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お紺が居間に掛け込むと、文五郎は寝床の中から必死に起き上がろうとしていた。がっしりした体躯の文五郎が立ち上がることも出来ない有様に、お紺はしばし呆然とした。
「お父つぁん。無理をしちゃあいけないよ。いま与太郎が玄斉先生を呼びに行ったから、布団の中でじっとしといておくれ」
そう言いながら、お紺は文五郎が寝床に着くのを介助した。
「いったい、俺はどうしちまったんだ。全身が痺れたように身動きがとれねぇや」
お紺が整えた枕に頭を乗せながら、うわ言のように呟く文五郎の眼には悔し涙が溢れていた。昨日の朝までは粋で男伊達だった文五郎の変わり果てた姿に、お紺も思わずもらい泣きした。
「本当にどうしちまったんだろうね。お父つぁんは悪人どもが震え上がる文五郎親分なんだから、気持ちだけでもしっかりしておくれよ」
「すまねぇな、お紺。こんな身体になっちまってよ。情けねぇ俺を許してくんな」
そう言って文五郎が差し出す弱々しく震える手をお紺は両手で握りしめた。
間もなくして、与太郎が医療の道具箱を抱えた玄斉を連れて戻って来た。
「おおう。意識が戻ったようだな。どうだ、文さん。痛みはあるかな?」
文五郎の枕元に座った玄斉が話し掛けた。
「痛みは無ぇんだが、どうにも全身が痺れたように力が抜けて、身動きできねぇんだ」
「ううむ。これはやはり奇病だな。何かがお前さんに取りついたとしか思えん症状だ。しばらくは様子を見るほかないのぉ。しかし、寝たきりでは今度は身体の筋肉の方が鈍って、本当に歩けなくなるだろう。お紺さんの介添えで、これから毎日、少しずつでも体を動かすことに心掛けねばならんぞ」
そう言って、玄斉は反対側の枕元に座るお紺の眼を見た。
「わかりました、玄斉先生」
「それから、栄養も取らねばなるまい。滋養強壮に効く高麗人参が良いのだが、これは高価でのう」
「どんなに高価でも構いません。わたしが薬代は工面しますから、どうかお父つぁんにそのお薬を飲ませてやってくださいませ」
「そうか。うむ。それでは、そういうことにしよう」
そう言って、玄斉は道具箱から薬包みを取り出してお紺に手渡した。
「これを煎じて朝と晩に、食後飲ませてあげなさい。十日分あるがこれだけで二分かかる」
「えっつ。二分?一両の半分も?」
一両は米一石(約百五十キロ)の価格ということで、それを基準にすれば一両は今のお金で約八万円相当の価値となり、その半分は四万円というところか。因みに、一両は銭四千文だから一文は二十円相当。当時は健康保険も無かったので、実費全額負担はお紺にとって厳しかった。
「うむ。いかにも高価じゃ。どうするかな、お紺さん」
「い、いま。そんな大金を支払うことはできませんが、このお薬が無くなる十日のうちにきっと工面してみせます。だから、そのお薬は置いて行ってください。お願いします」
そう言って、お紺は両手をついて玄斉に頭を下げた。文五郎はお紺の苦境を見て、改めて自分の不甲斐なさを思い悔し涙にくれるのだった。
そして翌日の朝、お紺が台所で文五郎のために粥を拵えていた時、玄関の戸を叩く音がした。お紺は戸締りをしたままになっていたことを思い出し、廊下を小走りで玄関に急いだ。
「はい、どなたさまでしょうか?」
お紺が上がり框から、引き戸の向こうに映る人影に声を掛けた。
「おお、早朝からあい済まぬ。わたしだ。酒田左近だ」
「あっつ。左近さま。お待ちください。いま、閂を外しますから」
お紺は慌てて、土間に素足で飛び下りると心張棒を外して引き戸を開けた。玄関先には紺の着流しに海老茶の羽織を着けた二本差しの侍が立っていた。鑑札を与えて長年、文五郎を手先の目明しとしてきた北町奉行定廻り同心の酒田左近だった。
「お紺。文五郎が倒れたと平助から聞いて、八丁堀の役宅から急いでやって参った。どうだ、文五郎の容態は?」
「それが、寝たきりで。いま、お粥を食べさせようとしてたんです。どうぞ、上がって、お父つぁんを見てやってくださいませ」
お紺の勧めに頷き、左近は大刀を腰から引き抜くと左手に掴んで文五郎の居る居間へ入った。寝床に伏せていた文五郎は左近の顔を見ると、慌てて起き上がろうとした。お紺は急いで枕元に座り、文五郎が上体を起こすのを支えた。左近は文五郎の傍に座り、手を握った。
「文五郎、どうしたということだ」
文五郎の変わり果てた姿に、左近はそう言うのがやっとだった。
「酒田様、面目ねぇこってござんす。しばらくはお役目を全うすることができそうにありません」
そう言って、文五郎は大粒の涙をこぼした。
「うむ。お役目のことは考えずとも良い。まずは身体をいとうことだ」
それからしばらくして、左近は帰って行った。別れ際に、左近はお紺にこれからのことは後日改めて相談に参ると、言い残した。お紺は有り金をはたいて子分たちに気前よく餞別を分け与えてやったので、これからの生活のことを考えると急に不安になってきた。
だが、その日の午後思わぬ福の神がやって来た。お紺と同い歳の幼なじみで親友のお咲が見舞いに来たのだ。お咲は老舗の呉服問屋『伊勢屋』の主、清兵衛の一人娘で、器量が良く家柄も良いことから近くのお大名屋敷、秋月藩の御女中見習いを仰せつかっていた。お咲は小さいときに母親を亡くしていたので、お紺とは同じ境遇だということで特に親しかった。清兵衛と文五郎も幼馴染みだった。
「お紺ったら、こんな大変なことになってるなんてひと言も言わないから、うちのお父つぁんから聞いて、飛んできたのよ」
玄関先で、お咲の第一声がこれだった。
「ごめんなさい、お咲。あまりに急なことだったし、お父つぁんの看病とか色々あったのよ。でも、お見舞いに来てくれてありがとう」
そう言って、お紺はお咲を自分の部屋に通した。お紺の部屋は四畳半だったが、押入れや棚があって、部屋はきちんと整理されていた。障子の開け放たれた縁側からは、小さな裏庭の植え込みに花目を付け始めたツツジが臨めた。お紺が勧めた赤い座布団に座ったお咲は、風呂敷包みを開けて桐の小箱を取り出した。
「これ、つまらないものだけど。お見舞いの品なの。最中よ。うちのお父つぁんが文五郎親分は甘いものには目がないと言っていたので。評判のお店のを取寄せたのよ」
「ご丁寧に。ありがとう、お咲。お父つぁん、きっと喜ぶわ」
「ところで、何か困ったことはないの?わたしで良ければ、力になるわ」
お紺は少し考えた。
「わたし、これからの生活が不安なの。だから、どこかに働きに出ようと思っているの」
「文五郎親分の看病はどうするの?」
「そうなの。それが問題なのよ。わたしも身体一つだからね」
お紺が笑った。その時、与太郎がヒョイと開け放れた襖の向こう側から顔を出した。
「親分の看病なら、うちのおっかあが内職の合間にやりますよ」
「与太郎、それじゃあ、お徳さんに気の毒だよ」
お紺が振り返ると、与太郎の後ろで微笑んでいるお徳がいた。
「お嬢さん、与太郎の言う通りですよ。親分に受けた御恩への何程のお返しにもなりませんが、わたしにもお手伝いさせてください」
「お徳さん。ありがとうございます」
そう言って、お紺はお徳に向かって深々と頭を下げた。
「お嬢さん、いけませんよ。お顔をあげてくださいませ。そんな大それたことは出来ないのですから」
「それでは、良かったら二階の部屋のどれでもお徳さんが自由に使ってください。子分衆は皆、出て行ってもらったので、空いているんです」
お徳の親切に甘えることにして、お紺は働きに出る決心をした。
「お紺。それなら、わたしのお父つぁんのお店で働くと良いわ。わたしが一緒に頼んであげる」
そう言うと、お咲はお紺の右腕を掴んで立ち上がった。
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