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兄との最後の日
兄が首都から戻ったのは、つい二週間ほど前だった。ノックの音に男性アンドロイドがドアを開けると、軍服姿の兄が立っていた。兄は男性アンドロイドを素通りし、少し離れた場所に立って様子を見ていたリアナの前に向かう。
「久しぶりですね。リアナ」
軍学校へ入ってからというもの、兄はリアナに対しても敬語で話すようになった。リアナには、それが酷く具合が悪かった。
「久しぶり、ですわ。お兄様」
リアナも、いつしか丁寧な言葉を使うようになった。このクガ家を継ぐものとして、きちんとした言葉遣いを老夫婦から習っていた。
(他人行儀ですわ)
リアナはそう思っていたが、兄は気にしていないようだ。整った兄の口から発せられる綺麗な言葉は、昔使っていた粗暴なものより似合ってはいる。
「お兄様、なぜ戻ってらしたの?」
妹の問いに、兄は男性アンドロイドに上着を預けながら笑顔で応えた。
「仕事ですよ。軍から軍事用の魔力アンドロイドが持ち出されたんです。このあたりで目撃情報があったので、出身である私に里帰りがてら回収命令がくだったのです」
「そうでしたの」
兄はリアナのほおに手を当てた。優しく微笑む。それは演技かかった行為だった。
「大丈夫ですよ、リアナ。軍事用の魔力アンドロイドは上官に攻撃はできないのです。そのアンドロイドのマスターは私よりも下ですから、危害を加えることはできません」
リアナはぽかんと兄を見上げた。兄の言うことの意味を図っていた。
(私が、兄を、心配するとでも)
リアナに兄への愛情はなかった。
(私は、ただの兄さんのスペア)
あるのはその事実だけ。リアナは唇をなぞった。
兄がなぜ首都の警備を抜けて戻ってきたのか。言っていた軍事用アンドロイドのことだけではないようにリアナは思う。
戻ってきた日の夜、兄は気に入りの真紅のソファに座りながら、リアナに言った。
「イチカさんは、元気でしょうか」
イチカ。
すぐには思い出せなかったが、じわじわと頭の片隅に現れ、弾けるように記憶が溢れ出した。
イチカ。兄が執着していた女。軍学校に行く時、兄がリアナに監視をするよう命じた女。
老夫婦の死や戦争が始まりその混乱で、すっかりリアナの頭から抜けてしまっていた。
(まずい。忘れていた。監視に対する報告の催促もなかったから)
兄の瞳を見つめては、とする。兄はわざと催告しなかったのでは? 私がきちんとスペアの役割を果たしているのか、試したのでは?
リアナは唇をなぞる。乾いている。
「その女性は定期的に街に来て、野菜を売っています。精神面は分かりませんが、肉体的には健康だと思われます」
紅茶の入ったティーカップを持った男性アンドロイドが、スラスラと話した。兄の前にあるテーブルに、ティーカップを置く。
「そうか」
兄は薄笑いを浮かべながら、男性アンドロイドを見上げた。彼には敬語を使わないのだと、リアナは気付いた。
「お前には聞いていないよ」
兄はティーカップを持つと、そのまま男性アンドロイドに思い切り投げつけた。カップは割れ、中身が溢れアンドロイドの衣服を汚した。
「あ」
リアナは思わず声を出し、その口を手で覆う。カップの破片が男性アンドロイドの指先を掠ったらしく、静かに血が滴り落ちていた。
男性アンドロイドは気にすることなく、床に散らばったカップの破片を拾い集めた。相変わらず指からの出血は止まらない。
「あなた、血が出てるわ」
リアナは思わず口にしてから、何故そのようなことを言ったのだろうと思った。彼はアンドロイドなのにーー。
「気にすることはありませんよ、リアナ。彼はアンドロイドです。ーー元が人間というだけで」
兄は口の端を上げた。リアナの様子を見て楽しんでいるようだった。
(人、げ、ん?)
リアナは兄の言ったことを繰り返す。
人間。
「あ」
くしゃり。
リアナは銀色の髪が乱れるのも構わず、頭を抱えた。頭の中の、奥底から、浮かび上がってくる真実の記憶は、リアナにはまだ受け止めきれなくて。
そして彼女は再びふたをした。
「ーー何を言ってますの、お兄様。彼はアンドロイドですわ。血が出るのもそういう仕様ですのよ」
リアナの言葉に、男性アンドロイドは無表情のままだった。兄は満足げに微笑んだ。
「そうですよ。リアナ。あなたは最高の私の妹です。これからもその調子で頼みますよ」
その日、兄は機嫌が良く、遅くまでワインを飲んでいたようだ。次の日は朝早くから出掛け、そして帰ってこなかった。リアナが兄の死を知ったのは、まさにグランの中がぐちゃぐちゃになった瞬間だった。
(兄は死んだ)
リアナは目を閉じる。
この時、たとえ愛情はなくとも、リアナの兄はグランただ一人だったことを知った。
もう、家族はいない。
(私は、兄のスペアとして生きねばならない。兄が戻ってきて継ぐはずだったクガ家の当主になりますわ)
リアナは唇をなぞる。確認するかのように。
それ以外の生き方などないと、確認するかのように。
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