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お紺は、お蘭の突然の出現に驚いた。
「ご隠居さま。あっしは決して怪しいものではござんせん。あっしは文五郎親分の子分で目明し見習いの与太郎と申しやす」
与太郎が必死にこの場を取り繕おうとした。
「ほう、そうかい。だがね、女中が主に無断で若い男を部屋に連れ込んでいるんだ。どんな了見かそれを知りたいね。えーっ。お紺」
お蘭の怖い眼はずっとお紺に注がれたままだった。
「誠に申し訳ありません。お蘭さま。わたしの了見違いでございました。どうか、お許しくださいませ」
お紺は畳に額を摺り付けて許しを乞うた。与太郎もお紺の左後ろで彼女の難儀を招いた責任を感じながら、ただ両手をついて頭を下げるしかなかった。
「まあ、いいでしょう。今回だけは大目に見ようじゃないか。奉公人にはそれ相応の守るべきわきまえというものがあるからね。それを踏み外す前に、主に相談することだ。わかったね、お紺」
「ありがとうございます。お蘭さまのお言葉、肝に銘じます」
そう言って、お紺はさらに平伏した。お蘭はニヤリと笑った。そして、部屋に入って来てお紺の前に座った。
「ところで、お前たちが話していた団子大食い大会のことだけどね。わたしも出掛けるから支度を手伝っておくれ、お紺」
「えっつ。お蘭さまが団子の大食い大会に出られるのですか?」
驚いたお紺は顔を上げて、お蘭を見た。
「わたしは団子の大食いなんてできる年じゃないよ。ただ、あそこの弥平がわたしに審判役をやってくれと言って来ているんだよ。まあ、弥平とは古い馴染みだからね、断れないで引き受けたという訳さ」
そう言って、お蘭は大声で笑った。お紺と与太郎は呆気に取られた。
その時、清兵衛が慌てた様子でやって来た。
「ああ、こんなところにいたのか、おっ母さん。大変なことが出来しましたよ」
「どうしたね。そんなに青い顔をして?」
振り返ったお蘭の傍に、清兵衛は倒れ込むように座った。
「おっ母さん。これを見てください」
そう言って、清兵衛は一遍の紙切れを震える手で差し出した。
「これはなんだい?手紙のようだが」
お蘭はその紙を開いてみて、眼を見張った。
「投げ文ですよ。今朝方、小僧が玄関口を掃除しているときに見つけたようです」
「その投げ文には、何と書いてあるのですか?」
思わず、お紺が問いを発した。与太郎もお蘭に注目した。
「これには、『近いうちに、金一千両を頂きに参る。不知火お銀』とあるね」
そう言って、その紙切れをお紺に手渡した。お紺と与太郎がその紙に墨で書かれた文字を食い入るように見つめた。
「噂の不知火お銀だ」
与太郎が呟いた。
「こんな時に、頼みの文さんは病に臥しているからね。どうしたらいいものか」
清兵衛がお紺の顔を見て、嘆いた。
「伊勢屋の旦那。あっしは文五郎親分の子分の与太郎と申しますが。この界隈は当分の間、四ツ谷下の寅蔵親分が目を光らせることになりやした」
与太郎がそう言うと、清兵衛は生き返ったような表情になった。
「そうだったのかい。ありがとうよ、与太郎さん。それじゃあ、うちの番頭の千兵衛を四ツ谷下に早速、走らせよう。それから、おっ母さん。わたしはこれから同業の寄合に出掛けて帰りは遅くなるだろうから、寅蔵親分には伊勢屋の客間に泊まっていただくように手配をしておきますよ」
「そうかい。承知したよ。四ツ谷下の親分にはわたしから挨拶をしておきましょう」
お蘭の言葉に頷くと、清兵衛は立ち上がって部屋を出て行こうとした。
「清兵衛さん。この投げ文は北町奉行所定廻り同心の酒田左近さまにお届けした方が良いと思います。与太郎に八丁堀まで走らせますが、よろしいですか?」
お紺が問うた。清兵衛が答える前に、お蘭が頷いた。
「良いだろう、そうしておくれ、お紺。四ツ谷下の寅蔵だか、猫蔵だか知らないが、よそ者の岡っ引きだけにこの伊勢屋の命運を委ねるわけには行かないからね」
「わかりました、お蘭さま。与太郎。ひとっ走り頼むよ。お蘭さまとわたしは弥平爺のところに行っているからね」
「合点承知の助」
そう叫んで、お紺に手渡された投げ文を懐中深くねじ込むと、脱兎の如く与太郎は部屋を飛び出した。
それからしばらくして、昼下がりの団子屋にお紺をお供に連れて、お蘭が現れた。団子屋の前は沢山の人だかりだ。
「大した人気だねえ。やはりお紺も出場するのかえ」
お蘭がお紺を振り返って、微笑んだ。
「はい。覚悟は出来ています。一生分のお団子を食べて見せます」
お紺の眼は吊り上がり、鼻息も荒かった。
「良い心掛けだ。わたしも手加減はしないからね」
そして、ちょいとごめんなさいよ、と人混みの間を掻き分けて二人が店に入ると、主の弥平が待ち構えたように台所から出てきた。弥平はねじり鉢巻きに赤い法被を羽織っていた。
「お蘭さま、お待ちしておりやした。さあ、こちらの奥の席にお座りくだせい」
そう言って、弥平はお蘭を審判役席に案内した。お紺は土間の中央に食卓を横に並べて作られた団子の大食い大会参加者席を見渡した。すでに、三人の参加者が疎らに座っていた。何れも巨漢揃いの町人で、女性はいなかった。
「お紺さんも参加されるんですかい」
掛けられた声の方にお紺が振り向くと、佐吉が涼しげな笑顔で立っていた。お紺は佐吉の前で団子の大食いをやるのは流石に恥ずかしくて気が引けたが、金二分が掛かってる勝負。後には引けなかった。
「まだ、参加を申し込めるのかい?」
「はい。参加者が五人以上になりましたら始めますが、まだ三人しか申込みがありませんので」
「それなら、わたしも参加しますよ」
「そうですかい。それじゃあ、台帳に名前を書いてからこちらの席にお座りください」
そう言って、佐吉は台帳に記帳させた後、お紺を真ん中の席に座らせた。それから、佐吉は店先で居並ぶ観客たちに向かって、声を張り上げた。
「皆さま。いよいよ当店名代の『団子の大食い大会』、開始の刻限が迫って参りました。参加者は現在、四名ですがまだ席に空きがございます。皆さまの中で我こそはと思われる方が御座いましたら、どうぞ、遠慮なくお申し出くださいませ」
佐吉が観客を見渡すと、人垣の後ろからにゅっと白い手が伸びた。
「拙者が参加いたそう」
そして、観客の間を縫って佐吉の前に現れたのは紺の着流しに二本差しという浪人風の若侍であった。
「これはこれは、誠にありがとうございます。早速ですが、お名前を頂戴したいのですが」
「うむ。拙者。上野館林の浪人、蒼井新之助と申す」
そう言って、新之助は佐吉が取り出した台帳に、名前を記帳した。佐吉は新之助をお紺の左隣の席に座らせた後、店の奥でお蘭と打ち合わせをしている弥平のところへ台帳を持参した。弥平はその台帳に目を通して頷いた。
「えーっ。それではみなさん。これより『団子の大食い大会』を開始いたします。今回の審判役は伊勢屋のご隠居、お蘭さまに勤めていただきます」
弥平の言葉を受けて、お蘭が席を立って会場に向かって会釈した。お蘭が再び席についたのを見て、弥平は台帳に目を落としさらに言葉を続けた。
「さて、今大会の参加者をご紹介します。まず、馬方の常吉さん、魚屋の与助さん、大工の八兵衛さん、そして紅一点のお紺さん。お紺さんは町方の文五郎親分のお嬢さんです。最後に、お侍さまも参加していただきました。上野館林のご浪人、蒼井新之助さまです」
お紺が観客に向かって笑顔で手を振ると、拍手と共に、「がんばれっ」とか、「腹壊すなあ」とか色々な声援が沸き起こった。そして、その騒ぎが一段落した時、弥平は再び言葉を続けた。
「最後に、今大会では賞金として一番多くの数の団子を食べた優勝者に金二分が進呈されます。そして、優勝者からは食べたお団子の代金もいただきません。惜しくも、優勝を逃した方たちには賞金は出ませんが、特盛三皿以上食べた方からはお団子の代金をやはりいただきません。特盛は焼団子を五つ串刺しにしたものが五本ずつ二段重ねになっている大皿です。それから制限時間もありませんので、参加者のみなさんは心置きなく、団子を食べて優勝を目指してくださいませ。なお、お水やお茶は飲み放題です。参加者のみなさんの後ろには水がめと急須を用意しておりますので、自由にお使いくださいませ。それでは、これよりお団子をお持ちします。すべて特盛になっています。皿が空になりますれば直ぐに次の特盛をお持ちします。それではみなさん。ご健闘をお祈り申し上げます」
そこまで言うと、弥平は佐吉を伴なって台所に消えた。そして、しばらくして弥平と佐吉はこってりと甘辛の醤油たれのかかった串団子十本が乗る特盛の大皿を参加者一人ひとりの前に配った。頃合いを見計らって、奥に座るお蘭が大きな声で『団子の大食い大会』の勝負開始を宣言すると、参加者は一斉に目の前の団子を掴み、口に頬張った。
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