お紺捕り物帖

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              ***  団子屋に飛び込んで来たのは、文五郎親分の子分の一人である平助だった。 「どうしたんだい、平さん。そんなに慌てて」  お紺は立ち上がって、大柄な平助の傍に歩み寄った。よっぽどあちらこちらを走り回ったと見えて、汗まみれの平助は息が上がっていた。与太郎が慌てて、平助を自分の席に座らせた。 「弥平爺。すまないがお水を一杯おくれでないか?」  お紺は店の奥に声を掛けた。  奥から佐吉が湯呑み茶碗に水を満たして出てきた。 「さあ、これをどうぞ」 「ありがとうよ、佐吉」  お紺はその水を受け取ると、ゼイゼイ言っている平助の左手に持たせた。平助はそれを一気に飲み干した。 「ふあーっつ。死ぬかと思いやした」  一息ついた平助の第一声だった。 「それで、どうしたんだい。なにが大変なんだい?」  お紺は平助の顔を覗き込んだ。与太郎も佐吉も平助に注目した。 「ああ、お紺さん。探しやしたよ。花見に行くってぇから、お堀端の一帯を駆けずり周りやしたよ。やっぱり、この団子屋におられたんでやんすね」 「そうかい。そりゃあ大変だったね。平さんの大変ってのはその大変だったのかい?」  平助は何のことだったかしばらく考えている様子だった。そして、ポンと手を打った。 「いや、あっしの大変はその大変じゃねぇほうの大変なんでやんすよ」 「だから、お前の大変はどんな大変なんだね。ほんと、じれったいね」  お紺はそう言って、右手でぴしゃりと平助の頬を張った。 「てっつ。そう、親分が、文五郎親分が倒れなすったんでさあ」  平助の言葉に、お紺も与太郎も声を失った。 「親分が倒れなすったって、いったい何があったんですかい?」  部外者ゆえの冷静さから、佐吉が尋ねた。 「それが、朝の見廻りを終えて親分が玄関の敷居を跨ごうとした時に、突然、何かにけつまずくようにして前のめりに倒れなすったんでさあ。あっしは親分の見廻りにはなからついて廻っていたのでびっくり仰天しちまって、家にいた文三にすぐ医者の玄斉先生を呼びに行かせたんでさあ。そして、あっしは親分を上に担ぎ上げて床に寝かせてから、お紺さんを探しに出たという次第でさあ」 「平助、分かったわ。ありがとう。お前はここで少し休んでいきなさい。与太郎、急いで家に帰るよ。佐吉。これはおあいそだよ」  そう言って、お紺は佐吉に銭を多めに手渡すと。脱兎の如く団子屋の外に飛び出した。与太郎も遅れじとお紺の後を追った。  麹町の町家の一画にお紺の家はあった。玄関は広くて、土間の先の上がり框から廊下を隔てて正面奥に障子を開け放った文五郎親分の部屋があった。神棚を背に長火鉢がある十畳ほどの座敷で、ここが目明し稼業の事務所のような役割の部屋だった。その部屋を左手に見て廊下を奥に行くと、居間とお紺の部屋があった。文五郎はその居間に敷かれた布団の中で仰向けに眠っていた。枕元には文五郎とは昔から懇意の関係にあって近所に住む漢方医の伊藤玄斉が難しい顔付きをして座っていた。 「玄斉先生、お父つぁんの具合はどうなんですか?」  居間に飛び込んできたお紺が玄斉に詰め寄った。 「おお、お紺さん。うむ。何とも言えんなあ」  そう言って、玄斉は文五郎の腕を取りながら深いため息をついた。 「何とも言えないって、死んじゃうってことですか?」  お紺は文五郎の床を回って、玄斉とは反対側の枕元に座った。 「いや、そう言うわけではないんだが。実のところ、わしにもよう分からんのじゃよ。こんな病人は初めて見たからのう」  お紺は、普段は気丈夫な文五郎の血の気を失った寝顔を見て、不安になり涙が出てきた。 「お父つぁんにもしものことがあったら、わたしどうしたらいいの?」 「玄斉先生、あっしにできることがあれば何でも言っておくんなせえ」  居間の入口に突っ立ている与太郎が声を掛けた。 「うむ。文さんの心の臓はしっかりしているので、ぽっくり逝くことはあるまい。ただ、意識が回復してからでないとはっきりしたことは言えんが、このまま寝たきり状態になる可能性が高いと思われるな。もう、目明し稼業はできぬということだろう」  玄斉の言葉に、お紺と与太郎が驚いた。 「えっつ。それじゃあ、この家はどうなるの?」 「お紺さん。わしは目明し稼業のことはよう分からんが、その時は左近殿に相談するのがよかろう」  玄斉の言う左近とは、文五郎を長年手先にしてきた北町奉行所定廻り同心酒田左近のことだった。 「そうですね。わかりました」 「それでは、一先ずわしは引き上げるが、文さんの意識が戻ったらまたわしを呼んでくれ」  そう言って、玄斉は医療の道具箱を小脇に抱えて帰って行った。玄関前まで玄斉を見送ったお紺と与太郎は居間に戻って、文五郎の枕元に座った。 「お嬢。困ったことになりやしたね」  文五郎の顔色を伺いながら、与太郎が布団を挟んで反対側に座るお紺に声を掛けた。 「お父つぁんは余り貯えのない人だから、取りあえず玄斉先生にお支払いする薬代だけでもわたしが工面しないとね」  お紺は亡くなった母親の代わりにこの家の切り盛りをしてきたので、生活力には多少の自信があった。だが、与太郎の不安は他にもあった。 「お嬢。問題なのは、平助さんたち子分衆のことですよ。文五郎親分が再起不能と分かりゃあ、みんなここには寄り付かなくなりやすよ」 「そうだね。それは仕方のないことだろうよ。みんな日々の生活が掛かっているからね。明日にでも、わたしからみんなに話をするわ。だから、与太郎。お前もわたしやお父つぁんに義理立てすることはないのだから、自分の好きなようにこれからの身の振り方を考えておくれ」  お紺は世話になってきた子分たちにこれ以上の無理は頼めないと思い、気丈にふるまおうと決心していた。 「お嬢。おいらだけでも、今まで通りの働きをさせておくんなせえ。なーに。おいらのおっかあだって、文五郎親分には大変なお世話になってきたんだ。親分がいけねぇからって、はいそうですか。さようならってわけにゃあいきませんよ。そんなことでもしたなら、おいらがおっかあに愛想つかされちめぇやすよ」  そう言って、与太郎は笑った。与太郎は近所の裏長屋に母親のお徳と二人暮らしをしていた。まだ、与太郎が小さいときから、文五郎は与太郎親子を自分の身内のように面倒を見てきていたのだった。一人っ子のお紺も同い歳の与太郎を実の兄弟のようにして育った。 「ありがとうよ、与太郎。お前だけでもそう言ってもらえたら、わたしもどんなに心強いかしれやしない。それじゃあ、気の毒だけどこれからもよろしく頼みますよ」  そう言いながら、お紺はうれし涙を流した。  翌日、お紺は神棚と長火鉢がある部屋に平助たち子分衆に集まってもらい、文五郎の容態や目明し稼業は当分の間休業せざるを得ないことを説明し、文五郎の貯えからそれぞれに手向けの金子を包んで手渡した。そして、子分衆は泣く泣く文五郎に別れを告げて、去って行った。一人、与太郎だけが残った。その後、お紺が玄関とは板塀で仕切られた土間続きの台所でお昼の支度をしていると、与太郎が慌てて居間の障子を開けて出て来た。 「お嬢。親分が、目を覚ましやした。おいらはひとっ走り、玄斉先生を呼びに行ってきやす」  子分たちが去って意気消沈していたお紺には朗報だった。 「なんだって、お父つぁんが気がついたのかい」  そう叫ぶと、土間から小走りで文五郎のいる居間へと急いだ。
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