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「はい!」
柴炎はにっこりと笑って頷いた。
「それじゃあ、あんまり遅くなっても上官に怒られちゃうし、俺はもう行くよ」
「ええ。私も行かなきゃですけど……その前に一つだけ」
天璃が「ん?」と首を傾ぐ。
何気なく、悟られないように、にこやかな表情を崩さないまま、柴炎は訊ねた。
「天璃さんは、〝草姫〟って知っていますか?」
「そうひめ?……さぁ、知らないな。それがどうかしたのかい?」
「いえ!ご存知でないのならいいんです。足止めしてしまってすみません」
天璃は不思議そうにしていたが、柴炎が再度首を横に振って否定すると、訝しげにしながらも「ならいいけど……」と頷いた。
その様子はとても嘘をついているようには見えないから、きっと本当に知らないのだろう。
「では、また今度」
「うん。君の都合が良いときに声かけて」
互いに目を合わせ微笑み、二人はそれぞれ反対方向へすれ違う。
柴炎も書簡を抱え直すと、道草を食うなと吏部の先輩官吏たちに怒られる前に、早足に目的の場所へ向かった。
なんとか今日分の仕事を終わらせ、久しぶりの帰り支度を済ませた頃には、もう外は真っ暗で、亥の刻を過ぎていた。
(うわー絶対待たせちゃってるよね……)
ごめんね、と心の中で謝りながら、まだ残っている官吏たちに一言かけると、柴炎は小走りで宮廷を出る。
はしたないが、この時間にもなると人は少なく、わざわざ咎めるような人もいないから心配ない。
見張り番の軍人に奇妙な目で見られながら宮廷を飛び出ると、自然と小走りから駆け足に変わり、薄暗い道をひたすら走る。
手燭は持ってこなかった。
空には半分よりも小さい月が浮かんでいるだけで、ところどころに配置された行燈の火を頼りに、宿舎への道を進んだ。
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