君が寝てること

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脱サラして、後悔のない人生にすることにしたんだと、疲れ過ぎて真っ赤な目で、無理してわたしに付き合って行った美術館デートの帰り、電車のシートで言った時、三ミリの顎ひげに一本白髪がまじっているのを見た。 わたしはひげにも弱いし、ひげの中の白髪にもっと弱い。まだ一応三十前なのに、落ち着いて見えるし、仕事頑張ってるんですって感じがやばい。顎のその一本の白髪を舐めたくなる。で、公共の場でないクローズドな空間に移動してからもちろん舐めた。 わたしがひげを舐めると、彼はいつも「ふふふ」と柔らかい声を出して笑い、わたしを見下ろして、目を細めて「すきだね」と言う。 「うん、すきなの」 二人はデビッドリンチ監督のファンで、都内のミニシアターで開催されたデビッドリンチを語る会で知り合った。 わたしたちは芸術の好みが合う。たぶん、よくわからないけれど、そうだとキスとかそれ以上の事も、相性がいいのだろう。 とてもスムーズに一緒に居ることが出来るようになり、たまに寝る暮らしが続いている。少なくとも今のところ。 短いときは二十分で、長いときは二時間、どちらにせよ気持ちよくなったあと、掛け布団も掛けずに全身丸出しで、腹式呼吸の極みみたいな、大きく上下する、ほぼむだ毛がないすべすべの腹で、彼は深くてしっかりした眠りにつく。
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