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旅の恥は、かき捨て。修学旅行。
私の数少ない旅行経験は、小学校の合宿で中津川の合宿所へ行き、食事係になってしまい、渋々、食事を作る手伝いをして、カレーを作り、学年全員で食し、キャンプファイヤーで、クラス全員で、練習していた踊りを踊り、確か、その時は、揉めないように順位付けは、無かったはずである。しかし、食事係であった為、他校の生徒の食事係だった奴に喧嘩を売られて、たまたま、教頭がすぐ側にいて、味方になってくれた為に、難を逃れた。そして、奇妙なペンダントを作り、持ち帰らされた。食事係として、無事に役目が終わって安心した事を今でも覚えている。修学旅行で、京都と奈良に行き、金閣寺のあまりの綺麗さに、子供心に、絵葉書を生で観るようだと感じ、東大寺の柱の穴を、当時は簡単に潜れたが、大人になり、そして体型も小太りになった今は、頭を突っ込むだけで、精一杯だろうなと思う。そして、当時、東大寺の柱の穴を潜ると出世出来ると言われ、それを間に受け、頑張って潜ったが、大人になり、現在、本当に、どうしようもない奴になった私が実感するのは、単なる迷信であったという事である。京都の三十三間堂で、自分にそっくりな観音様を見つけると幸せになれるという、迷信も信じていた為に、一生懸命探したが、全く見つからず、限られた時間内にあれだけたくさんの観音像から、というのは、無理難題過ぎだろ、と心の中で、ぼやき、京都の三年坂という坂で、転ぶと3年以内に死ぬ、という迷信も間に受け、必死で転ばないように歩いたが、同級生達の間でも、転んだ人もいなければ、もちろん死んだ人もいなかったはず。そして、嵐山を散策し、平安神宮をバス車内から見学し、平安美人の特徴を聞きながら、クラスの中の平安美人を探し、クラスの中のミス平安を選び、残念ながら、私は、擦りもしなかったが、クラスのミス平安美人の子を皆んなで讃え、京都から帰る時に、ガイド役の福助さんという男性の方とは、京都でお別れをした。中学校の合宿では、愛知県の稲武に行き、またしても食事係で、ガックリ来た。学校を休んでしまった日に、係決めがあり、恐らく誰もやりたがらなかったであろう食事係に任命されてしまったのである。バーベキューの具材を切ったり、ハイキングの時のクラス全員分のおにぎりを握り、ハイキングの後の晩御飯を作る手伝いも、文句を言いながらして、完全貸し切り状態であった為、他校の奴から喧嘩を売られる事も無く、不幸中の幸いであったと思う。夜のレクリエーションは、おしくらまんじゅうみたいな事をした。翌日、帰りのバスの中で、少し異変を感じ、後日、クラスの少しお調子者みたいな子が、合宿で私の知らなかった出来事があり、それが原因で、イジメにあったらしい。その後、担任が学級会議を開き、イジメの事実と、その日学校が終わった後にイジメの加害者達と全員で、被害者の自宅へ謝罪に行ったと聞いた。
その後、何故か、代表になって虐めていた子とイジメの被害者の子が仲良しになってしまった事には、驚きを隠せなかった。そして、中学校の修学旅行ではは、ディズニーランドに行き、当時は、パスを係員に見せないと乗り物に乗れなかったが、パスを鞄の中に入れていた私は、鞄からパスを出そうとしていたら、係員に「早く出しなさいよ!」と鞄の中に手を突っ込まれて、係員と若干揉めかかり、たまたま近くに担任がいた為、担任にグチったら、味方になってくれて、「何?その失礼な係員!」と言ってくれた為に、少し揉めかかっただけで済んだ。それ以外にも、当時、私は中学校3年であったが、当時高校生であろうケバいお姉様方から、「田舎もんが!」と言われて、イラっと来たが、同級生の仲の良かった子が、無理矢理、手を引っ張って連れ出してくれたので、揉めずに済んだが、私から言わせれば、何なん?厚化粧のババアが!だった。多分、今頃は、その喧嘩を売って来た女は、アラフォーになった私が現在の奴を見たら、きっと気の毒なおばさんになっているかもしれないが。そして、学校側から渡された食事券が当時1500円だったが、軽食で済ませて、後は、ドリンクを購入し、お釣りを現金で返金して貰い、お土産代の足しにした。そして、他校からの修学旅行生であろう男子中学生から、集団ナンパをされて、驚いたが、私は、全く、声をかけて来た男子中学生に魅力を感じなかったが、同級生の少し性格に癖があるので、私は苦手だった女子生徒が、「カッコ良かった」と鼻の下を伸ばしていた事に、もっと驚いた。ディズニーを楽しんだ後は、古い旅館に泊まり、何か霊気を感じたが、無事に何も無く、安心した。
翌日は、東京に移動して、国会議事堂を見学した。各政党の控え室があった事は、今でも覚えているが、国会議事堂の事は、私の中では、さほど記憶が薄い。そして、横浜へバスで移動し、横浜を自由散策。
中華街を歩き、途中で豚まんを購入し、何か紙の味がすると思ったら、豚まんの台紙まで食べてしまっていた事に気付き、急いで台紙を剥がして食べた。山下公園を散歩して、その後に、またバスに乗り、箱根へ移動。
箱根のホテル(旅館ではなくホテル)に到着し、晩御飯の後に、ゲーム大会。
私が参加したのは、「ピンポン入れたら、カーン」というゲームだったが、どんな内容だったか?綺麗さっぱり忘れてしまった。その日の晩御飯の後に、パジャマ姿で、お土産を選んでいたら、知らない人で、学校の先生風の男性に話かけられて、ビックリしていたら、「すみません、勘違いでした」と言われて、何の事かわからない私は、ポカーンとしていたら、その男性と同伴の同じく学校の先生風の女性が、「中学生じゃない」と言っていて、ホテルの看板を確認したら、同じホテルに、どこかの小学校の同じく修学旅行の人達が、宿泊していた事が判明し、私、どうも小学校の生徒と勘違いされたらしく、「そんなに童顔か?」と笑いを堪えるのに、必死だった。
そして、翌日は、まかいの牧場。響きだけからするイメージは、魔界の牧場だと私は捉えていたので、牛の骸骨があちこちに散乱していると思っていたが、至って普通の牧場だったので、少しガッカリした。
そして、奇妙なおもちゃとバターを作り、まかいの牧場を後にして、新幹線こだまに乗り、名古屋駅へ。
途中の三島駅で、昼食のサンドイッチを食べて、その後は寝てしまい、クラスメートに叩き起こされ、何とか乗り過ごさずに名古屋駅で降りる事が出来た。名古屋駅で点呼を取られている時に、変なジジイに「オマエら、邪魔なんだよ!」と因縁を付けられ、そして、同じクラスのトイレに行って席を外している子の荷物を蹴飛ばされ、怖い反面、イラっと来たが、我慢し、もう25年以上経っているので、あの時のジジイは、もうこの世には、いないであろうと信じたい。
そして、仲の良かった子らと名古屋駅から名鉄に乗り自宅まで帰宅した。
高校入学直後の合宿では、開田高原に行き、同級生の私服を見て、あまりにも大人びていた為に、同級生なのに怖かった事を、今でも覚えている。この時の係に関しても、またしても食事係。ここまできたら、祟りとしか思えないと思い、運命を呪ったが、バーベキューの食材を切り、火起こしをするのも、前に一度やった事だから、と、渋々やったものの、生焼けだったりしたが、クラスの子らは、一応笑って許してくれた。クラス全員で、高校生活の目標を発表して、翌日は、登山で、訳もわからず、ひたすら歩いた。一応、クラスの子らと、一通り、話をする機会は、あったものの、あまり、この人達とは、気が合いそうもないなと思いながら、作り笑いをしていた。
一応、合宿で、地味なグループみたいな組織が出来て、私も、そのグループの構成員になった。
高校の修学旅行は、長崎だったが、何故か県内の女子校2校と合同修学旅行になり、そして、合同修学旅行で一緒になった他校の奴に、メンチ切られて、若干イラっと来たが、無視をした。今、考えると、私の学校は、合同修学旅行で一緒だった3校の女子校の中では、多分、一番校則が緩く、そして当時は、3校の中では一番偏差値が低かったので、私も含めて、生徒の大多数が、巻き髪に当時、流行っていたルーズソックスだったので、それををムカつかれたのだと、今考えると思う。そして、新幹線ひかりに乗り、博多駅へ到着し、バスで佐賀県の吉野ヶ里遺跡へ行き、高床式倉庫からの絶景を楽しみ、バスで長崎市内へ移動し、長崎のホテルに宿泊した。ホテルも、合同修学旅行の3校貸し切りであった為、男湯、女湯、関係無く、クラス毎に順番に入る。人生初の男湯体験という、レアな体験に驚いていたら、中学校から女子校だった子が、「女子校の修学旅行では、これが普通だよ」と言われて、カルチャーショックを受けた。
そして、ホテルの窓から、長崎の夜景が綺麗に見えて、記念撮影し、しばらく景色を楽しんでいたら、あっという間に就寝時間になってしまい、渋々就寝。
翌日の朝、点呼があり、平和公園へ移動し、文化祭の時に、クラス全員と来場者の方々にも協力して貰い、1000羽の千羽鶴を収め、戦争の歴史と悲惨さを痛感し、平和である事の有り難みを実感して、その後、被曝体験者の方の、お話を写真を見せて頂きながら、聞き、一枚の写真の中で、口には出せなかったが、「この人、大丈夫かなぁ?亡くなってしまったかなぁ?」って思った、小さな子供の写真を見せながら、被曝体験者のおじいさんが「これ、僕です」と言われて、「えっ?生きていたの!?」って口には出せなかったが、仰天し、その後も被曝体験を赤裸々に話してくれて、お話が終わった直後に、学年主任から「今から昼ご飯です」と言われて、ちゃんぽんが出て来たが、皆、食欲が無くなり、私も含めて、生徒の大部分が、ちゃんぽんを半分程残していた。
そして、長崎市内自由行動になり、路面電車に乗り、移動したり、グラバー園を見たり、ザビエルの聖堂を観たり、中華街を歩き、1件の芸能人のサインがたくさん飾ってある店で、岡田有希子さんのサインを見て、少し切なくなったりしながら、長崎市の散策を楽しんだ。翌日は、熊本へ移動し、阿蘇山で、絶景を楽しみながら、鉱物から、宝石の原石が取れないか?鉱物を探そうとしたが、全く見つからず、阿蘇山の自然を楽しんで、ホテルへ。熊本での移動中に、バス車内で、ガイドさんが、「今日、誕生日の人いる?」ということ質問があり、クラスの活発な子が該当していたらしく、こんな偶然なんてあるんだぁとビックリし、誕生日に該当していた子は、博多人形を貰っていたが、今になって考えると、逆に、貰って迷惑な物で、私は、該当者じゃなくて良かったと思う。
そして、またしても、合同修学旅行の貸し切り状態で、同じく男湯、女湯関係無く、順番で入浴した。
そして、旅館の中で、お土産を買い、ついでに、汚れ物などの荷物を宅配便で、自宅に送って貰い、翌日は、ほぼ手ぶらで、太宰府の太宰府天満宮を参拝して、学問の神様とは言え、当時は、勉強に熱心ではなく、そして、あまり神社仏閣に興味が無かった為に、退屈だなぁと思いながら、歩いていたら、他県から来た男子校の生徒の集団に、集団ナンパをされて、軽くドン引きし、同じクラスだった子が、「何なん、あいつら」と言っていたのに、口には出せなかったが、共感した。そして、博多駅へ移動し、またしても、ひかりで名古屋駅まで移動。新幹線の中で、クラスの子何人かで、下ネタで盛り上がっていたが、奥手だった私は、付いて行けずに呆気に取られていた。
そして、名古屋駅に到着し、現地解散で、自宅に帰宅したら、熊本の旅館から宅配便で送った荷物が一足先に帰宅していて、ほぼ手ぶらで帰って来た私に、母が、驚いていた。
そして、修学旅行の1週間後には、現実が待っていて、修学旅行レポートを原稿用紙10枚にまとめて、提出しないと単位が取れない為、かなり苦労して、修学旅行レポートを書いて、締め切りギリギリに提出した。しかし、大急ぎで書いた為に、書いた内容は、全く覚えていない。後日、他のクラスの子が、書いた修学旅行レポートが、何かの賞を受賞したという内容の学年だよりに書いてあるのを見たが、私は、その子が、どんな子だったのか、全くわからないまま、卒業を迎えて、今もわからないままである。
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