先生

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先生

 「うん、日向君。今回はあまりやらかさずに帰って来てくれたね」  「先生、俺いつも何にもやらかしてないっすよ!」    不服そうな日向くんをよそに、先生と呼ばれた白衣の青年は微笑んだ。女の人みたいな顔の造りをしていて、肌が透き通っている。二十くらいの見た目だけれど、職業的にももっと年上なのだろうか。    「日向君は……いつも酷いんだよ。ついこの間も左肩を脱臼して帰ってきたもんね。ぼくの仕事を沢山作ってくれる」    皮肉とも嫌味ともとれる言葉を漏らしながらも、先生は笑顔のまま日向くんのかすり傷を容赦なく消毒した。    「いっっっ」  「今回はほんと優秀だね。『急速回復』の必要がないなんて何ヶ月ぶりかな?」    あまりやらかさずに、という言葉のわりには日向くんは包帯とガーゼまみれになっていた。治療室を出ようとすると声をかけられる。    「ああ、せっかくのお客様だというのにお茶のひとつも出さないで申し訳なかった。今、紅茶を淹れるからね。君と話したいことが沢山ある。ぼくも、日向君も」    私も聞きたいことが朝から沢山溜まっていた。聞けるかどうかは別として。そうして白を基調とした客間に通された私は、暖かい紅茶を口に含んだ。    「さて、何から話そうか。まずは自己紹介かな?」    指を組むと、先生は優しく微笑んだ。額にかかっている茶色のくせ毛が揺れる。    「僕は藤本 博明。色々あって、日向君みたいなヒーローさんたちのサポートと、内科の医者を兼業していてね」  「あ……ずっと気になってたんですけど、ヒーローって、どういう……」    おずおずと質問をすると、先生はくすくすと笑った。    「日向君、説明してあげなかったんだね? ヒーローはその名の通り、ヒーローだよ。この世界を守っている」    答えになっていないでしょう、と先生は続けてから、薄いティーカップに口をつけた。    「この世界は、一層の壁を隔てて、別の似たような世界と重なっている。SFで言う平行世界だね。簡単に言うと、今僕らの暮らしている世界が、平行世界に干渉を受けているようなんだ」    つまらなさそうにティースプーンで紅茶を掻き回している日向くんをよそに、先生は続ける。    「今朝は、びっくりしたでしょう。あの時が止まったかのような空間が、平行世界とこの世界を隔てる壁――ベータレイヤーなんだ。基本的に、平行世界からの干渉はあのベータレイヤーを介して行われる」    つまり、今朝見たカマキリは、平行世界からの干渉の道具であるということだろうか。しかし、日向くんはベータレイヤーの中でカマキリをぶつけて線路を曲げたりしていたけれど、この世界には影響が無さそうだった。    「あの、影……みたいなの、日向くんが倒さなかったら、どうなってたんですか……?」  「結論から言うと、あの駅で何らかの事故なり災害なり……事件が起こってたくさんの人が亡くなることになっただろうね。ベータレイヤーの中で、止まった状態のまま攻撃されると、この世界――アルファレイヤーでは最も違和感の少ない死に方をするんだ」    しかし、カマキリは止まっていた人混みよりも、私を攻撃することを優先していた。ということは、たくさんの人を殺すよりも、私の命を奪う方が何らかの利益があるということなのだろうか。ベータレイヤーで動いていた人間は私と日向くんだけだ。私は日向くんのように『ヒーロー』になりうる存在、ということなのだろうか?    「わ、私が……狙われたのって、私も、その、日向くんみたいに、ヒーローになりうる……から、ですか?」    鋭いね、と先生は大きく頷いた。    「でも君はヒーローではなく、イプシロンだ。日向くんを見ていて分かっているとは思うんだけど、ヒーローはそれぞれ固有の能力を持っていてね。所持能力がまだ分からないがベータレイヤーに介入できる存在のことを暫定的にイプシロンと呼んでいるんだ」    いずれ私も日向くんのように戦えるようになるのだろうか?走っていても触手に呑まれそうになったことを思い出して、到底無理そうだと感じる。    「ああ、それに関しては大丈夫だよ。ぼくも一応ヒーローなんだけどね。前線には全く出てないし。能力をみて、何が出来るかをゆっくり考えていけばいいと思うよ」  「え、あ……なんで」    ああ、びっくりさせちゃったか、と先生は口を押さえてくすくす笑った。    「ぼく、心を読む能力なんだよ。君、心の中では饒舌なものだから……ついつい、ね」    う、女の人みたいな顔の造りとか思ってたのもみんな筒抜けなのか。キツすぎる。朝とは別の意味で死にたくなってきた私は顔を覆った。    「先生……そういや、葵、遅くないっすか?」    スマホをちらちら見ながら、日向くんが心配そうに声を上げる。たしかに、と先生は顎に手を当てる。    「葵君は日向君みたいに無茶はしない子だから、便りがないのはいい便り……だと信じたいけれど、日向君、念のため様子を伺ってきてくれるかな?」  「了解っす」    日向くんは荷物を手早くまとめると、勢いよく客間を飛び出して行った。どうやら、日向くん以外にも別のヒーローが活動しているらしい。というか、ヒーロー同士の連絡手段、LIMEなのか。もっとこう、特殊な端末とかではないのか。    「佐倉さんにも、グループLIMEにはあとで入ってほしいかな」    心の中の野暮な疑問すら丁寧に読まれていて恥ずかしい。プライバシーとは。先生は戸惑う私に微笑みかけると、口を開いた。    「さて……佐倉さん、『おやすみ』」    私の意識は先生の声に導かれるままに、すっと消えていった。がくん、と垂れた私のうなじを優しく撫でながら、先生は囁いた。    「君がただのイプシロンではないのは分かっているからね……たくさん聞かせてもらうよ?」    ぼくもただのヒーローではないからね、と聞こえたような気がしたが、先生の優しい声を聞くうちに心地よくなってすぐにどうでもよくなってしまった。
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