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時は寛文十年(一六七〇)、第四代将軍家綱の治世。江戸は春爛漫で、花見客が行き交う千鳥ヶ淵も昼間っから酔客がお堀端の満開の桜の下で居眠りをしており、そこに野良犬が小便を掛けては通行人がそれを見て、笑うという何とものどかな風情である。その堀端から麹町への細道は花見客を目当てに露店や屋台が並び、老若男女で賑わっていた。
「今日はお天気も良いし、お堀端の桜も満開。素晴らしいす。ね、お嬢?」
目明し見習いで幼馴染みの与太郎が傍のお紺に声を掛けた。淡い水色が基調の小袖姿の島田も初々しいお紺は十七歳。この界隈を取り仕切る目明し文五郎親分の一人娘で、目鼻立ちがすっきりした可愛い系の美人であった。母親とはお紺がまだ幼い頃に死に別れ、文五郎やその大勢の子分たちの中で育ったためか、性格は男勝りの娘であった。
「与太郎。花見はもういいよ。わたしはお団子が食べたいの」
そう言いながら、お紺の足はご贔屓の団子屋へ向かっていた。
桜並木が続くお堀端から少し離れた町家の一画にお目当ての団子屋はあった。暖かな午後の陽射しに包まれた店先の縁台は他の娘たちにすでに占領されていた。仕方なく、お紺は開け放たれた戸口から団子印の暖簾を潜って店内に入った。広い土間に並ぶ食卓の一つについた時、お紺は奥の台所からひょいと出てきた若い男に目を見張った。
「へい。お嬢さん、いらっしゃい」
「おや。見慣れない顔だねぇ。名前はなんていうんだい?」
「佐吉と申しやす。弥平さんにお願いして今日からここで働くことになりやして」
そう言う佐吉の笑顔があまりに爽やかだったので、お紺はすっかり気に入ってしまった。
「おや、そうかい。だけど、その散切り頭はいったいどうしたの?」
佐吉の頭髪は町人髷ではなく、現代で言うショートカットであった。
「ああ、これですかい?実は、あっしは寺の修業が嫌で先月逃げ出して来た子坊主の成れの果てでして。まだ、髪が髷を結うまでに伸びてないんでさあ」
そう言って、またイケメンの佐吉は爽やかな笑顔を見せた。
「これはこれは、お紺さん。粋なお召しで今日は花見帰りですかい?お団子はいつもの特盛でよござんすね?」
佐吉の後ろから顔を出したのはこの店の主、弥平であった。
「弥平爺。大きな声で特盛なんて言わないでおくれよ。他の客がわたしのことをじろじろ見てるじゃないか」
お紺は顔を真っ赤にして、口を尖らせた。
「へっつ。やっぱりお嬢も食い気より色気ですかい」
お紺の右手の角に座る与太郎が、佐吉とお紺を見比べながら笑った。
「ふん。バカ言ってるんじゃないよ、与太郎。弥平爺、お団子はお前に任せたよ。わたしは食べても太らないたちなのさ」
そう言ながら、お紺はチラリと佐吉を見た。他の客たちより佐吉の心象が気になるお紺だった。
「それじゃあ、お紺さん。しばらく待ってておくんなさい。直にお茶とお団子を持ってまいりやすから」
お紺の気持ちが通じたのかどうかは定かでないが、佐吉はそう言い残すと弥平とともに奥にさっさと引っ込んでしまった。
「佐吉といったね。良い男じゃないか。これで、この店に来る楽しみが増えたわ」
お紺は独り言のように呟いた。
「でも、言葉の使いようがぎこちないし。頭の恰好といい、なんか胡散臭くねぇですかい?」
与太郎が十手持ちらしく、その鼻を利かせ始めた。
「まあ、色男というのは多分に胡散臭いものさ。それが女心をたまらなく引き付けるものなんだろうね」
腑抜けた声のお紺はすっかり佐吉にイカレちまったようだ。
「ところで、お嬢。いま、江戸の大店が次々と盗賊団にへぇられて千両箱を盗まれているっていう事件をご存知ですかい?」
与太郎が話題を変えた。
「ああ、お父つぁんがそんなこと話してるのを小耳にはさんだねぇ。それがどうしたってんだい?」
お紺は、十手取り縄の術を文五郎に幼い頃から仕込まれてはいたが、娘盛りになってしまうと稼業にとんと興味を持てなくなっていた。だから、与太郎の話題も上の空で聞き流すのが常だった。
「まあ、お嬢は興味がねぇかも知れませんがね。先だっても日本橋の河内屋さんが押し入られて三千両を盗られたんでやんすよ。河内屋といやぁ幕府ご用達の両替商ですからね。それで、町奉行所が直々に乗り出して、何と、十両の賞金が出たんですよ。十両っすよ」
「へえ。その盗賊をお縄にすれば、お奉行が十両の賞金を下さるっていうのかい」
そう言いながらも、お紺はこれまでお金に苦労したことがなかったので、十両の賞金なぞまったく興味がなかった。
「ところが、その盗賊団の首領が不知火お銀っていう女盗賊なんですよ。そのお銀は押し入る前に必ず予告の投げ文をするという噂なんですがね。それが本当なら警備を固めているはずだから、捕まらねぇってのはまったく解せねえ、不思議な話しじゃありませんかい」
「ふーん。そんな前触れがあれば、簡単にお縄にできそうなものじゃないか。よっぽど間抜けな岡っ引きが取り仕切っていたんだろうさ」
「まあ、そうかもしれませんね。この界隈で盗っ人を働こうもんなら、うちの親分が黙っちゃおりやせんからね」
話がそこまで来た時、お団子も到着した。佐吉がお紺の前に置いたのはまさしく特盛だった。四角い皿に焼団子を五つ串刺しにしたものが五本ずつ二段重ねになっていて、その上からとろりとした甘辛い醤油だれがかかっていた。
「おや。与太郎はお団子を頼まないのかい?」
早速一本手に取って、口に頬張りながら、お紺が与太郎の顔を見た。
「お嬢。おすそ分けを期待してたのに、そりゃあねぇっすよ。おい、佐吉。おいらは普通盛りだ。それから、熱いお茶とな」
「へい。かしこまりやした」
佐吉はまた爽やかな笑顔を残して、奥に引っ込んだ。お紺はその笑顔を見逃さなかった。
「まさにこれこそ、花より男子ってことだね」
そう独り言ちながら、お紺はさっさとお団子を平らげていった。だが、上の段の団子を食べ終わった時、小さな異変が起こった。
「ちょっと。なんだい?この大きな蠅は?」
陽気に誘われたのか、戸口から入って来た一匹の大きくて真っ黒な蠅がお紺の頭の上をブーンという不気味な音をたてて旋回し始めたのだ。
「えらく、でっけえ蠅ですね。お嬢の団子が狙われていやすよ」
所在無げに団子を待つ与太郎が、お紺をからかった。
その時、蠅はお紺の前にあるお皿の団子に向かって急降下してきた。お紺は咄嗟に両手で団子の上を覆った。蠅は再び上昇した。
「この野郎。わたしをなめるんじゃないよ」
そう叫ぶと、お紺はお皿の横に並んだ食べた後の団子の竹串をわし掴みにするやそれを矢継ぎ早に蠅に向かって投げつけた。
(ひーっつ)
蠅がそう叫んだかどうかは定かでないが、眼にも止まらぬ早業で投じられた二本の竹串は見事に蠅の両羽を貫き漆喰の壁に突き刺さった。竹串の間でジタバタ身悶えする蠅に与太郎が眼を見張った。
「お嬢。なんですかい、いまの技は?」
お紺自身も驚いた。
「団子可愛さに、夢中で投げただけのことなんだけどね」
だが、それは異変の序章に過ぎなかった。
「お紺さんに与太郎。てぇへんだぁっつ」
大声をあげながら、体躯のがっしりした男が血相変えて飛び込んで来たのだ。
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