消された笑顔

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消された笑顔

 純喫茶「えとらんぜ」は古い店である。  夜になろうとも酒を出すことはなく、ウェイトレスが客をもてなすこともない。  深い紅茶色のカウンター席からは、いつでもテレビを見ることができた。  画面に映るニュース映像を見ながら、新田 耕作(にった こうさく)は煙を吐いている。彼が右手に持っているのは、紙巻きの煙草ではない。真鍮製の煙管だった。  店のマスターは見慣れているのか、煙管を会話のきっかけに使ったりはしない。  しかし、彼がコーヒーに手をつけていないことに関しては、黙っていられないようだった。 「ちょっと、コウちゃん」 「んあ?」  呼ばれた耕作は、煙管の吸い口を唇から離しつつマスターの方を向く。その拍子に、かぶっていた濃い緑のチューリップハットがずれた。  彼がそれを左手で直していると、マスターは両手を自身の腰に当てて口を尖らせる。 「せっかく淹れたんだから、あったかいうちに飲んでちょうだい。コーヒーは鮮度が命なのよ」 「こんなボロい店で、鮮度もなにもねーだろ」 「お店と私は確かにボロいわ、その通りよ。でもコーヒーは淹れたてが一番おいしいの。だからおいしいうちに飲んでちょうだい」  マスターは蝶ネクタイにカマーベストを身に着けた、細身の中年紳士といった風情だった。  声は男性としては高めで、少し無理な発声なのか時折裏声が混ざる。女言葉を使っているのは、心が女性であることの表れだった。  ただ、耕作がそのことを気にする様子はない。マスターが彼の煙管を会話のきっかけに使おうとはしないのと同じように、彼もまたマスターの声や言葉づかいには言及しなかった。 「わかったよ、うるせーな…」  彼はただ不満げにそう返すと、コーヒーに向き直る。もう一度煙管を吸い煙を吐き出してから、火種の処理を開始した。  黒い灰皿の上で煙管を約90度傾け、火種を落とす。そばに置いていた爪楊枝でそれをほぐし、火を消した。  まだ熱を持っている火皿を冷たい灰皿に触れさせないよう、煙管の中間部分を灰皿の両縁に渡す。先端の火皿から2割ほど吸口へ寄った箇所を、本来は紙巻き煙草をはめ込むくぼみ『煙草休め』にゆるくセットすることで、左右への転がりを防いだ。  セットする時に火皿を下に向けておけば、重心は安定する。くぼみの中で回転することはない。  耕作は煙管から手を離すと、カップを持ち上げた。  唇に近づけていくと、触れる前から熱さが伝わってくる。火傷しないように気をつけながら、彼はコーヒーをすすった。 「…ずずっ」 「やあね、音立てないで」 「ずずずっ」  耕作は、わざとらしく音を立てる。  口内にある程度溜まるまですすると、冷ますのを兼ねてじっくりと味わう。  えもいわれぬ美味と芳香に、目は大きく見開かれた。飲み下すと、彼はうなずきながらマスターに賛辞を送る。 「うまいな」 「でしょー? だからほら、あったかいうちに全部飲んで」 「いや、それとこれとは別だろ。喫茶店で急かされるって意味わかんねーし」  そう言いながら、耕作はカップの取っ手を左手側に向ける。視線をテレビへと戻した。  画面には、真面目そうな男の顔写真が映し出されていた。耕作がマスターに呼ばれる少し前から、同じニュースが続いている。  そのニュースとは、本山 航(もとやま こう)という名の男性が殺人事件の被告人として裁判にかけられ、無期懲役の判決が出たというものだった。 (本山のヤツ…無期懲役か)  耕作が画面下のテロップを心で読んだ直後、わずかに低くなったマスターの声が聞こえてくる。 「前に調べてた人、よね」 「ああ」  耕作は即答した。その顔が、少しだけ歪む。 (あとちょいで書き上がるってとこで、打ち切られたけどな)  口には出さず、ただ心で思うに留める。  やがて耕作の顔から顔の歪みが消えたころ、マスターは声の高さを戻してこんなことをつぶやいた。 「彼もコウちゃんって呼ばれてるのかしら」 「さーてなァ」  耕作は、帽子の上から頭をかく。 「少なくとも、もう呼ばれることはねーだろ」  彼が手を下ろした時、新たなテロップが表示された。  どうやら本山の弁護士は控訴を諦めたらしい。つまり、無期懲役で刑が確定したということになる。 「わからねーのは…」  耕作は、途中で言葉を切る。コーヒーをすすり、軽くため息をついてからこう続けた。 「コイツ、自分で警官呼んどいて、そいつも殺そうとしたんだよな」 「おまわりさんを? えー意外…」  マスターはそう言うと、画面の左側に表示されている本山の顔写真をまじまじと見つめた。 「マジメそうだし、いい人にしか見えないわ~。こんな事件起こす前に、相談しに来てくれればねえ…私も、話くらいは聞いてあげられたのに」 「そこそこいい会社に勤めてたみてーだし、こんな店こねーだろ…来たとしても、妖怪になんか相談しねーよ」 「ちょっと、コウちゃん! 私が妖怪なのはその通りだけど、お店をバカにするのはやめて!」 「妖怪ってのは認めんのかよ」  耕作は思わず苦笑すると、顔をテレビからマスターへ向ける。 「っていうか、さっきはあんたもこの店ボロいっつってたじゃねーか。オーナーさんに怒られっぞ」 「ボロいのは事実だからしょうがないわ。でも、このお店のボロさはアンティークとかヴィンテージとか、そういういい感じのボロさなの。そこをちゃんと理解してほしいわね」 「はいはい」 「はいは1回よ、コウちゃん!」 「うるせーな…コーヒーまずくなるから黙ってろよ」 「あっ…じゃあ黙るわ」 「黙んのかよ」  耕作の苦笑から、苦みだけが消える。腹の底から笑いそうになった。  この時、ドアベルの音が店内に響く。  耕作は即座に口を閉じ、何事もなかったかのように視線をテレビへ戻した。  視界の外から、新たな客を迎えるマスターの声が聞こえてくる。 「いらっしゃいませ」  耕作と話していた時とはちがい、その声は低く渋いものになっていた。客から注文をとった後でカウンター内に戻ってはきたものの、話の続きを口にすることはない。  耕作とマスター以外の誰かが店にいる時は、いつもこうだった。  ふたりの間で交わされる会話は必要最低限のものだけとなり、楽しげな声は別の客が発するものに限定される。  テレビはついているものの、ボリュームを消されている。ただこれに関しては、ふたりしかいない時も同じだった。 (よそいきの声出しやがってよォ…)  マスターの態度が『よそいき仕様』になる時、耕作の心はいつもいら立ちに染まる。裏声混じりだろうと女言葉を使っていようと気にしないが、『よそいき仕様』になるのだけは気に入らなかった。  だがそのことを今、本人に言うつもりはない。 (…言ってもしょーがねえ…今はこっちだ)  耕作は気を取り直すと、意識をテレビに向ける。  本山のニュースはまだ続いていた。無期懲役の判決が出ただけでなく、判決がその日のうちに確定したことで、臨時特集が組まれていた。 (本山が、警官を呼んだのは自首するため…なのに、その警官も殺そうとした)  耕作の目が、画面内に出されるパネルを凝視する。  音声が消されているおかげで、憶測ばかりの会話に邪魔されることなく事件のことを考えることができた。 (だが警官はそれなりに訓練を受けてる…一般人の本山が素手で殺せるわけがねえ。逆に取り押さえられて逮捕、それからは完全黙秘…か)  カーキ色のチノパンから、スマートフォンを取り出す。メールソフトの下書き機能を呼び出し、そこに書き込んだメモを見た。 (精神鑑定でも受け答えなし…結局、所定の検査だけされて責任能力アリと判断…)  メールソフトを閉じる。 (でもって今日、無期懲役が確定……か)  テレビに目をやると、本山の特集はもう終わっていた。  番組の雰囲気は明るいものへと変わり、グルメ中継が始まろうとしている。それを眺める耕作の脳内に、本山の顔写真が蘇った。 (マスターじゃねーが、確かに…殺しなんかやりそうにねえ顔なんだよな)  灰皿に目を向け、煙管を持ち上げる。火皿が完全に冷え切ったそれを、樹脂製の柔らかい専用ケースに入れた。  その後で、刻み煙草が入った小さな紙箱と個包装のウェットティッシュを重ね、煙管本体用ケースとヒモでつながった煙草用のケースにしまう。 (やりかけに『された』借りを返す…いい機会なのかも、な)  カップの取っ手を右手側へ回し、耕作は音を立てずにコーヒーを飲む。湯気の勢いが鈍った闇の中には、苦みをまとった甘さがあった。 「新田ァ、お前…何のつもりだ」 「何のつもりもないですよ、今言ったまんまです」  年香(ねんこう)出版の会議室で、耕作は壁際に立たされている。目の前には、週刊誌担当の坂下が険しい目で彼をにらみつけていた。  坂下は、耕作の顔すぐ横の壁を拳で殴る。 「前に出した記事の原稿料を追加でよこせだと? ふざけんのも大概にしろ!」 「だからふざけてないんですって。アレでずいぶん儲けたでしょ、あんたの雑誌」 「立場をわきまえろや、このゴミが!」  坂下は壁から拳を離すと、その右手で耕作の胸ぐらをつかむ。その拍子に、緑色のチューリップハットが床に落ちた。  耕作はそれに構わず、ポケットから小さなボイスレコーダーを取り出す。彼がスイッチを入れると、男女の声が再生された。 ”ちょっ…待ってください坂下さん、こんなの聞いてない” ”うへへっ、聞いてねえじゃねーんだよ! お前は今からオレと楽しむんだ、朝までしっぽりとな…” 「……!?」  音声を聞いた坂下の顔が、驚愕に歪んだ。  彼がボイスレコーダーへ目を向けたのに合わせて、耕作は軽く補足する。 「取材にかこつけていただいた地下アイドル、うまかったですか?」 「!」  坂下は耕作の胸ぐらから手を離すと、ボイスレコーダーひったくる。床に投げつけ踏みつけてから、今度は両手で耕作の胸ぐらをつかみ上げた。 「いつ録った! どうやって録った!」 「あーあ、壊しちゃって…」  耕作の目は、ボイスレコーダーに向いている。坂下の質問に答える気はないようだ。  その態度に、坂下の声が怒りで震える。 「テメェ…!」 「言っときますけど、音声データはもうクラウドにアップしてます」 「なに!?」 「知り合いにお願いしましてね…俺が毎日そのファイルを開いて確認しないと、別のところへ転送されるように設定してもらったんですよ」 「お前が毎日…なんだと?」 「つまり、俺に何かあったらあの音声がどっかに送られちゃうってことです。壇仙(だんせん)社の黒部さんや、おうちにいる千鶴さんにもあの音声を聞かれちゃうってことですね」 「なっ…!?」 「ちなみに今は今でどっかから撮ってます。こっちは動画ですけど」 「おいふざけんなよ、ここはオレの会社だ! そんなことできるわけ…」 「あのねぇ、坂下さん」  耕作は、自分の胸ぐらにある坂下の両手を、下から素早く突き上げた。突然の反撃に坂下は対応できず、その両手が薄緑のボタンシャツから離れる。  自由を勝ち取った耕作は、つかまれていたせいでしわができたシャツを手で直す。ほぼ元通りになったのを確認すると、気だるげな声でこう続けた。 「今までとことん好き勝手にやってきて、誰にも恨まれてないなんて…そんなことあると思います?」 「な…」 「思ってるとしたら、相当幸せな脳みそ持ってますね。羨ましい限りです」 「なんだと!」 「俺は別に、あんたを破滅させたいわけじゃないんですよ。ただちょっと調べたいことがありましてね…先立つものが必要なんです」 「調べたいこと…だと?」  破滅させたいわけではないという言葉で、坂下の勢いが弱まる。  そこへ耕作は甘くささやいた。 「いい感じに仕上がったら、坂下さんにだけ原稿…渡しますよ。この話、他には言ってませんし」 「…チッ」  坂下の舌打ちは、交渉成立の合図だった。  彼はボイスレコーダーをあらためて踏みつけてから、耕作に背を向ける。 「あんまり調子に乗んなよ…いつか必ずころ」 「動画、撮ってますってば」 「……クソッ!」  坂下は悔しげに怒鳴ると、近くにある机を蹴る。その後で、小さな声で何やらぼやきつつ、会議室から出ていった。  耕作はため息とともにそれを見送ると、床に落ちているチューリップハットとボイスレコーダーを拾う。 (あとは黒部と……)  再び帽子をかぶった時、その目が鋭く光った。 (もう2~3人くらい、『余裕作り』に協力してもらうか)  新田 耕作はフリーライターである。  弱い立場の同業者が多い中、彼は『創意工夫を凝らす』ことにより、クライアントと対等以上の関係を構築することに成功していた。 (当面の金は用意できたな…)  煙管を吸いながら、スマートフォン向けのアプリで預金額を確認する。数日前に比べて10倍近く増えたその数字は、『余裕作り』が成功したことを意味していた。  そこへ、ひとりの女性が声をかけてくる。 「あの…お久しぶりです」 「!」  耕作はアプリを閉じる。声がした方を見ると、そこには浮かない顔をした女性が立っていた。 (おっと)  耕作は、すぐさま火種を灰皿へ落とす。煙管を灰皿の両縁に渡してから、スマートフォンをしまった。  立ち上がると、彼女に挨拶する。 「あーどうも。すいませんね城島さん、わざわざ呼び出しちゃって」 「いえ…」 「久しぶりなのに、よく俺がわかりましたね?」 「新田さん、あの時と同じで全身緑だし…それに、煙管が」 「やっぱり目立ちますよね、煙管。ああ、すぐ消します」  耕作は腰をかがめて、火種の処理をした。最後の煙があがったところで、城島に席を示す。 「さあ、どうぞお座りください」 「はい…」  耕作に促され、城島という名の女性は彼の向かいに座る。「えとらんぜ」ではない別の喫茶店で始まったのは、本山の事件に関する聞き取り調査だった。 「以前も話しましたけど…」  話題が明るいものではないせいか、城島の表情は曇っている。 「本当に、本山さんはいい人でした。仕事は正確で早いし、教え方はわかりやすいし…それでいて偉ぶらないし。なんかもう完璧すぎて、こんな人いるんだっていつも驚かされてました」 「やっぱり、事件を起こしたことが信じられない…と」 「はい」 「被害者の佐古田 千紗(さこた ちさ)さんが殺されたことについては?」 「…前と、同じです」 「同じというと?」 「……あまり、言いたくない…」 「なるほど」  渋る城島に、耕作はうなずいてみせる。その後で、懐から封筒を取り出した。  城島に手渡すと、あごで示しながらこう告げる。 「開けてみてください」 「……」  城島がおそるおそる封筒を開けると、中には1万円札が10枚入っている。それを見た彼女の瞳が、小刻みに動いた。  そこへ耕作はそっと尋ねる。 「被害者が殺されたことについては?」 「…えっと…」  城島は、札束をしまって封筒を閉じる。  それをテーブルに置くと、顔をうつむけた。 「千紗ちゃんは、殺されてもしょうがないかなって…」 「しょうがない、とは? ああ、それバッグに入れちゃってください。落としたら大変です」 「……」  城島は唇を噛むと、封筒をバッグに入れた。  その後で、ゆっくりと語り始める。 「…千紗ちゃんは…私たち同期のことを完全に見下してました。仕事ができるわけでもないのに、部長にかわいがられてるからってプロジェクトを任されたり…」 「そのプロジェクト、佐古田さんが任される前に進めてる人がいましたよね。どなたでしたっけ?」 「……私、です」 「佐古田さんがやるようになってから、どんなあつかいを受けました?」 「私には仕事をする能力がないから、いい人見つけてさっさと寿退職した方がいいって……あの人が彼を…当時付き合ってた人を盗ったのに…!」 「彼のこと、本山さんに相談しました?」 「………!」  城島の顔が、跳ねるように上がった。耕作を鋭い目でにらみつける。 「そんなこと、言えるわけないじゃないですか!」 「でも、本山さんってすごくいい人だったんですよね? 相談したら助けてくれたかも」 「仕事のことでさんざん迷惑かけてきたのに、個人的なことまで言えないですよ…!」 「仕事のことで、とは?」 「プロジェクトを取られた時に、すごく…仕事上で助けてもらいました」 「そこから恋愛に発展するの、とても自然なことだと思うんですけどねえ」 「私だって…考えなかったわけじゃないです」  城島は再びうつむいた。 「でも、多分あの人には…本山さんには、好きな人がいる。そう感じました」 「好きな人…」  耕作は、少し驚いた様子で自身のあごに触れる。続けて城島に尋ねた。 「それが誰か、わかります?」 「わかりません。本山さんは、自分のことはほとんど話しませんでした。いつも誰かの話を聞いてあげては、励ましてる…私も励まされたひとりです」 「それ以上の関係ではないと?」 「はい。…もういいですか?」 「封筒の中身見ましたよね? もうちょっとがんばってもらえませんか」 「……」  城島は黙り込む。だが、席を立つということはしなかった。  耕作は2分ほど時間をあけた後で、事件直前のことを尋ねる。 「事件が起きた日、本山さんと佐古田さんはふたりで飲みに行った…このことについて、どう思いました?」 「…正直、少し…がっかりしました」 「がっかりというのは?」 「本山さんも、千紗ちゃんに騙されるんだ…って。あの子、外面だけはよかったから…」 「さっき城島さんが言った、本山さんの好きな人が…佐古田さんだったということはあります?」 「本山さんが千紗ちゃんを選ぶなんて、考えたくないです」 「他の女の子たちも、そんな感じでした?」 「はい…付き合ってる人を取られたの、私だけじゃなくて…なんていうか、男の人はああいう女に弱いんだろうなって……すっごく悔しいっていうか腹が立つってことを、みんなで…」 「特に城島さんは、恋人だけじゃなくて仕事まで盗られましたもんね」 「……」 「つまり、城島さんを含めたみなさんには、佐古田さんを殺す立派な動機がある」 「…それ、警察にも言われました」 「でしょうね。しかし、みなさんは何もしてない…城島さんも」 「当たり前です…!」 「本山さんがしたこと、最初に聞いてどう思いました?」 「それ、さっきも言いました…」 「もう一度、教えていただけないですかね」  耕作はそう言うと、2通目の封筒を取り出す。彼がそれを揺らすと、ある程度のしなやかさが見て取れた。  つまり少なくない金額が、1通目よりも多い金額が、入っている。 「……」  城島はそれに気づき、再び唇を噛んだ。  そんな彼女に、耕作は呼びかける。 「さあ、城島さん」  駄目押しとばかりに、封筒を差し出した。  しかし城島はそれを受け取らず、椅子から立ち上がる。 「もういいですよね。私…帰ります」  そう言うと、耕作の前から去っていった。  耕作は封筒を差し出した体勢のまま、顔だけを彼女の背中に向ける。やがてそれが見えなくなると、封筒をしまった。 (あの感じだと、女たちが佐古田 千紗を殺して本山がかばったってことはねーな…まあそこらへんは警察も調べてるし、予測はできた)  湯気の消えたコーヒーに口をつける。香りは完全に飛んでしまっており、飲み下した後にほのかな酸味を感じた。  夜になってから、耕作は1軒のバーへ向かった。  バー「コージー・ネスト」は、本山と佐古田が事件直前に訪れた店だった。 「すいませんねえ、警察にも話しましたけど…いい雰囲気だったもので、私はその場にいなくて。他のお客さんと話していたんですよ」 「いい雰囲気というのは?」 「それはほら…わかるでしょ? 男女で盛り上がってるあの感じですよ。邪魔するのも野暮じゃないですか」  店のオーナー兼マスターは苦笑しながら言う。他のことを尋ねてみても、警察が発表した以上の情報はなかった。 (やっぱり、そうそう新情報なんか手に入らねーか…)  期待していたわけではないものの、空振りとなると気落ちはする。今日は酒を楽しもうと考え、気持ちを切り替えるために一度席を立った。  用を足そうとトイレの中に入りかけた時、耕作は背後から声をかけられる。 「…すいません…」 「?」  振り向くと、そこには年若い男性店員がいた。 「あの事件について…調べてるんですよね」 「…何か、ご存知で?」 「ここではちょっと…長くなりますし」 「……!」  新情報の予感がそこにはあった。耕作は店員に名刺を渡すと、1時間ほど飲んでから店を出た。  帰宅してから風呂に入り、酔いを覚ます。  座ったままうつらうつらしていると、スマートフォンが震えた。 「!」  瞬時に覚醒した耕作は、端末を手に取る。どうやらメールを受信したようだ。 ”コージー・ネストで名刺をいただいた藤倉です。今仕事が終わりまして。たぶんお休みだと思うので、まずメールで大体の部分を説明させてもらおうかと” (ところがどっこい、起きてんだよなァ)  耕作はニヤリと笑う。  やがて笑みを消すと、メールを読み進めていった。 ”マスターは、あの人たちが盛り上がってるって言ってましたけど、盛り上がってるのは女性だけでした。当時僕は客としてあの店にいて、席が近かったから話がよく聞こえたんです” (ほう…?)  当時客だったという藤倉の存在は、それ自体が新情報だった。  耕作は続きを読む。 ”僕が何度目かのトイレに行こうとした時、女性がこんなことを言ったんです。天川(てんかわ) まなみなんてやめて私にしとけ、って” (…誰だ?)  藤倉の存在が新情報なら、「天川 まなみ」なる女性の名前も聞いたことがなかった。  少なくとも警察が発表した情報の中には、そのような名前は存在しない。 ”僕がトイレから戻った時も、女性は天川 まなみって人のことをバカにしてました。男性はそれをただ黙って聞いてるだけで、なんか僕までいたたまれなくなりました”  この後に、なぜ警察ではなく耕作にこのことを伝えようと思ったのか、その理由が続いた。 ”後から事件のことを知って、もしかしたら警察が訊きに来るかなって思ったんですけど来ないし、でも自分から話しに行くっていうのもなんか怖いし、そう思ってたらあっという間にあの人が捕まって” (まあな…証拠が有り余るくらいそろってたらしいからな) ”裁判とか始まっても誰も来ないし、なんか、いいのかなって。次に何のバイトをしようかって思ってた時期でもあったので、お店に雇ってもらったんです。もしかしたら誰かが訊きに来るかもしれない、っていうか誰にも訊かれない状況が、気持ち悪くてしょうがありませんでした”  殺人事件の当事者を、事件直前に目撃している。  しかも、加害者と被害者を同時に。  平穏の中で生きてきた普通の人間にとっては、それ自体が大事件だった。  そんな大事件の中にいたというのに、捜査関係者が話を聞きに来ない。自分はもしかしたら証拠になり得る話を聞いてしまっているかもしれないのに、打ち明ける機会がない。  この精神的なしこりが、藤倉の平穏を侵食し続けていたのだろう。 (…さっさと話して、ラクになりたかった…ってところか)  その心情を察することは、難しくなかった。それは耕作にとって納得できるものであり、疑問をいちいち抱く必要のないものだった。  耕作は、再びメールの文面へ意識を戻す。 ”そしたらあなたが来て。でも、最初の時は言い出せませんでした” (最初? ああ…前に調べてた時か) ”でも今日、またあなたを見た時『今度こそちゃんと言わなきゃ、僕の中でもやもやしたまんまだ』って思って。だから僕は……”  ここから先は、なぜ自分が耕作に話そうと思ったのかという理由が、繰り返し書かれている。  後半は誤字だらけで、もはや言葉の意味を成していない。 (ようやく話せる時がきた、でもシラフじゃ無理だから飲みながら書きました…って感じか。まあ、あれだけの事件だからな…しゃーねえ)  耕作は小さく笑った。  一度視線をスマートフォンから外すと、自身が着ているボタンシャツを見る。 (そりゃそうと、やっぱり全身緑ってのは特徴的だよな。だいたい一発で憶えてもらえる…この色が好きでよかったぜ)  頭には濃い緑のチューリップハット、上半身には薄緑のボタンシャツ、下半身はカーキ色のチノパン。濃さはそれぞれちがうものの、色はすべて緑である。  しかも紙巻きの煙草ではなく煙管を使っていることが、誰の目にも留まる。藤倉が耕作を憶えていたことからも、相手に自分の存在を印象づける効果は高いといえた。  その藤倉からのメールを読み終わった耕作は、煙管を吸う準備を開始する。スマートフォンを充電器に挿すと、刻み煙草が入った箱を開けた。  すぐ近くに個包装のウェットティッシュを置いているのは、刻み煙草が乾燥するのを防ぐためである。  刻み煙草は乾燥してしまうとバラバラになってしまい、丸めにくくなってしまう。それだけでなく、吸った時に火のついたかけらが煙管の中を通って口内に達する恐れがあった。  紙巻き煙草とちがってフィルターがないため、吸い方には気をつける必要がある。 (ちょっと湿らせすぎたが…)  耕作は、刻み煙草をひとつまみ持ち上げる。  ごく軽い力で丸めた。 (カビてなけりゃどうでもいいな)  それから火皿に乗せ、マッチで火をつけた。吸口に口をつけて吸うことで、刻み煙草の丸い塊は火種となる。 (しかし、天川 まなみ…ねえ)  煙を吐く耕作の脳裏に、城島の言葉が蘇った。 ”多分あの人には…本山さんには、好きな人がいる。そう感じました” (まとめると…本山は天川 まなみって女が好きで、佐古田にその女のことをひどくバカにされてたってことになるが………そんな女、本山の周囲にはいなかったはずだぞ)  起動させっ放しのノートパソコンを操作し、過去の取材記録を呼び出す。  記憶と記録に食いちがいはなく、その中に天川 まなみという名前は存在しなかった。 (だよな…ん?)  確認を終えた耕作の目が、ある画像でとまる。  画像には、「釜原こどもホーム」というキャプションがつけられていた。 (そーいや本山も、施設育ちだったな)  本山には両親がいない。幼く若いころを、児童養護施設「釜原こどもホーム」で過ごした。  その事実と、耕作が事件の動機を調べる理由に、全く関連性がないといえば嘘になる。似た境遇を持つ者が起こした事件に、耕作はライターの意地以上のものを向けていた。 「……」  耕作の顔に陰が差す。  灰皿に火種を捨てると、まぶたを閉じた。自分の手でほぐして火を消し切ろうとはしなかった。 (釜原こどもホーム……か)  記録内容を、いちいち見る必要はなかった。  彼は画像をひと目見て、そこがどういう場所かを思い出していた。 (今は相原 梨花(あいはら りか)と西川 和也(にしかわ かずや)のふたり…本山の幼馴染ふたりが、管理運営をやってる……)  甦った記憶を確かめる必要がないほど、施設に関するデータは鮮明だった。  ただ、以前の取材でそこまで詳しく調査していたにも関わらず、耕作はまだその場所を訪れたことがない。というのも当時、施設に行こうとした矢先に、クライアントから取材の中止と別の仕事を言い渡されたからである。  このクライアントというのが、耕作の『余裕作りに貢献した』ひとり、年香出版の坂下だった。  だが施設に行けなかったのは、坂下ひとりの責任というわけでもない。 (施設ってのは、あんまり…行きてえ場所じゃねーんだよな)  耕作本人が、施設に行くことをためらっていた。  以前の取材では、行くと決心するまでに数日以上の時間がかかった。やっと心が決まった、さあ行くかという時に坂下から中断を言い渡された。  耕作がやるはずだった仕事は警察発表を羅列するだけの記事にとって代わられ、彼本人は緊急を要する別の案件に回された。そのまま月日が過ぎ、今この時まで取材記録は眠りについていたのだ。 「……」  耕作は目を開くと、スマートフォンを手に取る。  藤倉から送られてきたメールの終盤あたりを、もう一度読んだ。 ”『今度こそちゃんと言わなきゃ、僕の中でもやもやしたまんまだ』って思って”  この文章が、耕作を苦笑させる。 (もやもやしてんのは…俺も同じってか)  藤倉の葛藤が、耕作の迷いと重なる。ただ、藤倉は酒の力を借りながらもそれを脱することができた。  自分はどうなのか。  そう考えた時、耕作の口から大きなため息が漏れる。 「はあ…しょうがねえ」  耕作は画面をタップし、藤倉への返礼メールを書き始めた。そうしながら、心にある迷いを少しずつつぶしていく。 (これはやりかけの仕事だ。でもって俺は、やり切ると決めた…だったら、施設にいたころの本山を知る必要がある)  事件そのものに謎はない。  だが、本山の動機には謎がある。  それを明らかにするには、本山の人となりを知らなければならない。  釜原こどもホームには、本山が多感なころを過ごした建物があるだけではない。幼馴染が今もそこに、しかもふたりもいる。 (行かねえって選択肢が…そもそもねえ)  耕作にも最初からわかっていた。  あとは自分が決断するだけなのだと。 (施設育ちの過去を暴くのは、俺自身を暴かれてるようでいい気分じゃねーが…)  返礼メールを書き終わった耕作の顔は、渋く歪んでいる。  しかし。 (そうも言ってらんねーよな)  それでも彼は、釜原こどもホームに行く決意を固めた。  耕作が施設を訪れたのは、それから数日後だった。  すぐに行かなかったのは迷いが再発したからではなく、準備に時間がかかったためである。 「どうも、こんにちは。ホーム長の相原です」 「副ホーム長の西川です」  本山の幼馴染ふたりは、満面の笑みで耕作を迎えた。この笑みこそ、耕作の準備が生み出した賜物だった。 (金の力は偉大ってか…)  準備とは、この施設に対する寄付だった。  しかもそれは前金であり、取材に応じてくれれば追加を出すとふたりに言った。時間がかかったというのは、送金されたという記録をふたりが確認するまでに数日かかった、という意味だった。 (事件直後ほどじゃねーが、無期懲役が確定してからまだそんなに日がたってねえ…表には他の連中がそこそこいる)  耕作はふたりに挨拶を返しながら、表玄関にいた記者たちを思い出す。ライバルである彼らを出し抜けたことに関しては、とても気分がよかった。  しかし、ふたりの笑顔をあらためて見た時に、心は冷たく静まる。 (普通ならこいつらもあまり話したくねえはずだが…ニッコニコだな。それだけ財政的に追い詰められてんのか、それとも本山に対していい印象がねえのか……どっ)  どっちだろうな、と耕作が思いかけたその時。  ひとりの子どもが走り寄り、彼の脚を蹴った。 「うおりゃあ! きーっく!」 「いでえっ!?」  ソファに座ろうとしていた耕作は悲鳴をあげ、後ろに大きくよろめく。  それを見た相原は、子どもを激しく叱りつけた。 「こらぁ! お客さまになんてことするの!」 「へへーん」  子どもは意に介さず、走って逃げていく。  とっさに背もたれをつかんでどうにか転倒を防いだ耕作は、背中を反らせた状態のまま子どもの背中をにらみつけた。 (クソガキ…!) 「すいません新田さん、お怪我ないですか?」 「あ、いえ…大丈夫です」  耕作は、そう言いながら体勢を真っ直ぐに戻す。蹴られた箇所を手で払い、怒りの表情を消した。  あらためてソファに座り、本山について話を聞こうとする。 「では早速、本山 航さんについておうかがいしたいんですが…」 「ぎゅーん! すごいぞ、はやいぞぉー!」  再び、先ほどの子どもが現れる。しかも今度は、他の子どもを引き連れての登場だった。  これに相原は再び声を張る。 「こら、たっくん! 今大事な話してるから、あっちで遊んでらっしゃい!」 「いーやだー! あはははははは!」 「どかーん! ぱんちー!」  5人もの子どもが好き勝手に暴れ、場は収拾がつかなくなる。  内容が内容であるのも手伝って、耕作は一度話を切らなければならなくなった。 「…子どもたち、みんな元気ですね」 「すいません、ほんとに…最近、あまり外に出してあげられなくて」 (…あ)  耕作は気づく。記者たちが詰めかけているせいで、子どもたちは室内で遊ぶしかなかったのだと。 (なるほど、俺に攻撃してきやがったことにも…理由があったってわけか)  あの子どもは、耕作が記者たちと同類だと直感的に理解したのだろう。  自分たちを閉じ込めるだけでなく、おそらく相原や西川を困らせる原因にもなっている記者たち。耕作をその代表者だと思い込んで蹴ってきたようだ。 (なかなか将来有望じゃねーか、クソガキ)  耕作は小さく笑う。  そんな中、相原と西川は子どもたちをなだめるのに四苦八苦していた。 「みんなほら! ちゃんといい子にしてて!」 「ママ先生と遊ぶあそぶー! きゃはー!」 「わかったから、ここから出てみんな! お話できないから!」  ママ先生と呼ばれた相原が、子どもたちを部屋から出していく。  西川もそれに加勢しようとするが、子どもたち全員が彼女についていってしまったため、加勢が空振りする形になった。  部屋に、耕作と西川が残される。 「あはは…やっぱり、子どもたちに好かれるのは母親役なんでしょうね」  西川は、どこか寂しそうに言った。  それに対して耕作は何も返さない。子どもたちが去った方向をただじっと見つめていた。  やがて耕作は気を取り直すものの、数分たっても相原が戻ってこない。  仕方なく、西川ひとりに対して取材を開始することにした。 「…本山さんの事件についてですが」 「はい…刑が、確定したんですってね」  耕作が尋ねると、西川はうつむいた。本山について、沈んだ声で語り始める。 「航は本当に優しいヤツだったんです。なのにどうして、あんな事件を起こしたのか…」 「優しいというのは、昔からずっと?」 「ええそうです。アイツほど真っ直ぐで、優しいヤツを私は知りません…」  西川はつらそうに言葉を切った。  その様子を見た耕作は、取材の方向性を変えてみる。 「天川 まなみという女性について、何かご存知じゃないですか」 「…え?」  西川は顔をあげた。きょとんとした表情で、耕作を見る。 「天川 まなみ…?」 「本山さんと関係のある女性…かも、しれないんです。もしご存知なら、教えていただければと」 「……」  西川は考え込む。つらそうな表情が消えた。  耕作は、質問することで彼の気分を変えることに成功した。 (最悪、知らなくても…もう少しくらい本山について聞き出せるだろう)  耕作が天川 まなみの名前を出したのは、西川からその情報が絶対に聞けるという確信があったからではない。  とにかく一度話の流れを変えて、西川が口を閉ざさないように仕向けるという狙いがあった。  今は相原がいない。  西川ひとりだからこそ、彼しか知らない何かを話す可能性がある。  だがその時間は、相原が戻ってきてしまえば終わってしまう。それまでにできるだけ、西川の口からさまざまなことを聞いておきたかった。 「あっ」  狙いは功を奏し、西川は声をあげる。少しばかり興奮した様子で、耕作にこう言った。 「思い出しました!」 「…! どんな女性ですか?」 「いえ、女性というか…女性ですけど、『だぶりばっ!』ってアニメのキャラクターなんですよ」  この答えは、耕作にとって予想外だった。 「アニメ…?」  驚きが彼を呆然とさせる。そこへ西川はしみじみと続けた。 「なつかしいな、昔はよく見てました。確かに航とも見てましたが…アイツ、そんなに興味持ってたかな?」  言い終わると西川は首をかしげた。  それを見た耕作は、ぼんやりしてしまいそうな自分に活を入れる。 (と、とにかく…話を聞かなきゃな)  西川に対する質問を再開させた。 「見ていた当時…西川さんの方が、そのアニメを好きだった感じですか」 「はい。ドタバタなラブコメなんですが、テンポがよくて好きでしたよ」 「本山さんが、天川 まなみについて何か言うことはありましたか?」 「いえ、あまり…感想を訊けばそれなりに話してくれましたけど、熱量っていうんですか? そういうのは私の方が高かったですから」 「そう、ですか…」  耕作の声から、力が抜ける。  気を取り直したつもりになっていたが、天川 まなみがアニメのキャラクターだという事実は、本人が思っている以上に英気を削ぎ取っていた。 (なんだ…? アニメのキャラだと?)  天川 まなみの素性を知ることができたのは、収穫といえる。  本山が現在進行形で好意を抱いている女性。それを、過去の知り合いである幼馴染が知っている確率は、普通に考えればそれほど高くないからだ。  しかし、それがまさかアニメのキャラクターだとは思わない。  殺人事件の動機を導き出すにあたって、これほど貧弱な事実もないと耕作には感じられた。 (アニメのキャラをバカにされたからって、現実にいる人間の女を…顔の形が崩れるまで殴り倒すもんか? もしそこまで熱烈に好きだったとしたら、本山の家から大量のグッズとか出てこねーとおかしいだろ…)  しかし、警察発表にそういった記述は存在しない。  存在していれば、耕作は以前取材していた時点ですでに、天川 まなみについて知っていただろう。  本山の家はワンルームマンションで、必要最低限の家具しか置かれていなかった。娯楽に使えそうなものはスマートフォンくらいしかなく、しかもその中にはゲームのひとつも入っていなかったという。 (ってことは何か? 結局、酒の勢いで佐古田に迫って断られた本山が、カッとなって佐古田を殴り殺した、とか…そういうことになるのか? そんなベタベタな動機を調べるために、俺は時間と金を使ってきたと…?)  耕作の心が、悔しさに焼かれる。  それはまるで溶岩のようにうねり、彼をいら立たせた。 (警察でもわからねえことを調べようとしてんだ、行き詰まるかもとは思ってた…だがまさか、こんな詰まり方をするとは思わねえだろ!)  西川が目の前にいる手前、表情は変えないように努めている。  しかし、怒りで体のほてりが収まらない。自分を抑え込むことに集中していなければ、いつ叫び出してしまうかわからなかった。 (何よりもムカつくのは、俺の感覚が老け込んじまってるかもしれねえってこと…それを俺が自覚できてねえってことだ! このままじゃやべェ、なんとか気合い入れ直さねーと……!)  もはや本山の事件に関して、これ以上わかることはない。すぐにでも取材を終わらせて、ライターとしての感覚を鍛え直すことに集中しなければならない。  耕作は強くそう思った。もう少しだけ落ち着いたら、西川に帰ることを伝えようと考えた。  だがこの時、西川の方から声をかけられる。 「あの」  その響きには、これまであった明るさがない。  耕作は、それがやけに気になった。 「…はい?」  自身への怒りをひとまず置いて耕作が返事をすると、西川はこう言った。 「梨花が戻ってこないうちに、お話しておきたいことが…あるんですが」 「…なんですか?」 「このこと、オフレコっていうんですか? 秘密で…お願いしたいんですけど」 「それは、本山さんに確認をとるなという意味ですか?」 「いえ…アイツは多分、わかってると思います」  西川は、小さく笑った。  その笑顔の暗さに、耕作の中でうねっていた溶岩が瞬時に冷え固まる。 (これは…何か、とんでもねえことを話す気だな)  やがて西川は、相原が子どもたちとともに去っていった方向を時折見つつ、語り始めた。 「私たち3人は、この施設で育った幼馴染で…よくある話といえばそうなんですが、とても仲が良かったんです」 「…はい」 「みんな親がいないことも、仲の良さに拍車をかけていたというか…そんな中、私は梨花のことを好きになりました」 「……」 「そのことを、航に相談したんです」  西川は、そう言うとうつむいた。 「いつも一緒にいた航のことを、私はよくわかっていました。航が誰のことを好きなのかも、わかっていました…わかっていて、私は彼に相談したんです。梨花が好きだと」 「……!」 「梨花は航のことが気になっていました。でも彼女は、自分が気持ちを明らかにすることで3人の関係が壊れるのを良しとしなかった…航もそれは同じだったでしょう」 「………」 「私は我慢できなかった」  西川は、ひざの上に置いた両手を強く握りしめる。 「ふたりは互いに意識し合っている。それが私にはわかる。私だって梨花のことが好きなのに、梨花は私をそういう目では見ていない…このままだと、いつかふたりは互いの気持ちに気づいてくっついてしまう」 「……」 「私の知らないところで、いずれそうなってしまう…それが、我慢ならなかったんです。だから私は、航に相談しました。『梨花のことが好きなんだ』と」 「本山さんは…何と?」 「最初は戸惑っているようでした。しかししばらく考えて、彼は…『応援するよ』と言ってくれたのです」 「つまり、身を引いた…」 「私は、航がそうするとわかっていて相談しました。そしてその通りになった。翌日から梨花に猛アタックして、し続けて…私はついに梨花を手に入れました」  それからもしばらくは3人で遊ぶことが続いたが、やがて本山は生まれ育った街を離れたのだという。  あまりに自然なフェードアウトだったため、相原はそれが彼の気づかいだと気づかなかったようだ。 「でも私にはわかりました。邪魔にならないように、邪魔をしてしまわないように、私たちの前から姿を消したのだと。アイツは完璧だった。梨花に、自分たちのせいで街を出ることになったとは露ほども思わせなかった…」  その後で、西川はこう続けた。  本山 航ほど優しく、気持ちの真っ直ぐな男はいないと。 「だからあの事件が起きた時、私はこう思ったんです…あの時私が相談してしまったことで、私が梨花を奪ってしまったことで、航の心を歪めてしまったのだと。そうでなければ、あの航が人を殺すなんて…しかも女性を殺すなんてありえない…!」  西川がここまで言った時。  パタパタとスリッパの底を鳴らして、相原が戻ってきた。 「すいませーん、子どもたちが暴れて暴れて…」 「……」  彼女の接近に気づいた西川は黙り込み、耕作も素知らぬ顔を決め込む。  ふたりの様子を見た相原は、ためらいがちに尋ねてきた。 「あれ…なんか、タイミング悪かったですか?」 「ああ、いえ」  耕作はへらっと笑ってみせる。 「昔やってたアニメの話をしてましてね。女性キャラについてだったので、相原さんに怒られるんじゃないかと」 「ああ、大丈夫ですよ! 私もアニメ大好きですから…で、何のアニメだったんですか?」 「えーっと、確かタイトルは…『だぶりばっ!』でしたっけ?」  耕作が西川に尋ねると、彼は苦笑しながらうなずいた。  それからは和やかな時間となった。  相原が本山について語った時だけは沈んだ雰囲気になることもあったが、ほとんどが雑談で占められていた。 (まあ、ダンナの前で昔の恋を語るとかは…しねーか)  相原ひとりから話を聞きたい気持ちもあったが、西川がずっと彼女のそばにいたためにそれは叶わなかった。  どこかで、耕作が先ほどの話を相原にしてしまうのではないかと思う部分があったのかもしれない。 (話したはいいが、後で冷静になっちまう…まあ、よくあるパターンだな)  情報提供をしてもらったこともあり、耕作もわざわざふたりの前で暴露する気はなかった。  取材を終えてから帰宅した耕作は、動画配信サービスを使ってアニメ『だぶりばっ!』を見始める。西川が語っていた通り、テンポのよいラブコメディだった。  天川 まなみはその作品のヒロインであり、ショートボブがよく似合う快活な少女である。主人公の早川 宗太郎(はやかわ そうたろう)と、つかず離れずのドタバタ劇を繰り広げていた。  タイトルの由来は、ふたりの名字にある「川(りばー)」だった。だがその情報を動画の説明から知ったところで、耕作が作品自体に興味を持つことはない。 (俺もちょっと見てたかもしんねーな、これ…あんまし憶えてねーけど) 『だぶりばっ!』を流しているノートパソコンの画面を眺めながら、耕作はそんなことを考える。  その時、スマートフォンが振動した。  充電器から端末を持ち上げ、画面を見る。相手は「えとらんぜ」のマスターだった。  耕作は動画を止めないままヘッドフォンを外す。  スマートフォンの画面をタップすると、それを耳に当てた。 「…もしもし」 ”コウちゃん、今大丈夫?”  マスターの声は高めだった。耕作はすぐに返事する。 「ああ。いま家だからな」 ”あらそう、それならよかったわ。あのね、お客さんから美術館のチケットをいただいたんだけど、コウちゃん興味ある?” 「美術館?」 ”チケット2枚あるの。よかったら譲るわ” 「あんたは行かねーのかよ」 ”私はほら、そういうのあまり似合わないし…別に、一緒に行く人もいないし” 「……はあ」  耕作はため息をついた。  それを聞いたマスターが、不思議そうに尋ねてくる。 ”コウちゃん?” 「俺とあんたで行きゃいいじゃねーかよ」 ”えっ? でも…” 「あんたがイヤってんなら、強制はしねーが?」 ”イヤなわけないでしょ! 行くわ、いくいく!” 「じゃあ、そういうことで」 ”コウちゃん、やっぱりやさし” 「うるせぇ」  耕作は、通話を終了させた。  端末を充電器に戻すと、今もまだ『だぶりばっ!』が流れているノートパソコンを見る。 (天川 まなみ…かわいいってのはわかるが、これ見てても本山の動機がわかるとは思えねーんだよな…)  気乗りはしない。だが、見ずに判断するわけにもいかない。  彼はため息をつくと、ヘッドフォンを再び装着するのだった。  3日後、耕作とマスターは美術館にやってきた。  耕作はいつもと同じ濃淡混ざった緑だが、マスターはノータイでのジャケパンスタイルという服装だった。 「店よりもラフな感じなんだな」  耕作がぽつりと言う。それを聞いたマスターは、にこやかにこう返した。 「コウちゃんとおでかけだし、本当はもっとフォーマルにしたかったんだが…」  マスターの声は低めで、男言葉になっている。 「少しラフにしておかないと、悪目立ちしてしまうと思ってな」 「あーそうかい、さっさと行くぜ」  訊いたのは耕作だというのに、答えを聞くと興味なさげにそう言い放った。彼が足早に歩き出すと、マスターは慌てて後を追った。  平日にも関わらず、美術館には人が大勢いる。 (意外と見に来るヤツ多いんだな…)  閑散としているものと思い込んでいた耕作にとって、それは新鮮な発見だった。 「あ、コウちゃん」  低い声で、マスターが呼び止めてくる。耕作が振り返ると、彼は1枚の絵を指さしていた。 「あれ、もうちょっと近くで見ないか?」 「ああ、いいぜ」  ふたりは絵の前に立つ。それはベッドに寝そべる裸婦の絵だった。 「……」  マスターはじっと黙り込んでいる。  その横顔を、耕作はぼんやりと眺めた。 (あんまり熱心に見てると、勘違いされっぞ…)  そんなことを思いつつ、耕作も絵を鑑賞する。絵の中の女性は、物憂げな表情で画面の左下方向へ顔を向けていた。 (…今は美術品って言われてる絵も、当時はエロ本みてーなもんだったって…誰かが言ってたような)  耕作の目が、女性の体を這う。  しかし、視線に熱がこもることはなかった。 (エロ本にしちゃ、キレイすぎるんだよな)  彼は絵そのものから目を離し、額の下にある説明を読んだ。  描いた画家と時代背景について簡単に書かれていたが、耕作の興味をそそるような要素はまったくなかった。  美術館を出てから、ふたりはイタリアンレストランに入る。食事をしながら、耕作はマスターに尋ねた。 「『えとらんぜ』に戻った方が、リラックスできたんじゃねーのか?」 「それはそうだが…コウちゃんと出歩ける機会など、めったにないからな。せっかくなら、非日常をともに楽しみたい」 「なるほどな…っていうか、外でも呼び方は変わんねーんだな」 「変えた方がいいか?」 「いーや。話し方だけで充分だぜ」 「コウちゃん…」  マスターは苦笑いする。 「話し方が変わったところで、私は私だ。コウちゃんは何も心配しなくていい」 「心配なんざしてねーよ。それよりも、やけにあの絵をじっくり見てたな?」  耕作は、話を無理やり変える。  マスターはそれについて何か言いかけるが、一度ため息をつくと彼に付き合った。 「まあ…そうだな。あの絵が一番、女性の体を艶めかしく描き出していた」 「そうか? 俺はキレイすぎると思ったけどな」 「確かに欲情させるというものではなかった。そういう意味で艶めかしいのではなく…描いた者の心情があふれ出してるというか、そんな気がしたんだ」 「心情?」 「ああ。あの女性に対するものか、それとも女性そのものに対するものかはわからないが、あの絵を描いた者が持つ憧れというのか…そういうものが、鮮明に感じられた」 「憧れ…」 「これは完全に、私の思い込みでしかないが」  マスターはそう前置きすると、苦笑を混じらせながらこう続けた。 「もしかしたら、あの絵を描いた者は女性になりたかったのかもしれない…ふとそう思ったら、目を離せなくなったんだ」 「……!」  裸婦に対して、男性的な本能でも好意でもない感情を画家が抱いた。画家はすでに没して久しいため、本人から確認をとることはできない。  画家は女性になりたかったのかもしれない、だからこそ精緻に描いたのかもしれないというマスターの視点は、耕作が見た絵の説明には書かれていないことだった。  おそらくあの絵を研究している者の中で、そう感じる者は今までいなかったのだろう。  だが耕作は、マスターの見方を否定したりはしない。むしろ、素直に受け入れることができた。 (俺はそういう目で見てなかった…っていうか、想像もできなかったな) 「…? 食べないのか?」  考え込んでしまった耕作に、マスターが尋ねる。  耕作はハッと我に返ると、首を横に振る。自分の目の前にあるスパゲッティを、口の中にねじ込んでいくのだった。  数日後。  耕作は、本山が入っている刑務所に来ていた。 (この俺としたことが、いつの間にか知ったかぶりをキメちまってたとはな)  裸婦画について語ったマスターの言葉が、彼を猛省させていた。 (先入観でものを見るのは、ライターが一番やっちゃならねーことだ。なのに俺はそれをやっちまってた…アニメキャラのために人殺しをするかどうかは、そいつにしかわからねえことだ。俺が勝手に決めることじゃねえ)  そもそも自分がなんのために動いていたのかを、耕作はあらためて考えた。  本山がなぜ佐古田を殺したのか。警察ですらも調べるのをやめたそのことについて知るために、今まで動いてきたのだ。  原点に立ち返ったことで、枯れかけていた初心は息を吹き返し、耕作の胸奥に返り咲いた。 (俺は、俺が思い描く真実が知りてえんじゃねえ。ヤツがなぜそうしたのか…なぜそこまでしなきゃならなかったのか、『ヤツの真実』を知りてえんだ)  先入観を取り払うため、そして本山本人が持つ雰囲気を判断の基準とするために、耕作は刑務所に面会を申し出た。  申請はあっけなく通り、彼は今日、面会にやってきたというわけである。 (『時候の挨拶』を、欠かさずやってる甲斐があるってもんだ。さて…)  面会室に入る。椅子に座ってしばらくすると、ふたりの男が入ってきた。  ひとりは制服、もうひとりは囚人服を着ている。囚人服を着た男が、椅子に座らされた。  耕作の正面、アクリル板を隔てた向こう側にいるこの男こそが、本山 航だった。 (逮捕された時から、だいぶ…人相が変わったな)  それが耕作の第一印象だった。  以前調べていた時は、面会をする前に取材そのものを打ち切られてしまったので、実際に会うのは今日が初めてだった。  本山の姿勢は真っ直ぐだが、目の焦点が合っていない。  耕作を見ているようで、見ていない。  表情はなく、口元には無精ひげがまばらに生えている。それに似た密度で、髪には白いものが見えた。  やがて職員に面会の開始を告げられる。  耕作はまず、本山に自己紹介をした。 「はじめまして、本山さん。私は新田 耕作といいます…フリーライターをやってます」 「……」  本山は反応しない。  第一印象からそれは予測できたので、耕作は構わず続けた。 「あなたが起こした事件…というよりは、あなたがなぜ事件を起こしてしまったのか、という観点からいろいろ調べさせてもらってます」 「……」 「つまり私は、動機が知りたい」 「………」  本山の表情は、ぴくりとも動かない。  見開かれた目が一体何を見ているのか、耕作にはわからなかった。 (頭か心がイッちまったか、そのフリをしてるのか…まあ、どっちでもいいが)  待つのは得策ではない、と耕作は感じた。本山が、自分から何かを言い出すようには思えなかった。  それならばと、耕作はこれまでどういう場所に行ってきたかを語る。 「あなたが佐古田さんと立ち寄ったバーや、『釜原こどもホーム』にもうかがいました。相原さんと西川さん、元気にしてらっしゃいましたよ」 「……」  相原と西川の名前を出しても、本山は微動だにしない。 (取材をしてるって言った時点で、予測してたか…?)  それから耕作は、天川 まなみについて本山に尋ねた。 「バーで取材をした時に、天川 まなみの名前が出ましてね」 「………」 「私も見ましたよ、『だぶりばっ!』。20年前くらいのアニメですよね。リアルタイムでチラッと見たことがある気がします…といっても、西川さんやあなたほど夢中になっていたわけではありませんが」 「……」 「彼女のこと、佐古田さんにずいぶんひどく言われたようですね」 「………」 「もしかしたら、それが動機なんじゃないか…私はそう思ったんですが、どうですか? 本山さん」  この質問は、耕作にとって切り札に近いものだった。  しかし。 「……………」  本山は、何の反応も示さない。  まばたきすらしていないのではないかと思うほど、彼はまったく動かなかった。  結局、この面会中に本山が口を開くことはなかった。  彼は終始まったく同じ姿勢、まったく同じ顔の向きで、人間の肉でできた彫像と化していた。 (…まあいい)  耕作は、帰路につきながら思う。 (ヤツの雰囲気をじっくり感じ取れた。今はそれでいい…今はな)  言葉のひとつ、ため息のひとつも引き出せなかったことに関しては、悔しさがある。だが、それらを引き出すには準備不足であることを、耕作は最初からわかっていた。  今はまず、本山が持つ雰囲気を感じ取ることが重要だった。  取材の中でわかったことをその雰囲気と照らし合わせることで、真の動機をあぶり出していく。耕作は最初からそう決めていた。  彼は続いて、SNSや匿名掲示板をチェックし始める。 (んー…)  耕作本人は、こういったものをほとんど使うことがない。一般人が作り出した虚飾を追う趣味が、彼になかったからである。  だが今回は、それらを利用しようと考えた。そこにはこんな理由がある。 (いわゆるオタクの心理ってヤツ…それを、あらためてちゃんと見ておかねえとな)  自分から何かを発信するのではなく、同じ『場所』にいる者たちが発信している内容を見るために、彼は自身のアカウントを活用した。といっても具体的に何をするかといえば、検索をしてその先の発信を見るだけである。  彼はまず、『だぶりばっ!』について検索してみた。  昔のアニメにも関わらず、ある程度の投稿がある。 ”『だぶりばっ!』、やっぱり今見てもおもしろい” ”まなみちゃんかわいいなー” ”早くくっつけよって思うけど、くっついたら終わっちゃう…だからくっつかないでってなるけど、やっぱり早くくっつけよってなるぅ~不思議ぃ~”  動画配信サービスでいつでも見られるということもあり、往年のファンに加えて若い世代にもファンがいるようだ。 (二次創作にコスプレやってるヤツもいるのか…意外だな)  昔のアニメだから今はあまり知る者もいないだろうというのは、単なる先入観だったと思い知らされた。  次に、現行のアニメについてどんな投稿があるのかを調べる。  発信されている言葉や画像の数は『だぶりばっ!』の比ではなく、画面はまたたく間に熱い言葉で埋め尽くされた。 ”うおおおおおおおヒロインちゃんやばぁああい!” ”今度出るフィギュアも完成度がすげえ! 別のモンまで出ちまうぅ!” ”やめろ、思わず想像しちまっただろーが! でも気持ちはわかるでござ候” ”わかりるれ 汝もけっこう 好きよのう” ”見事な俳句(季語なし)” (いや季語なけりゃ俳句じゃねーし、そもそもわかりるれってなんだよ…)  過熱の果てに意味を失う言葉に呆れつつも、耕作はさらに投稿を見ていく。  その結果、キャラクターへの熱狂に性別は関係ないということがわかった。  制作側、いわゆる公式が設定した主人公とヒロインという組み合わせだけでなく、男性同士や女性同士、はたまた異形の生物や無機物との組み合わせを夢想する者までいる。  ただどの投稿からも、どこか性的なものが感じられた。 (自分のモノにしたいとか、キャラ同士仲良くなっていちゃいちゃしてほしいとか…そういうのばっかだな)  耕作は、それを踏まえた上で本山の雰囲気を思い出してみる。  と、脳内に大きなクエスチョンマークが現れた。 (本山が天川 まなみのことを好きだったとして…こういう感情だったとはどうにも思えねーんだよな)  女性である佐古田の顔を、形が崩れるほど殴るという本山の行為は、激烈を極めたものである。  しかし、本山が天川 まなみに対して抱いていた思いがそこまで激しいものなのか、それほど性的なものだったのかと考えると、どうしても疑問が浮かんできてしまう。 (まあ、このあたりはほぼ勘なんだけどな…でも、俺の中の何かがちがうって言ってる。本山がオタクだとしても、こういうオタクじゃねえはずだ)  耕作は、SNSを閲覧するアプリを閉じた。  スマートフォンを充電器に挿すと、座っていたソファにごろりと横になる。天井を見つめながら、本山について考えた。 (本山の交友関係は、警察がすでに調べ終わってる。ヤツは会社の人間以外とは付き合いがねえ。生活圏にいる人間とは挨拶を交わすくらい…連中にはいい人と認識されてたようだが、ただそれだけだ。深い関係になったヤツがいるわけじゃねえ)  しかも、会社の人間とも仕事の外では付き合いがなかった。  つまり完全に家と会社を往復するだけの人生であり、それ以外の遊びがまったくなかったということになる。 (いくら警察がネット関係はポンコツだっつっても、ある程度は調べられっだろ…なのにネットでも特に目立つことはしてなかったようだし、本当に普通…)  ここで耕作は、ふと思った。 (…普通か?)  本山は、誰に対しても優しかったという。  好きな女性を、幼馴染に譲ってしまうほどに。  不満を口にすることもなく、誰にも気づかれないうちに姿を消して。  ひとりになってからは、ただ仕事をするだけの毎日。 (女遊びも、煙草も酒も博打も…スポーツやゲームすらしねえで……何か夢を実現させるために動くってこともしねえ。ただ淡々と日々を積み重ねるだけの毎日……)  耕作は、ゆっくりと体を起こした。 (いや、普通じゃねーだろ)  人生に何の楽しみも見出さず、ただ仕事だけをして生きる。  家族はおらず、友人や恋人を作ろうともしない。  そんな本山の人生が普通だと、なぜ自分は思ってしまったのか。  あらためて考えてみると、これほどおかしなこともなかった。 (いや普通じゃねえ! 全然普通じゃねえよ!)  本山には、趣味と呼べるものがまったくなかった。  少なくとも警察の捜査が、そういったものを見つけ出すことはなかった。 (ヤツはただ生きてた…何もかも捨てて、ただ生きてた。人当たりがよくて人気だったのに、それを利用することもなくただ仕事して…何の楽しみもないまま生きてきただと? そんな人生が普通のわけがねえ!)  この時、彼の目がノートパソコンの画面を見た。  そこには匿名掲示板が表示されている。  いつの間にか自動で更新されていたようで、新しい投稿が目にとまった。 ”二次元の子っていうのはさ、こっちがどんなに好きだって言っても困らないし” (……!)  投稿を見た耕作の心に、衝撃が走る。  彼は思わず体ごと画面に近づき、続く言葉たちを貪るように読んでいった。 ”全然的外れな部分を褒めても、微妙な空気にならないのがいいよな” ”あーわかる。どんだけ重い気持ちをぶつけても、全然気づかないのがいいんだ” ”なんなら、ずっとこっちを認識しないでほしいっていうか” (これだ……これだ!)  耕作は、確信を得て身を震わせる。  その時だった。  スマートフォンが震える。耕作の目がそちらを向いた。 (電話…? あっ!)  画面に出た名前は、『証拠品管理』。  耕作はすぐさま端末を手に取り、それを耳に当てた。 「もしもし!」 ”どうも。例の件、ですがね……”  電話の相手は、耕作に何事かを語る。  それを聞いた彼の目は、これまでになく大きく見開かれるのだった。  それからさらに数日後、耕作は二度目の面会に来ていた。  彼の前に座らされた本山は、前回と同じく目の焦点が合っていない。 「本山さん」  耕作の声は、今までになく低かった。  真剣な目で本山を射抜く。  その視線すら相手は意に介さないようだったが、彼は構わず語り始めた。 「若い頃って、どうしてました? 俺はね、今以上にいろいろやらかしてました」 「……」 「誰かによくされても、恩返しなんてしようと思わなかったし…ナメたマネをするヤツには、徹底的に思い知らせてやる。そんなチンピラみたいな感じでやってきたんです」  そう言った後で、耕作は「今も似たようなもんですがね」と笑ってみせた。  しかし本山はまったく反応しない。  耕作は話を続けた。 「でも今は、自分が得するために『時候の挨拶』ってヤツを活用するようになったんです。お中元やらお歳暮、そして誕生日…相手によって贈るものを変えなきゃいけないってんで気をつかうし、金だってかかる。でもそのおかげで、いろいろ融通してもらえるようになりました」 「………」 「他の人を差し置いて本山さんとこうして会えてるのも、その『融通』ってヤツなんです」  耕作の言葉は、さらに勢いを増していく。 「こんなこと言って大丈夫なのか? って思うかもしれませんけど、大丈夫なんです。俺が何を言っても、あなたを連れてきたあの人は何も気にしないし、外に漏らすこともない。あなたが何を言っても、それは同じです」 「……」 「…ふう」  ここで、耕作はため息をつく。  以前の面会と同じく、自分の言葉に全く反応をしない本山に対して…  ではない。 「本来、俺がこんなネタばらしをする必要なんか、ないんですよ」  再び語り始めた耕作の声に、先ほどまでの勢いはなかった。 「でも、ここから先の話をするには…そうしなきゃならない。どういうことだと思います? 本山さん」 「………」  問いかけても、やはり本山からの返答はない。  だが耕作は構わず、苦笑を見せながら続けた。 「あなたの動機を調べるっていう仕事が、仕事じゃなくなっちゃったんですよね」  両手を広げて上下させ、何かを放り投げるジェスチャーをする。  その後で手を下ろし、どういうことなのかを語った。 「最初は、仕事でした。間違いなく、俺の仕事でした。前は上に止められましたが、今回どうにか機会を作って取材を進めてきました」 「……」 「というのも、やりかけのまま放り出したくなかったからです」  しかし耕作は、本山に放り投げるジェスチャーを見せた。  その動きには、このような意味がある。 「調べを進めるうちに、いろんなことがわかってきたんですが…あなたが完全黙秘を続けているおかげで、どこまでいっても俺の想像で止まってしまうんですよ。つまり、記事を書き上げたつもりが小説になってしまうんです…これは、俺の仕事じゃない」 「……」 「俺が出したいのはノンフィクションの記事であって、フィクションではないんです。しかも、わかった事実からしてこれ以上俺の手で調べることは難しい…警察にも難しいでしょう。あなたが語らない限り、事件の動機は永遠に謎のままです」  そう言うと、耕作はなぜか笑顔を見せた。  本山に対して、とてもすっきりとした顔で笑ってみせた。 「俺は、あなたに負けました。ネタばらしをしたのは、俺の敗北宣言…というわけなんですよ」 「………」  本山はそれでも、何かを返してくるということはなかった。  しかし、これまで合うことのなかった目の焦点が、わずかにこちらへ向いた。耕作には、そう感じられた。  その感覚に従って、彼はさらに言葉を続ける。 「なので、ここから先はライターとしてではなく、ひとりの人間…新田 耕作としてお尋ねしたいんです。もちろんあなたが何を言っても表には出ませんし、出しません。ライターとして負けたことが世間に出るのは、俺にとって致命傷ですからね」 「……」 「ともあれ、まずは俺がつかんだことを聞いてみてください」  耕作は、話を自身の事情から事件のことへと移していった。 「先ほど、『融通』の話をしましたが…」  そう言いながらスマートフォンを取り出し、真っ黒な画面を本山に見せる。 「実は警察内部にも協力者がいましてね。あなたのスマートフォンについて、こんなことを教えてもらいました…『消されたデータがある』と」  二度目の面会前に、耕作にかかってきた電話。それは警察内部にいる協力者、証拠品を管理する職員からのものだった。  耕作の話は、当然ながら本山を連れてきた刑務所の職員も聞いている。内容が内容であるため、この時点で面会を強制的に終了させられてもおかしくはなかった。  だが、職員の顔色に変化はない。  つまり、耕作が語った『融通』の話が真実であると、これ以上ない形で本山に証明してみせたことになる。  ただ、証明した本人はそのことに触れようとはしない。彼は話を先へ進めた。 「あなたのスマートフォンからデータが消された。では一体誰がそんなことをしたのか…」  耕作は、スマートフォン側面のボタンを押す。 「それはもちろんあなたです。本山さん」  画面が明るくなり、ある画像が表示された。それは耕作が本来設定している待受画像ではない。  アニメキャラクター、天川 まなみの画像だった。 「……」  画面の中から自分に向かって微笑む彼女を見ても、本山の表情が変わることはない。  それを見た耕作は、スマートフォンを相手に近づけながらこう言った。 「この画像は、『だぶりばっ!』第27話の1シーン…彼女を賭けたパン食い競走に宗太郎が勝利した直後、まなみが彼のがんばりに対して見せた笑顔です」  重要なのは、と耕作は続ける。 「俺がただ、この画像をあなたに見せているわけではないということ」 「……」 「この画像こそ、あなたが事件直後に消したデータ…そのことを俺が知っている、ということなんですよ。本山さん」 「………!」  焦点がほとんど合うことのなかった本山の目が、一瞬だけ泳いだ。  天川 まなみは『だぶりばっ!』のヒロインであるため、作品そのものを検索すれば画像はいくらでも出てくる。  耕作にただ提示されただけでは、その『いくらでも出てくる中の1枚』を見せられたに過ぎない。  しかし耕作は、画像をたった1枚に限定した。その上で、今見せている画像こそが消されたデータだと断言した。  この行動が、本山に気づかせたのだ。  目の前にいる新田 耕作というライターは本当に、自分のスマートフォンを解析したのだと。  そして度重なる証明が、本山の中に変化を生んだ。  泳いだ両目は、耕作に向いたところでぴたりと止まる。  焦点が、合った。 「……」 「………」  耕作と本山は、無言で見つめ合う。  沈黙の時間は数秒続いた。それが10秒に達する前に、耕作がため息をつくことで場の空気は変化する。 「…ただ、これは…」  耕作は視線を端末へ移し、静かに言った。 「もちろん、実物ではありません。ネットから引っ張ってきた画像です…さすがに解析したデータそのものを送ってもらうのは、俺にとっても協力してくれる人にとってもマズいのでね」  端末側面のボタンを押し、画面を真っ暗にする。その後で耕作は、チノパンのポケットにスマートフォンをしまった。  座り直すと、本山に顔を向ける。  相手を真っ直ぐ見つつ、また相手の目を真正面から受け止めつつ、再び語り出した。 「もし、スマホが完全に初期化されていれば…警察は躍起になってすべてを復旧させようとしたでしょう。しかしあなたはたったひとつ、このデータだけを消した。他はまったくいじっていない」  そのため、警察は端末を深く調べようとはしなかった。  有り余る物的証拠と、女性を殴り殺したことで噴出した人々の怒り。それらが本山を早々に被告人席へと送り、彼のスマートフォンをほとんど手つかずのまま証拠品置き場へと送った。  本山と天川 まなみの関係は、これによりほぼ完全に隠されることとなった。  告白の時を待ち望む藤倉という存在は残されたものの、その証言は本山が黙秘すれば文字通り黙殺することができる。実際に、最初の面会では耕作に対してそうしてみせた。  自分と天川 まなみとの関係を隠すということにおいて、本山は完全犯罪を成し遂げていたといえるだろう。 「でも、それは結果論です」  この完全犯罪に対して敗北宣言をしたはずの耕作は今、誰よりも近くにいる。  それは開き直りとは真逆の、真摯な積み重ねがなせる業だった。 「佐古田さんを殺害した後で、あなたは天川 まなみの画像を消し…警察に自ら通報した。画像を消したのが先か、通報が先か…そのデータは解析してないので、順番は俺の想像でしかありません」  耕作はそう前置きした後で、なぜ本山が自らを通報したのかについて言及していく。 「俺は最初、あなたが自首するつもりだと考えていた。しかしそうなると、やってきた警官を襲う理由がわからない」 「……」 「別の可能性も考えました。普段飲まない酒を佐古田に飲まされたおかげで酔っ払い、混乱していたのではないかと。警官を襲ったのは、捕まりたくないという思いと酔いが混ざり合っての行動…そう考えるとつじつまが合うような気が、します」  気が、する。  その言葉と区切った言い方は、耕作が表面的なつじつま合わせを良しとしていないことを表している。 「それで結論を出してしまってもよかったんですがね…やりかけの仕事ですらなくなったとしても、今回のことには真剣に向き合わなきゃいけない。俺はそう思ったんですよ」  ライターとしてではなく、ひとりの人間としてこの事件と向き合おうとしている。先ほど言ったことを、耕作はあらためて本山に伝えた。  二度目の面会において、耕作はまず自分から取材方法についてのネタばらしをし、それを本山に証明してみせる形をとっている。  カマをかけたり策を弄するのではなく、真正面からフェアに挑み続けるその姿勢が、本山の目に焦点を取り戻させた。  耕作はそれを確認した上で、さらに自身の思いを重ねて語っている。  その狙いは一体何か。 「ここから先は、調べたことから俺が感じ取った…想像でしかありません。ですが、事件の核心だと信じています」 「………」 「その話をした後で、俺はあなたに質問します。その質問に答えてくれれば、この話は完全に終わります。先ほど言ったように、ここでの会話はどこにも出ませんし、出しません。俺が何らかの形で発表することも絶対にありません」  耕作は、本山からの答えが知りたかった。  たった一言でいい、その答えを知るために彼から信頼を勝ち取りたかった。  これまでの話は、すべてそのための下準備だった。 「……」  本山は、口を開かない。  頭を縦にも横にも動かさない。  しかし、耕作を見ている。  焦点の合った目は、真っ直ぐに彼を見つめ続けていた。  それが答えだと判断した耕作は、ついに事件の核心について語り始める。 「この事件において重要なのは、天川 まなみというアニメキャラクターがあなたの中でどういう存在なのか…それを知ることだと思いました。前回お会いした時にあなたの雰囲気を憶え、それを踏まえた上で同好の士…つまりアニメ好きな人たちが、好きなアニメに対してどういう思いを持っているのか。それを俺なりに調べたんです」 「……」 「調査の結果、2種類の感覚があるとわかりました。ひとつは素直な好意。もうひとつは、3次元側がどれだけ好き勝手に思いをぶつけても、キャラクターは意に介さない…だからこそ思いをいくらでも深く、重く大きくすることができるという感覚」  耕作は、向こう側にいる本山に顔を近づける。 「あなたの雰囲気からして、前者は考えにくい。とすれば後者か……いや、そんな単純な話ではないと俺は考えました」  顔を離すと、ポケットからスマートフォンを取り出す。  画面を再び点灯させ、天川 まなみの笑顔を本山に見せた。 「この画像は、宗太郎に向けられたものです。しかし同時に、この笑顔は『自分のためにがんばってくれた者』に向けられたものでもある」 「……」 「天川 まなみと早川 宗太郎が結ばれるのは、原作で定められた運命。そこに自分を割り込ませようとは、最初から思わない…」  同じように、と耕作は続ける。 「相原 梨花と西川 和也が結ばれるのは、『原作』で定められた運命。そこに自分を割り込ませようとは、最初から思わない……この『原作』とは何か?」  耕作は、スマートフォンを下ろす。  本山の顔をじっと見つめ、こう言い放った。 「それはあなたの思いですよ、本山さん」 「……!」  本山の目が見開かれる。その顔は、明らかに驚いていた。  耕作の声に、力がこもる。 「幼馴染という関係を壊す気など、あなたにはなかった。相原さんを好きだという思いがあっても、自分が我慢しさえすれば3人全員が楽しい気持ちでいられる。あなたはそう信じた。だからそうし続けた…しかし、西川さんの相談によってそれは終わりました」 「……」  見開かれていた本山の目が、元の大きさに戻る。  だが平静を取り戻したわけではない。  耕作から目をそらそうとしては、彼のいる正面へ戻る。その動きが繰り返されていた。  当然、耕作にもそれは見えている。  だが彼は手応えに酔うことなく、語ると決めた言葉を口にした。 「あなたは、相原さんの幸せのために身を引いた。自分も好きだと言ってしまえば、3人の関係は最悪の形で壊れてしまう。それだけは防ぎたかった。だからあなたは身を引き、ふたりの前から姿を消した…彼女のために」  そう言うと、耕作は本山から視線を外す。スマートフォンの画面を見た。 「『自分のためにがんばってくれた者』…天川 まなみにとっては早川 宗太郎でしょう。しかし、相原 梨花にとっては本山 航だった。そう信じたい、思い込みたかった。だからあなたは、この画像を選んで待受にした。この画像でなければならなかったんです」 「……」 「3人が仲良くしていた時代、それが壊れるなんて思いもしなかった時代に見た、アニメのヒロイン…それが天川 まなみだった。あなたは彼女に、とても深く重たい気持ちを、相原さんを重ねたんです……!」  本山に顔を向ける。 「相原さん本人の写真を選ばなかったのは、どうしても西川さんの影がチラついてしまうからでしょう。いかにあなたが人格者だとしても、関係を壊す原因を作った彼に対して、どす黒い思いを一瞬でも抱かないなんて…そんなことがあるわけないんです」 「………」 「でも、どす黒い思いを解放してしまえば、相原さんが悲しむ。だからあなたは耐えた。天川 まなみの笑顔を相原さんの笑顔だと思い込むように自分で仕向けつつ、別の女性を重ねたことを天川 まなみに詫びながら…あなたはギリギリのところで、思いを抑えつけてきた。ずっと、何年も」  思いを抑えつけてきたこと。  これが、趣味も娯楽もまったくない本山の生活につながってくる。 「生きるために、仕事はしなければならない。しかし他の時間は、どす黒い思いを抑えつけることで精一杯になってしまった。何かをやろうとしても心から楽しめない。それは当然です、思いを抑えつけているんですから…それに気づいたあなたは、やがて無理に楽しもうとするのをやめた」  あふれそうになる思いを、抑えつける。  抑えつけるから、追い詰められる。  本山は、自分で自分を追い詰めるしかなかった。  それはピンと張って細くなった、糸のようだったろう。 「そんなあなたに、佐古田さんが目をつけた。人当たりがよく仕事もそつなくこなすあなたを、佐古田さんは有能な男性だと決めてかかった。しかしあなたはただ必死に生きていただけ…ただトラブルを避けるため、これ以上自分が追い詰められないようにするため、先手を打った結果『有能に見えていただけ』だった……」  普段飲まない酒を飲まされ、酔った拍子にそれが佐古田にバレてしまった。  悪い意味で期待を裏切られた佐古田は、偶然にも待受を目にしたことで天川 まなみの存在を知る。彼女がいなければ、彼はもっと価値ある人間になるのではないかと思い込んだ。  その結果、佐古田は天川 まなみを罵倒するに至った。アニメのキャラクターでしかない彼女など忘れて、自分に乗り換えろと本山に告げた。  今まで、ギリギリまで自分を追い詰めるしかなかった本山にとって、  張って細くなった糸にとって、  佐古田の無遠慮極まりない言葉は、黒光りするハサミだった。 「佐古田さんの言葉で、抑え込んでいた思いが暴発した…あなたは彼女を殺害してしまった。終わってしまってから我に返ったあなたは、事の重大さに気づいて警察に電話した。天川 まなみの画像を消して、警官の到着を待つ…その間に、あなたはあることに気づいた」  自首してしまえば、自分がどうなるのか。  そのことに、当時の本山は気づいた。 「許されないことをしたというのに、自首してしまえば…その分、罪が軽くなってしまうかもしれない。何より、せっかく相原さんを悲しませないよう耐えながら生きてきたのに、それを自分でダメにしてしまった…あなたはそれに気づき、敢えて罪を重ねるために、やってきた警官に襲いかかったんです」  ここで、耕作は一度大きく息を吐いた。  軽く呼吸を整えた後で、こんな言葉を添える。 「あなたが、天川 まなみの画像を1枚しか持っていなかったこと…これに関しては、いずれこうなってしまうことを薄々感じていたからだと、俺は考えています」  何かあった時に関連商品を持っていれば、世間がそれをネタにして天川 まなみを傷つける。  それだけでなく、天川 まなみに関するものが増えることで彼女に詫びる気持ちも増えてしまい、その申し訳なさで心が押しつぶされてしまう。 「だから、画像1枚あればよかった…相原さんの笑顔と重ねられる画像が1枚あれば、他には何もいらなかった」  ここまで言い終わると、耕作はまぶたを閉じた。  一瞬だけ唇を噛んでから、目を開く。鋭い眼差しで、本山をあらためて見つめた。 「本山さん」  名を呼ぶその声は、少しだけかすれている。 「これが、俺にわかったすべてです。証拠はない。ありません。俺の想像でしかないといえばその通りです……しかし、ただの想像ではないと俺は考えています」 「……」  本山は、反応しない。  だが、耕作が事件の核心を語り始めてから、ただの一度も完全に目をそらすということはしなかった。そらそうとはしたものの、結局そうすることはなかった。  耕作は真剣に語り、  本山は真剣に聞いた。  それを耕作は感じている。  信じることが、できている。 「教えてください、本山さん」  だからこそ彼は、尋ねることができた。 「俺が話したことは、正解ですか? 俺がライターとして負けた上で、それでも必死になって導き出した答えは、合っていますか?」 「……」 「教えてください!」  耕作は椅子から立ち上がると、本山に頭を下げる。  仕切り板のある台に額を打ちつけそうなほど下げられた頭は、何秒経っても上がらなかった。  しんと静まり返った面会室の外で、かすかに風の音がする。  それ以外の音は聞こえない。 (…くっ…!)  耕作は、まぶたを強く閉じる。  奇妙だと自分でも思うが、目を開けたままでは本山から回答を得られないような、そんな気がした。 「………」  やがて、その鼓膜を。  聞き覚えのない声が震わせる。 「ちがいます」  声は、面会室に凛と響いた。  耕作のものではなく、職員のものでもないそれは、間違いなく本山の声だった。 (…………えっ!?)  耕作は数秒遅れて、弾かれたように頭を上げる。向こう側にいる本山を見た。  本山は、真っ直ぐな目で耕作を見つめている。  表情は少しだけやわらかくなっているように思われたが、その口が再び動くことはない。  答えは、すでに示された。  それが変わることは、なかった。  耕作は、何もかもがわからなくなった。  二度目の面会が終わった後で、どこをどう歩いたのか…そもそも自分の足で面会室を出たのかどうかさえもわからなかった。  ただ、気づいた時には「えとらんぜ」にいた。  いつの間にか置かれていたコーヒーの香りが、自身の居場所を教えてくれた。 (…俺は……間違って、いたのか)  すべてを賭けて、あるいはすべてを捨てて臨んだ面会だった。  自分が持てるありとあらゆる想像力を駆使して導き出した答えを、ライターとしてのプライドを捨ててまで本山にぶつけた。  だが、答えは耕作が望んだものではなかった。  指摘も何もなく、ただ否定された。 (面倒なヤツを追い払いたいからそう言った、って感じじゃなかった…本山は真剣だった。だがそうなると、俺が間違ってたってことに………)  どこか一点を見るということが、できなくなる。今は耕作の目が、焦点を失っていた。  煙管と刻み煙草が入ったケースに、主の手が伸びることはない。腰にさげられたまま、小さく揺れる。  コーヒーも手つかずのまま、ただ冷めていく。 「……」  普段なら注意するマスターも、今は声をかけることができずにいる。耕作の落ち込みようは、それだけ激しかった。 「はあ…」  見ていられないと、マスターはため息をつく。自分まで気分が落ちてしまうのはよくないと、テレビに目を向けた。  その直後。 「……!」  マスターの顔色が変わった。 「コウちゃん!」  彼は両手で耕作の顔をはさみ、無理やりテレビへ向けさせる。 (あ…?)  耕作はぼんやりとした頭で、画面に表示されたテロップを読んだ。 「……な」  文字の意味を理解した直後、目に宿っていた淀みが瞬時に吹き飛ぶ。 「なんだと!?」  耕作は、叫ぶと同時に椅子から立ち上がる。  血相を変え、店から駆け出していった。  耕作が気落ちしている間に、外は暗くなっていた。  二度目の面会から、4時間以上が経過していた。  刑務所前に到着すると、黒山の人だかりができている。  彼はすぐに裏口へ回ったが、そこにも記者たちが詰めかけていた。 「…新田さん!」  近くの路地から呼ばれ、耕作はそちらへ向かう。  そこにいたのは、私服姿の職員だった。 「きっと、いらっしゃると思いました」 「本当なんですか、あれは!」 「はい…これを」  職員は、1通の封筒を差し出してくる。  耕作はそれを受け取ると、震える手で封を開けた。  丁寧にたたまれた便箋を開くと、1行目に小さい字でこう書かれている。 ”ありがとう”  ただ、それだけだった。  他に文字はなかった。 「私は仕事に戻ります…失礼します」  職員はそう言って路地から出ていったが、耕作には聞こえていない。 (なんだよ、これ…)  ひとり残された耕作は、文字を見つめている。  手の震えが、大きくなっていく。 (なんで、こんな…遺書なんか……!)  本山 航は、自殺した。 「えとらんぜ」のテレビで読んだテロップは、それを伝えるニュース速報だった。  刑務所前に詰めかけている記者たちも、その詳細が知りたくて押しかけている。  職員から耕作に手渡されたのは、本山の遺書だった。 (ありがとうって、なんだよ…! 何がありがとうなんだよ……!)  耕作は、歯を食いしばる。  そうしなければ、震え声が漏れてしまいそうだった。 (ちがうって言っただろ、お前…! ちがうんだったら、ありがとうとか書く必要ねーだろうが……!)  叫び出したかった。  それができれば、どんなに楽か知れなかった。  だがそれはできない。  耕作が叫んでしまえば、近くにいる記者たちに聞かれてしまう。  路地に大挙して押し寄せられれば、耕作には逃げようがない。  もみ合いになれば、本山の遺書がどうなってしまうかわからない。  耕作は、ただ心で叫ぶしかなかった。 (なんで死ななきゃならなかったんだ! なんで勝手に死にやがっ………えっ?)  心で叫ぼうとしていた言葉が、止まる。  耕作は、手の震えを無理やり止めて、もう一度遺書を見た。 (勝手に……?)  その言葉が意味するもの。  耕作は、すぐに気づいてしまう。 (死ぬことが、お前のわがままだったっていうのか)  両足から、力が抜ける。  耕作はよろけて、その場に座り込んだ。 (ずっと耐え続けるっていう義務から解放されて、ようやくお前は…自分のわがままを通した……わがままを通してもいいって思えたから、『ありがとう』………?)  この時、街灯の頼りない明かりが便箋の下部分に当たる。  耕作の目が、明かりに誘われる形でそちらに向いた。 「……!」  光が、雫の跡をあぶり出す。  跡がある場所とその周辺だけが、便箋本来の平坦を失ってわずかに波打っているのがわかった。 (これは…!)  一体誰が、便箋の下部分を濡らしたのか。  なぜ新しいものを使わず、濡れて乾いたことでたわみができてしまったものを使ったのか。 (本山……お前…!)  耕作は、気づいた。  彼の中で、すべてがつながった。  本山にとって平穏は拷問であり、死が迎えに来るまでずっと自らの心を殺し続ける時間でしかなかった。  そんな中でも彼は、城島のような近くにいる人たちを助けようとした。しかし彼が助けた人々は誰も、彼を助けようとはしなかった。  彼が拷問を受けているなどとは、思いもしなかったのだ。  抑えつけられた心が限界を迎えるとともに事件が起き、本山は自らに科していた拷問にさえも意味がなかったことを知った。彼の目は、焦点が合わなくなった。  そこへ、耕作が現れた。  耕作ただひとりだけが、思いを知ろうとした。  幼いころをともに過ごした西川ではなく、  想いを寄せていた相原でもなく、  日々を耐えるために思いと詫びを重ね続けたまなみでもなく、  仕事の仲間たちでもなく…  事件が起きなければ現れることのなかった耕作だけが、真剣に思いを理解しようとした。  その返礼が、たった5文字の遺書であり…  雫の跡とたわみが残された、便箋の意味だった。 (バ……!)  耕作の顔が、悔しげに歪む。  まぶたを閉じると同時に、涙があふれ出した。 (バカ野郎!)  便箋を、胸に当てる。  どんなに強く歯を食いしばっても、小さな嗚咽が口から漏れるのを止められない。 (何が…何がありがとうだ、くそったれがッ! 俺はちっとも嬉しくねえ! 俺はちっとも嬉しくねえんだよ!)  本山の遺書を抱きしめたまま、耕作はうずくまる。  遠くから聞こえてくる記者たちの喧騒は、苦しげな彼の嗚咽をそっとかき消すのだった。  それから3日後。  耕作は、年香出版の坂下を訪ねていた。 「なんだとこの野郎!」  以前も話をした会議室で、耕作は今回も胸ぐらをつかまれる。 「お前あの時、オレだけに原稿渡すっつっただろうが! なのに今さら原稿がねえとはどういうことだ!」 「坂下さん、学習してくれませんかね…撮ってるんですよ、動画」 「く…!」  坂下は、しぶしぶ手を離す。  耕作は緑のボタンシャツを両手で整えてから、床に落ちた濃い緑のチューリップハットを拾う。  それをかぶると、とぼけていると思われてもおかしくないほど軽い口調で、坂下にこう言った。 「仕方がないでしょう、記事としての整合性がなくなっちゃったんです。確認しようにも、本山はもういない…確かめようもありません」 「まず目を引きゃいいんだよ! 整合性とかどうでも…」 「だから撮ってるって言ってるでしょうが!」  耕作は、坂下の言葉をかき消す勢いで声を張った。  その後で、すぐに語勢を元に戻す。穏やかな口調で坂下をたしなめた。 「めったなことを言うもんじゃないですよ、坂下さん。あんたが自滅しようが構いませんがね、もうちょっと言葉には気をつけた方がいい」 「ぬぅ…」  反省したのか、坂下は何も言えなくなる。  そこへ、耕作は自身の流儀をからめつつ、できない理由を説明した。 「記事ってのは警察発表や証拠を踏まえてきっちり書くってのが、俺のスタンスです。俺には俺のやり方がある…俺にしかやれない方法を捨てちまったら、俺が書かなくてもよくなっちまう。そんなのはダメだ。だから、この話はなかったことにしてください」 「チィッ! 仕方ねえ…」  坂下は悔しげに言うと、耕作から離れた。出口方向へ向き直り、ゆっくりと歩き出す。  と、坂下のズボンから鈴のような小気味良い音がした。 「…?」  立ち止まり、ポケットからスマートフォンを取り出す。  画面をしばらく見つめていたが、やがて振り返らないまま耕作に尋ねた。 「お前…千鶴に何か送ったのか?」 「ああ、届きました?」  耕作は、とぼけた口調で返す。 「松宝(しょうほう)歌劇団のチケットがたまたま手に入ったんで、送らせてもらいました。千鶴さん、好きでしたよね?」 「ああ…」 「せっかくですし、今度の週末にでも一緒に行ってきたらどうです?」 「いや、友だちと行くらしい…その間もしっかり仕事をしろと言われ……い、いや、そんなことはどうでもいい」  坂下は、慌てた様子で言葉を濁した。ポケットに端末をしまうと、再び歩き出しながらこう続ける。 「一応、礼は言っておく。また次、何かあったら連絡してやるよ」 「稼げる仕事、お待ちしてますね」 「…クソッ」  小さく吐き捨てると、坂下は会議室を出ていった。  ドアが閉まる音を聞きながら、耕作は小さく笑う。 (持つべきものは、暴君を尻に敷く女王さま…ってか)  笑顔に、毒とトゲがのぞく。  しかしそれはどこか、苦笑じみてもいた。  年香出版を出た耕作は、その足で「えとらんぜ」に向かった。  店内にはマスターしかおらず、他に客はいない。  マスターは、店に入ってきた耕作を見て目を丸くした。 「コウちゃん、どうしたの? そのお花」  耕作は、店に来る途中で花を買っていた。  彼は片手に持っているそれを、無言でマスターに差し出す。 「え? え?」  受け取りはするものの、マスターには意味がわからない。  だが耕作は相手の戸惑いなど気にも留めず、カウンター席に腰を下ろした。 「コーヒー」  そう言いながら、煙管と刻み煙草の入ったケースをカウンターに置く。  吸う準備を始める彼に、マスターは困惑した様子で尋ねた。 「こ、コウちゃん…?」 「今度はちゃんと飲むからよ」 「……!」  マスターは気づく。  この花は、耕作なりの詫びなのだと。  心配させたこと、せっかく淹れたコーヒーを飲むことなく出ていってしまったこと、そのふたつを詫びるために耕作はわざわざ花を買ってきたのだ。  困惑に染まっていたマスターの顔が、満面の笑みに変わる。 「わかったわ。待ってて、とびきりのコーヒー淹れてあげる!」 「いつものでいいっての」 「あら! いつも一番おいしいコーヒーを淹れてるって、コウちゃんはわかってくれてるのね! さすがコウちゃん!」 「うるせえ! いいからさっさとしろ!」 「はぁ~い」  耕作に怒鳴られても、マスターは嬉しそうだった。  鼻歌を歌いながら準備する後ろ姿を見て、耕作は小さく笑う。 (なにはしゃいでんだ、バーカ)  そう思うものの、悪い気分ではない。彼は煙管を軽く吸うと、口から煙をゆっくりと吐いた。  ぼんやりとテレビに目を向ける。  音を消された画面からは、今日も悲劇が垂れ流されていた。 「はい、おまちどうさま」  マスターの声が聞こえたかと思うと、芳香が鼻をくすぐる。  カウンターに向き直ると、いつものコーヒーがそこにはあった。 「さんきゅ」  素っ気なく言うと、耕作は火種を処理する。その後で煙管を置き、カップに口をつけた。  じっくりと味わい、飲み下す。  マスターに顔を向けると、軽く笑いながら素直な感想を口にした。 「やっぱ、うめえな」 「ありがとっ! うふふ」  マスターは、嬉しそうに笑った。  純喫茶「えとらんぜ」は古い店である。  異邦人の意味を持つこの場所には、ふたりの笑顔が花のように咲いていた。    Fin.
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