7人が本棚に入れています
本棚に追加
***
伊勢屋は大通りに軒を連ねた店々の中でもひと際目立つ大店だった。お紺はお咲に引き回されるようにして、内玄関から上がり込み番頭や手代、小僧たちが客先相手に忙しく立ち働く大広間の側を通り、奥へと続く廊下をずんずん歩いて行った。一番奥に主、清兵衛の居る部屋があった。
「お父つぁん。お咲です。頼みがあります。入って良いですか?」
お咲は障子の前の廊下に正座して、声を掛けた。お紺はその傍に佇んだ。
「おお、お咲か。入りなさい」
お咲は障子を開けると、お紺を伴ない部屋に入って再び正座し、障子を閉めた。
「なに、お咲の頼みごととはお紺さんのことかい?」
そう言って、清兵衛は二人に自分の正面に並んで座るよう促した。清兵衛は文五郎より一つ年上の四十歳で、枯山水の掛軸が掛かった床の間を背にして文机に向かい帳簿の整理をしているところだった。
「そうなの。お父つぁん。お紺をこのお店で働かせて欲しいの。そうでしょう、お紺?」
お咲の言葉に、お紺は頷いた。
「清兵衛さん。わたしお金が必要なんです。何でもいたします。ここに置いてやってくださいませ」
お紺の真剣な眼差しに、清兵衛は心を打たれた。
「お紺さん。文さんの容態がよっぽど悪いんだろうね。心配なことだね。良いだろう。お紺さん。住み込みで構わないのなら、うちの隠居の世話をやいてもらえないだろうか」
「ご隠居さまというと、お蘭さまのお世話ということでしょうか?」
「うむ。わたしのおっ母さんだ。数えで六十歳になる。すこし気難しいところもあるかも知れないが、お紺さんにおっ母さんの身のまわりの世話をお願いしたいんだがね、どうだろう?」
「わかりました。ぜひやらせてくださいませ。よろしくお願いします」
そう言って、お紺は両手をついて頭を下げた。
お咲に案内されて、お紺は渡り廊下を通り離れにある隠居部屋の前に着いた。小奇麗な造りの内庭の桜は満開を過ぎて散り始めていた。お咲は障子の前に正座して声を掛けた。
「お祖母さま。お咲です。お祖母さまのお世話をすることになりました女中のお紺を連れて参りました」
しばらくして、障子の向こう側から艶のある声で返事があった。
「お咲かい。それは大儀なことですね。中にお入りなさい」
「それでは、失礼します」
お咲は障子を開けて、お紺を伴い部屋に入った。八畳敷きの部屋中央で、座敷机に向かうお蘭は床の間に飾る生け花の最中だった。
「ちょいと取り込み中でね。いまに片付くからそこに座って待ってておくれでないか」
お蘭は生け花から目を離さずに、二人に声を掛けた。お紺とお咲は、座敷机を挟んでお蘭の正面に並んで座った。白磁の平花瓶に置かれた剣山に、お紺が見たこともない美しい花々が次々と配置されて行った。そして、生け終わった花瓶を床の間に置くと、お蘭はさっさと後片付けをして、二人に向かい合った。
「待たせたね。お前がわたし付きの女中かえ」
「はい。麹町の文五郎の娘で、お紺と申します。よろしくお願いします」
お紺は両手をついて挨拶した。
「おや、どこかで見た顔と思えば文五郎親分の娘さんかい。そりゃまたどんな事情で、女中勤めをやろうというのだい?」
お紺は、文五郎の突然の病いのことを掻い摘んで説明した。
「そりゃあ、災難だったね。まあ、行儀見習いのつもりで、わたしの話し相手になってここにいたら良いさ。わたしは、夫の先代清兵衛が亡くなってから、女のひとり隠居の身分だから気楽なものさ。わたしの外出する時にお供なぞしてもらえたら、それも助かるね」
そう言って、お蘭は高笑いした。
お紺は女中部屋ではなく、お蘭の隠居部屋とは廊下伝いで隣接する四畳半の座敷に住まうことになった。それでも、手荷物を持って移り住んだ翌日の早朝から隠居部屋の担当という以外、掃除、洗濯、炊事と他の女中たちに混じって忙しく立ち働くことに変わりはなかった。お紺が伊勢屋で働き始めてから五日後の早朝、与太郎が訪ねて来た。お紺が竹ぼうきを持って桜の花びらが散乱する内庭の掃除をしているところに、与太郎はヒョイと現れた。
「おや、与太郎じゃないか。どうしたのさ?」
お紺は奉公の辛さを感じ始めていただけに、与太郎の顔を見て嬉しくなった。
「お嬢。ちょいと話があって、参りやした」
「そう。じゃあ、わたしの部屋へ行きましょう」
お紺と与太郎は内庭を回って縁側から上がり、お紺の部屋に入った。
「それで、話ってのはなんだい?」
お紺が奥の正面に座り、相対して座る与太郎に話し掛けた。
「へえ。実は今朝方、酒田左近様が訪ねて見えられやして。文五郎親分とおいらでご用件を伺ったんですが。文五郎親分のシマは当分、四ツ谷下の寅蔵親分が見るということになったそうなんでやす」
「えっつ。寅蔵親分が?」
「まあ、同じ酒田左近様の手先ですがね。あの親分、前々からうちの親分のシマに色気を出していやしたからね。これ幸いと、色々手を回しての上司のご採決だろうと坂田様もぼやいておられやした」
「そうかい。まあ、うちのお父つぁんが回復するまでは、辛抱するしかないね。それはそうと、お父つぁんの按配はどうだい?」
「それはうちのおっかあが見てますが、余り変わりはありません」
「そう。それで、お徳さんと与太郎はうちの二階を使ってくれているのかい?」
「へい。お嬢のお言葉に甘えて、先日、長屋を引き払って、親子で二階に移り住んだところでやす」
「そうかい。本当に何から何までお世話になるけど、よろしくお願いしますよ」
「お嬢。めっそうもねぇ。それより、お嬢の方こそ、慣れない奉公で困ってはいませんかい?」
「まあ、楽な仕事はないって言うからね。奉公先があるだけでも有難いことさ」
与太郎に苦労は見せまいと明るく笑ったお紺だったが、気掛かりなことが一つあった。
「ただね、与太郎。お父つぁんの薬代の二分をあと五日のうちに工面しなきゃならいのさ。伊勢屋さんには奉公した矢先で、お給金の前借りというわけにもいかないからね。どうしたものかねぇ」
「二分でやすか、大金すね。でも、待てよ。どこかで金二分という話を見たような、聞いたような気がするなぁ。あれー、なんだっけかなぁ」
「えっつ。何かあてでもあるのかい?」
お紺が身を乗り出し、与太郎がポンと手を打った。
「ああっ。そうだ。そうだ。お嬢と行った団子屋だ。あそこの前を昨日通ったら、『団子の大食い大会』という立て札がありやしてね。優勝者には金二分を進呈とか書いてありやしたよ。確か、開催は今日の昼過ぎでしたよ」
団子と聞いて、お紺の眼が輝いた。
「団子を好きなだけ食べて、金二分がいただけるのかい。そりゃあ、願ってもない吉報だよ、与太郎」
「それじゃあ、これから出掛ければ、充分間に合いますよ」
だが、お紺は困った顔をした。
「やっぱり、行けないよ。奉公人は藪入りとか特別の日を除いては休めないし、勝手に出歩くのもままならないのが決まりごとだよ」
「そうでやしたね。残念すね」
与太郎がため息をついた時、突然、廊下の障子がガラッと開いた。お紺は驚いて顔を上げた。
「若い男の声がすると思えば、わたしに隠れてお紺が部屋にその若いのを連れ込んだのかえ?」
そう言いながら、仁王立ちしてお紺を睨み付けたのはお蘭だった。
最初のコメントを投稿しよう!