佐倉局長

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「水嶋さん…」 「江越?何やってんだ?」 ズカズカと歩を早めた水嶋に部長が「ちょっと待って」と手を上げた。 「うん、何でもないよ、水嶋くんはちょっと黙っててね。君、コピーを封筒に入れて渡してあげて?出来るね?」 部長に言われると普段は強い事務も折れるしかない、返事もしなかったが発注書を封筒に入れて渡してくれた。それはそれで気まずい。 「でも…部長これは……」 「江越くん、そこまでで、ね?」 「はあ……」 営業部の部長は奥田の社内では珍しく穏やかなおっさんだ。白髪の浮いた薄い髪をぽりぽりと掻きながら聞き捨てならない事を言った。 「何だか江越くんは健やかに水嶋化してるねえ」 「は?」 水嶋化? 確かに誰かに腹を立てて怒鳴るなんて滅多にしないが怒る権利があると思う。 「でも俺達は……」 「やめろ江越」 前に立った水嶋に背中で押しやられ、黙っていろと塞ぐように書類で顔に蓋をされた。 「すいませんでした、部長…事務のみんなも…見本が悪いんです」 「奥田の風潮が脈々と引き継がれてるね、頼むよ水嶋くん、彼は次期エースなんだからね」 「はい、すいません」 「水嶋さん……」 営業先で見せるようにきっちり頭を下げた水嶋に急に恥ずかしさが込み上げてきた。 水嶋が怒っても怒鳴ってもいいのは誰も文句が言えない実績を積み上げて来ているからだ。 「俺……」 「江越、いいから行くぞ、午後一に配送の手配が済んでる、発注書を渡して来なきゃトラックが出ないぞ」 「……はい」 部長は穏やかに笑っていたが、的外れに怒鳴り散らした馬鹿ではなく水嶋を……暗に窘めたのだ。 恥ずかしい。 恥ずかしくて床に張り詰めたソフトタイルをペリペリと剥がしてめり込んでしまいたい。 会社を出たら水嶋に怒られると思っていたが、何も言われない代わりに「今日の夜飲みに行くぞ」と髪をぐしゃぐしゃにされた。 こんな時こそ怒って欲しいのに何も言ってくれない。配送は約束の午後一に間に合ったがその日は雑談を持ちかける気になれず黙りこくってしまった。まあ、会話が無くても仕事に支障は無いんだけどね。淡々と仕事をしてこなし、6時過ぎになると「この辺で切り上げよう」と目に付いた居酒屋に入った。 カウンターに座って、ビールを注いでもらった所で気が付いたのだが水嶋と外で飲み交わすのは初めてだ。 金曜の夜は一緒に食べて飲んだりするが平日は仕事が終われば帰るだけで軽く飯を食ったりもしない。 家飲みからスタートなんてレアな関係になったのはこっちがそうしたからだが変な感じだった。 「水嶋さんと飲むなんて気持ち悪いですね」 「今更何を言ってんだ、毎週飲んでるだろ」 「そうですけど……何か上司に気を使いながら飲む日が来るなんて思いませんでした」 「じゃあちっとは気を使え」 ほらっとグラスを差し出され、先に注いでもらったのにお酌を忘れていた事に気が付いた。 「あれ?すいません」 「それからな、俺は上司じゃなくてただの先輩だ、気を使ったりしなくていい」 いつも通りでいいからと、ビールを受けながら水嶋は笑ったが、家にいる時のようにちょっと抜けた様子は無くまだ仕事中のオーラが出てる。 「俺…今から説教をされたりさんですかね?」 「今日の昼のやつ?あれは俺が悪いからいいけどあんまり真似すんな、悪い見本だと思っとけ」 「思ってます」 思わず出た即答だが丸一日そればっかり考えていたからつい口に出た。 キョトンと目を丸めた水嶋は腑抜けた家バージョンでもギチギチの仕事バージョンでもない、困ったように眉を下げ、声を出さずに穏やかに笑った。 何も食べず、疲れた体と頭に一気に投入したアルコールはふわつくくらいに体重を減らし、暖かい照明の中で水嶋に紗がかかったように見える。 決して言うべきじゃ無いが素直な感想だった。 「水嶋さんって……綺麗ですね」 「は?相変わらずふざけた奴だな」 「ふざけてこんなに変な事を言いませんよ」 「じゃあ酔ってんだ」 「まだ飲んで無いですけど、もうそれでいいです」 イケメンか?と言われれば巷に溢れるわかりやすい煌びやかさは無いがこうして正面から落ち着いて見ると首が長くて顎が小さい。 シックスパックを持つナイスボディから香っているような男の色気とはまた別の種類の生っぽさがある。 ぎゅっと寄った眉間の深い皺さえ無ければ……だが。 「相変わらずって言われるほどふざけた覚えは無いんですけどね」 「お前ははっきりと自分の意見を言い過ぎるんだよ、まあだから営業に回したんだけどな」 「え?回したって……そう言えば部長が期待のエースって言ってましたけど、俺は期待されてるんですか?」 もしそうだったとしたら一年目のボンクラ振りはかなり落胆させただろう。 「気にすんな、お前だけじゃない、新入社員は全員期待のエースなんだよ。ここ二、三年で急に人材不足になったからな、辞めさせたら責任取れって全員に言い渡されてる、付け上がんなよ」 「わかってますよ、今日はちょっと付け上がってましたけど……反省してます。所で俺は何で営業に回されたんですか?」 これはいつか誰かに聞いてみようと思っていた。 水嶋は人事に関わる役職じゃないが奥田はそれじゃダメだろってくらい風通しがいい。つまり個人情報がダダ漏れって話なのだが、一致団結して悪さをする傾向にある。水嶋がハイになっても誰も止めないのは人と成りをよく知ってるから信頼があるのだと思う。 それだけに部長に止められた時、まだ仲間に入ってないんだと落ち込んだ。 「男は全員最初から営業しか獲るつもりなかったと思うよ、お前が面接を通ったのは無害そうな顔してるくせにズケズケ喋るからだろ」 「え?俺は騙されたんですか?」 「そうとも言う、システムエンジニアなんて奥田に必要ないって今ならわかるだろ、どうするって部長に聞かれたから営業でいいって俺が言っといた」 「はあ?」 犯人はお前か。 椅子に座ってコーヒー飲んでたまにこっそりとソフトやアプリ作って悠々と過ごす……洒落たブルーライトカットの伊達眼鏡まで買ったのに……夕方になったら髪はグシャグシャ、暑いし寒いし油とか酸っぱい粉に塗れるし、いつのまにかシャツのボタンが無いとか、人生設計にそんな予定は書いてない。
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