、道に沿って優雅にその巨体を揺らす黒い化け物だった。
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