ツーサイデメリット

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ツーサイデメリット

                わたしは、太陽が嫌いな子供だったらしい。  確かに言われてみれば、園庭で駆け回る幼稚園児たちの中で、ひとりだけ、目をつんざくような光にしゃがみ込んでしまったことが幾度かあった気がする。  なぜ、他の子たちと違って太陽をこんなにも眩しく感じるのだろう。  いつ、わたしは両の目で太陽を眩しがれる幸せを知ったのだろう。  ……どうして、わたしは母さんと、ここまですれ違ってしまったのだろう。  今も昔も、わたしにはわからないことが常にあっては、いつの間にかほどかれていくことの繰り返しだった。 「父さんと母さんは、目がみえないの?」  わたしが初めて二人にそう言った時のことを、わたしは覚えていない。  小学校に上がる前、旅行帰りの新幹線の中で、前触れもなく言ったらしい。母さんは新幹線の中にも関わらず声をあげて泣いてしまって、周りの目を気にする父さんの癪に触ったそうだ。父さんはわたしが赤ちゃんの頃、電車で大泣きした時に手で口を塞いだぐらい、健常者の目を気にする人だった。  そんなことがあったとは露知らず。わたしのこの旅行で、唯一、記憶に残っているのはぶどう狩り。取ったぶどうに大きな蜘蛛の巣がついていて、わんわん大泣きしたことの方が覚えている。  幼稚園の頃、周りの園児たちの中でめがねをかけていたのは、わたしだけだった。わたしが、めがねが原因でなにか言われることを、母さんは一番恐れていた。理由は忘れたけど、悪口を言われて、泣きながら家に帰った。めがねについても、多分、なにか言われた。母さんは幼稚園でなにがあったか、高い声をあげてわたしを問い詰めたけど、絶対にめがねについてだけは言わないようにした。その頃には、もう母さんが「目」のことで傷つくことを知っていたから。  父さんは母さんと違って、よくわからなかった。自分の見えない顔をテレビにぐっとつけてみることと、ルーペで新聞を読むこと以外、目が悪いことを感じさせなかった。母さんと違い、父さんは自分の目について話すことがあまりなかったからだ。だから父さんに気を回した記憶はあまりない。一度だけ、ホラー映画が放送されていた時に、目に釘を刺された人が出てきて思わずチャンネルを変えたことぐらいだ。  あとは、わたしのボールを投げるフォームを見た友達に、父親とキャッチボールはしたことがないのかと言われた時。普通の子は父親とキャッチボールをしたことがあるものなのかと驚いた。自分が乗ったこともない自転車の練習に、嬉々として付き合ってくれるような人で、健常者の家庭に劣らないようにわたしを育ててくれた。けれど、さすがにキャッチボールは無理だったんだね、と静かに思った。 「茜。ご飯、食べに行こう」  母さんの右目が灰色に濁っていることに、十になる頃には気づいていた。  四年目の付き合いになるランドセルは、わたしの体には小さくなってきていた。 「いいよ」  ランドセルが小さくなるにつれて、わたしの中で大きかった母さんも小さくなった。  階段を上がる時や下がる時に、母さんを待つようになったことも、探し物を見つけてあげることが多くなったことも一因だけど。なにより、母さんの心が小さく見えた。  母さんが右目がみえないのは、おばあちゃんが何度も母さんの前の子供を殺してしまって、その結果、母さんが早産で生まれてきたからだと知った。右目はまだ、できあがってなかった。 「わたしの本当の誕生日は今日じゃない」   母さんが、わたしに教えたから、知った。  その話を聞くたびに、おばあちゃんへの一生消えることのない怒りを見るたびに、母さんに対する違和感を覚え始めた。違和感は、嫌悪になった。父さんも今ならわかるけど、母さんのそんなところを嫌っていた。  嫌悪になる前に、母さんが精神病だと心から理解していたら、嫌悪にならなかったのだろうか。順番が逆だったら、なにか変わったのだろうか。どっちがより幸福で、どっちがより不幸だとか、あったのだろうか。  友達とどこにでも行けるようになって、自転車ひとつで二町越えられるようになった。母さんから簡単に、離れられるようになった。 「呼び出しボタンはどこかしら。茜、店員さん呼んでちょうだい」  昔、わたしをこうして町のファミレスや一駅先の洋服屋さんに連れて行ってくれてた母さんは、いつしか必要じゃなくなっていった。必要よりも、重荷になって、重荷を軽くするための手段も愛情も見つけられなかった。  なんで母さんが頻繁に外にご飯を食べに誘ってきたか。なんでわたしの家の料理は他の家と違って冷凍食品のものばかりだったのか。なんでわたしの服装は周りの友達から、ださいと言われるのか。  大人に向かっていくにつれて、ほどかれたことは、たくさん。 「いそざきはるです」  波留との出会いも、母さんから離れていく大きな原因だったのかもしれない。 「茜ちゃんの隣に座ろうか」  空いた席を探す、二重の線の下に沈むまんまるの瞳が、わたしを見つけて、さらにまんまるになったのをよく覚えている。  転校生の波留とは、隣の席になっただけで仲良くなった。来たばかりで他に頼れる人もいなかった波留は、わたしの後ろをついて回った。一人っ子のわたしにはそれが新鮮でおもしろくて、悪い気はしなかった。  母さんと行っていた場所に、波留と行くことが多くなっていった。  波留がきた年、初めて母さんと商店街のお祭りに行かなかった。波留と今年は行くと言っても、母さんはそうなのね、とだけ言って、おこづかいをくれた。  その年のお祭りは、特別だった。    わたしの家が、いつも小学校の仲間たちの溜まり場になっていたのは、決してわたしがクラスの人気者だったからじゃない。お邪魔しやすい家だからというだけだった。  わたしの家は、友達が遊びに来ることに、いちいち干渉しない。親たちのネットワークからは、間違いなく孤立していた。日が暮れても早く帰れと急かす人間がいない家は、さぞかし心地がよかっただろう。 「茜の家、ごみ箱」  他人様の家に張り巡らされている秩序のようななにかも、わたしの家には欠けていた。  確かにいつも、カーペットもフローディングの床もざらざらしてて、机の上には食べ散らかした後のような染みや汚れがついている。わたしは物心ついた時からずっとこの家で暮らしてきたから普通だったけれど、みんなにとっては普通じゃなかった。  大きな声で波留に「くさい」と言われた時は、自分の環境に溶けた鼻を疑った。ショックだったけど、わたしの力だけではなおすことはできなかった。  わたしの家に来て何度目かには、波留は、もうごみ箱にごみを捨てなくなった。そこらへんに、ほいっと、投げ捨ててしまうのだ。  どういう心境だったのかは、わからない。心許したわたしの家だからできたことだと思うけど。自分の家が普通じゃないと痛いほどわかって、その時は、悲しくなった。  確かに友達の家に行くと、すごいなと思った。友達のお母さんが、飲み物やお菓子を綺麗なおぼんに乗せて持ってくるたびに、いいなと思った。  でも、ここまで自分の家が他のみんなから 見ると「おかしい」とは思わなかったのだ。 「波留、さすがにそれはやばいって」  そう言う他の友達も、床に投げ捨てられた、波留が鼻をかんだティッシュを見て、笑っている。  去年建ったばかりの二階建ての新築戸建に住み、犬を三匹飼っている彼と、アパートの3DKの一室に住む自分を比べるのは、非常にナンセンスなことだ。  すきな友達を咎める気にもなれなかったし、それほどにきっと、ごみ箱なんだろうなと、自分の気持ちを搔き漁るのを諦めた。意味は違えど、臭い物に蓋をする、という言葉が頭に浮かんだ。  それでも、十一歳、さすがにわたしも腹を立てるようになった。なんだか気まずい時間が増えていった後、十二歳、波留も大人になって、わたしの家をごみ箱と呼ぶ人はいなくなった。  あの頃から、いつも胸の中に金魚鉢をひっくり返したみたいな虚しい気持ちを覚えてた。  そして、ひっくり返ったら当然、金魚は死んでしまうように、波留も小学校六年生の夏休み明けには、いなくなってしまった。 どこか遠くに引っ越したというわけではない。  幼い頃の繋がりなんて、あっけなくいつしか終わる。ささやかなことで仲良くなって、喜んで、嫌って、気づいたらどこかにいってしまう、そんな繋がりだ。  波留との繋がりだって、しゅわしゅわと炭酸水から炭酸が音を立てて抜けていくように、徐々に小さくなっていった。  小学校の先生ってさみしくならないのかなって思う。どうせわたしたちの繋がりは泡のようなもので、生まれてくる前の繋がりと同じだ。選んだ繋がりではない。選べる力は、まだないのだもの。  この頃のわたしたちは、まだ生まれてない。  だから、波留とは小学校の二年間しか仲良くなかった。中学に入ってからも、手の指が余るほどしか話していない。波留は、あまり人とつるまないようになった。誰かの後ろをついていかなくても、歩けるようになったのだ。    小学校を卒業する頃。右目の見える父さんは、家からいなくなった。最初からいなかったみたいに、いなくなった。  父さんと母さんが互いのなにに惹かれあい、結婚したのかは、全くわからない。  父さんの見る右目の世界と、母さんの見る左目の世界は、見える範囲は同じでも、見ているものは全く違くて、それは最初から最後まで交わらない平行線だった。  なのに、わたしは今生まれてここにいる。  母さんは障害に理解のないおばあちゃんに、普通の学校に入れられて、たくさんの怖い思いをしてきた。いじめられた。差別された。目の見える人間を、怖がるようになった。  父さんは盲学校で生徒会長だった。学校で様々な意味で一番になった。学校の名前を売りに朝のテレビ番組に映りに行って、有名アナウンサーと饒舌に会話をしたこともある。  学校を出てからは大手金融会社の障害者枠にも入り、株を趣味にしながら健常者よりも堅実で安定した暮らしを実現した。  恋愛も自由にした。その結果、出て行った。  別に、おかしなことじゃない。父さんが出て行った時、わたしはそんな彼を尊敬していたから、父さんらしいと諦めて笑ったほどだ。彼は隻眼のヒーローなのだ。  それと同時に、悔しくもあった。母さんはなぜ、普通の学校で十二年間生きてきたことを、強みに、思えないのだろう。  父さんが出て行って、母さんの精神病は悪化した。一日中咽び泣いたり、人や物に当たり散らす日々が続いた。  眠れないらしく、薬とお酒が増えた。溢れてく言葉はまるで、呪いのようだった。  父さんのせい。父方のおじいちゃんとおばあちゃんのせい。早産したおばあちゃんのせい。健常者で生まれた妹のせい。  色々な人のせいで、こうなったらしい。  わたしは、いよいよ、馬鹿みたいね、と思った。  父さんがいなくなる最中か、いなくなってからかは思い出せないけれど、母さんの呪いの言葉を聞きながら、一度だけわたしは泣いた。決してそれは、同情ではなかった。わたしの中の嫌悪が皮を破り、憎悪に姿を変えようとしているのがわかった。  波留にだったら、わたしの家を平然とごみ箱と言って退ける波留にだったら、わたしは胸の中に鎮座し続けるこの痛みについて話せただろうか。  母さんと出かけることは、もうなくなった。  母さんは、父さんが消えてから、左の世界すらみえなくなりそうだった。  白内障になったのだ。唯一の世界が歪み始めた。八十ぐらいのおばあさんが数万円もかからないで手術する病気に、四十でかかり、失明するかもしれないと告げられて帰って来た母の姿は、これまで知って見てきた全ての不幸をかき集めても、勝ることはないと思った。 生まれた時から持つ眼球震盪により、手術が難しいと言われたそうだ。生まれる前にできあがらなかった目は、母さんが四十になっても五十になっても、悲しみ震えているのだ。  みえなくなるぐらいなら、最初からみえない方が幸福だったと言った母に、死ぬぐらいなら生まれてこなければよかったと言っているのと、同じではないかと思った。思った、けど。全然違うと後から考え直した。死んだらそこでもう一切のものをわたしたちは感じることができなくなるけれど、見えなくなっても、目以外のものはより洗練されて感じることができる。耳も舌も手も、そして心も、母さんには残り続けるのだ。  中学校に進学してすぐに、わたしはコンタクトレンズにした。母さんはなにも言わなかったけれど、わざわざ目に負担をかけるようなものに変える意味がわからないと、傷ついていただろう。そんな母さんの気持ちを平気で無視できるぐらい、かけたくなくなってた。  中学では、わたしの家のことを知らない人が増えた。小学校からの友達は、わたしに気を遣うということを覚えて、絶対にわたしの前では家族の話をすることはなかった。  しかし話さない分、逆に中学校からの友達は、わたしの家族のことを知りたがった。  茜の家族はどんな家族なの。  聞かれるたびに、普通だよ、と答える。小学校からの友達も、普通だね、と答える。  どうしてこう言う時、わたしの方がへらっとしているのだろう。友達の方が少し苦しそうな顔をするのだろう。変なの。  父さんがいなくなってからおばあちゃんが家に来るようになった。おばあちゃんも認知症が進んでいて、料理はつくれたけれど、母さんと同じで、掃除をしても掃除をしても家はごみ箱のままだった。むしろ、おばあちゃんは物持ちがいいから、悪化したぐらい。  同じ話を何度も何度もされたけど、母さんの呪いの言葉よりはずっとましだった。  それでも、おばあちゃんが来ていたのは離婚してすぐの二ヶ月間だけで、母さんとの喧嘩が絶えなくて来なくなった。  代わりにわたしがおばあちゃんの家に入り浸るようになっていた。母さんの呪いの言葉から逃げるためだ。家で呪いの言葉を聞くたびに、惨めな気持ちになった。  お母さんとデート。家の犬がかわいい。晩ご飯が楽しみ。ホームパーティーするの。そんな話がきこえてくるたびに、惨めになった。わたしには、そんな家、どこにもなかった。  少しずつ逃げ始めた頃。馬鹿みたいだけれど、家にゴキブリが連日で出ただけで、泣いてしまった。おばあちゃんには泣き虫ねと笑い飛ばされた。母さんは、ゴキブリが出たことにすら気づいてない。  その次の日から、ついにわたしはおばあちゃんの家から帰らなくなった。  家の汚さはそこまで変わらなかったけれど、母さんがいないだけで、落ち着いた。  波留は、ある日突然わたしの世界に帰ってきた。金魚は蘇らないけど、波留は生きてた。  わたしの家をごみ箱と言った頃と比べ、ずっと背が伸びて、声が低くなって、中身や表情まで知らない人みたいになった。  この年頃の男の子は、二年も経てば変わるのは当たり前だ。変わらないわけがない。  久しぶりに波留と話した。話したと言っても、学校の外で会ったから挨拶をかわしたぐらい。  塾の帰り道、ばったり出くわした。まだ冬になっていないのに、底冷えするような寒さの、雨上がりの夜だった。空は、綺麗じゃなかった。雨雲の名残りは、月を時々隠した。あまり優れない模試の結果を見ながら、家への帰路を歩いていた。  ただすれ違うことなんて、簡単だった。     どっちから話しかけたってわけではないが、強いて言うなら立ち止まったのは彼だった。  いつかのランドセルのように少し小さくなったローファーで、わたしは歩いていた。靴底がかぱかぱする。雨の日は、すぐに靴下にまで雨水が染み込む仕様である。  正面からやって来た腕に青いビニール傘を下げた波留と目があった瞬間、わたしはもしかしたら、助けを求めるような顔をしていたのかもしれない。  最後に「会話」をした頃より、波留はわたしよりも頭二つ分は大きくなっていたし、色々な距離が遠くなった。  だから逆に、話しやすかった。山や海、空に叫ぶのと同じような感覚だった。  昔、よくふたりで遊んだブランコと砂場しかない小さな公園で。ベンチに並んで座って、わたしたちは誰にも言えなかった話をした。  母さんの心の病気が、父さんがいなくなったことと白内障になったことにより、悪化した話。おばあちゃんが父さんの代わりに家に来るようになったけれど、母さんと不仲で喧嘩が絶えない話。母さんが働けないからお金に困っている話。家が相変わらずごみ箱みたいに汚い話も、わたしがきれいにしてもきれいにしても汚くなる話も、全部した。  波留はもう、昔みたいに投げ捨てなかった。一回一回、彼が強く相槌を打ってくれるたびに、わたしは久しぶりに自分の存在を肯定してもらえた気になった。学校では誰にも見せることのできない、本当のわたしを。  それこそ昔の波留のように、ごみをまき散らすように話した言葉を、ちりとりでかき集めて、代わりにごみ箱に捨てようとしてくれているみたいだった。  波留も、波留の話をしてくれた。  波留が変わったのが、男の子だから当然だと、どうしてそれだけで片付けてしまったのだろう。彼の閉ざされた世界に気づかなかったのだろう。  左耳を指さして、きこえないんだって薄い笑みを浮かべる彼を見て、全身からばっと汗が吹き出して、痺れて痛くて、すぐに乾いた。  わたしの母さんの視野が狭くなって、心の中も狭くなっていったように。波留は片耳がきこえなくなってから、世界の色がワントーン、いや、それ以上に落ちたと言った。  わたしに一番知られたくなかったけど、わたしにしか話せなかったと言った。  すぐに波留の右側に移動すると、ありがとうと、線の濃い二重まぶたと分厚い涙袋で、あのまんまるの瞳を包み込んだ。 波留の話に耳をすませ、相槌には心と力を込めた。ぽつりぽつり。今にもまた雨が降り出しそうな話し方で、波留はわたしの知らなかった話をした。 ◆  小学校六年生の夏休み。夏休みが始まって、まだ一週間も経っていなかった。朝起きると、母親の一階から呼ぶ声がいつもと違って聞きづらい。窓の外の車の音も、なにかが変だ。階段を降りる自分の足音も小さい。  左耳に手をあてても、なにも変わらない。  右耳に手をあてると、いよいよひとりになった。  左手はぶら下がってるのに、フライパンの上で油がはじける音も、母親の鼻歌も、父親が髭を剃る音も、どこかにいってしまった。  怖くておかしくて、でもばれないようにしようと思って。かえってその気負いのせいで、朝ごはんのトーストに流したくもない涙はぼろぼろ零れ落ちてった。スプーンを強く握りしめたけど、そんなんじゃ堪え切れなかった。父親と母親の心配する声や姿も、現実味が薄れて、音の小さいテレビをみているような感覚になった。  それからは病院に連れてかれて、病名を告げられて、障害者手帳をとるために奔走して……でも、どこにも心はなくて。流れ作業のようだった。社会の授業で見た、アイス工場のビデオが浮かんだ。いつの間に自分も、灰色のベルトコンベアに乗っていたのだろう。  すぐに、茜の家のことを思い出した。いつも心配そうに奥の部屋から子供たちを覗いていた、目の細い茜のお母さんが、頭の中で自分を責めてくる。声も聞いたことがないのに。  これは、茜の家に言った言葉の天罰に違いない。ごみはごみ箱に、だった。身を持ってそう思わざる得なかった。  それからは、自分が子供のようになった気がした。背は高くなれど、比例して、心はどんどん小さくなっていく。  他人と関わることが嫌になったし、家族にわがままを言うようになった。みんなが当たり前のように我慢して飲み込んで生きてる言葉も、口から溢れ出てくるようになった。  耳がきこえない病が、心に虫食い穴をあける病の手首も掴んで連れてきたのだ。  でも、虫食い穴の病を増幅させたのは家族だった。両親は腫物のように接してきたが、そうかと思えば、今までと同じように扱った。  きこえない。きこえるって。きこえないよ。きこえてる。きこえなかった。きこえてた。  自分の障害を理解し接している人々の心の中に、こんな声の応酬を感じるようになってからは、自分の障害を知っている人間をますます増やすものかと決意した。  でも、そんな決意をしてすぐに、ごみ箱と呼んだ茜の家がまた浮かぶ。  汚い汚い茜の家。いつも帰る時に机の上に見える晩ご販は粗末なものだった。かわいそうに。そう思うことしかできなかった自分が、一番、かわいそうだったとは知らずに。  茜とは、もう関われないと思った。茜のことを考えると、恥ずかしさと愚かさと悲しさと不甲斐なさと怒りと、どれがどれだか区別しづらい無数の気持ちが混ざっては分離して、また混ざる。  夏休みが明けて学校が始まってからも、茜の家には行かなかった。行けなくなった。  学校でも距離を少しずつ置いていったけれど、茜も追ってこなかった。  これでよかったのだと思った。  担任は孤立していく自分を見かね、みんなに耳について話そうと何度も提案してきたが、大きなお世話だとしか思わなかった。  知られてなるものか。心の中で呟くたびに、本当は茜の顔が閃光のようにさし込んできた。  茜のことを忘れたことは、一度もなかった。 ◆  話し終えてわたしの目をじっと見つめる波留の中には、まるで透明な砂漠が広がっているように見えた。乾き渇いているけれど、どこまでも澄み切っている矛盾。初めてわたしは波留が抱えているものが、母さんと似てきていると感じた。  片足は、もう踏み込んでしまっている。  でもどうか、もう片足はそのままで。こっちの世界には来ないでほしい。 「茜、聞いてくれてありがとう。あと、もう一つ言いたいことがあるんだ」  波留は小さく深呼吸をすると、今までよりも強く、わたしの目をみつめた。 「ずっと、茜に謝りたいと思ってた。茜の家をごみ箱だなんて言って、本当にごめん。俺がいくら文句をつけても、茜の家がきれいになるわけでも、おいしいご飯が出てくるわけでもないって。今ならわかるよ。茜と茜のお母さんに、悪いことをした」  そう言うと、波留は深く深く、頭を下げた。ずっと胸の底でかさぶたのようにじゅくじゅくと固まっていたものが、剥がれていくのを感じた。剥がれた下から、苦いほどの悲しみが流れ出てくる。  波留は、わたしのことを思って、わたしの家をごみ箱と言った。波留の言葉をきいて、波留をみて、母さんが少しでも変わるのではないかと、子供ながらに考えていた。  どうしてわかってあげられなかったのだろう。波留が悪意だけであんなことを言ったりするわけがないって、疑わなかったのだろう。いなくなる波留を、引き止めなかったのだろう。息をするのも苦しくなるほどの気持ちに、わたしは、生まれて初めてなった。 「波留、ごめん……ずっと一緒にいたのに、波留のこと信じてあげられなくて……ありがとう。わたしのことを、ずっと心配してきてくれて」  感情と熱が顔中に集まって、わたしの目の裏の湖を押し上げていく。湖はやがて氾濫して、波留を困らせた。波留は眉毛を八の字にして小さく笑いながら、わたしの頭をわたしの湖が静かになるまで撫で続けた。 「俺は大丈夫だから」  あれほど、母さんのことを自分本位な人間だと思ってきたけれど、両目で世界を広くみえても、わたしなんかこんなものだった。わたしは、自分が恥ずかしかった。 「茜。お母さんを責めるなって言っても、難しいと思う。茜の今の感情や生活の根本に常に立っているのは、お母さんだね。悲しい時や腹の立つ時、誰かと過ごす時にも、茜はお母さんの影踏みをしている。でもそれって、全然お母さんと対等じゃないと思うんだ」 「対等じゃ、ない?」 「そう。茜の見える世界や歩いていける世界は広いから、茜の方が大きくなってくんだ。それはもう、酷なことだけど必然なんだ。茜は広い世界を見てるけど、その一角にあるお母さんの狭い世界に目を瞑ってる。どうしても親子だから、割り切れないことはたくさんあると思う。でも、子供の茜しかできないことは多くあるんだよ。まずは、お母さんの存在を認めてあげて。頑張って生きていることを、静かに認めてあげて」  その言葉は、波留自身も求めているものに違いなかった。わたしは、何度も何度も頷いた。母さんを否定すれば傷つくのは、母さんだけではなかった。多くの人を傷つけて、その中に自分もいたと、今さら、気づかされた。 「あとね、俺は障害者ではないんだよ」  片耳難聴では、障害者手帳を持てないことがほとんどだそうだ。彼は今、健常者でも障害者でもない、名前のないところにいる。左耳がきこえない波留は持つことができないけれど、右目のみえない母さんは障害者手帳を持つことができる。 「だから、茜のお母さんが障害者だということを、もう一度考えてみて」  考えたこともなかったことを、波留はこの二年の間にかき集めて持ってきてくれた。  それから、わたしが泣き止むまで波留は待ってくれていた。すっかり冷えた体を案じて、もう家に帰ってお風呂にでも入ってあたたまりなと笑いながら、波留は立ち上がった。  波留がまた行ってしまう。十二歳の夏休み明けから、じわじわと押し寄せてきた小波が今、一気に大波となり、わたしに襲い掛かろうとしている。  今にも歩き出そうとする波留の袖を、わたしは、反射的に握っていた。 「波留、またわたしと友達になってくれますか……理由なんてなくても、会ってくれますか」  すぐに返事はかえってこなかった。  けれど、わたしは自分よがりの考え方はもうしなかった。波留がわたしのことを嫌だからとか、「わたし」について迷っているのではなんて考えなかった。黙って、待った。 「俺はただでさえ面倒くさい性格なのに、耳のことで茜に迷惑をかけるし、嫌な気持ちにさせるかもしれない。それでも、いいの?」  答えはもう決まっていた。正解にするのはわたし自身だということも、わかっていた。  その日の晩、わたしは自分の家に帰った。母さんは、いきなり帰って来たわたしに驚いて、久しぶりに自分以外のために泣いた。  おばあちゃんの家に置きっぱなしだった荷物は、次の日には全部持って帰って来た。  母さんの呪いの言葉には変わらず耳をふさぎたくなる時があったけれど、きこえることのできる幸せに波留のおかげで気づけたから、もう塞がなかった。頷いて、母さんを認めた。生きていてくれて、育ててくれてありがとう、逃げ出してごめんなさいと。やっと言えた。母さんの呪いの言葉は少しずつ減っていって、家も一緒に片付けたからきれいになった。  ちょっとずつだけれど、わたしは両目の世界だけではなく、母さんの左目の世界を見ることができるようになった。 「波留、おはよう」  そして今日も、波留のイヤホンは、波留の右耳と、わたしの左耳におさまって。わたしの左手は、波留の右手を感じて生きていく。願わくば、ずっとずっと。ただ、わたしたちの幸福な世界を、わたしたちは生きていく。  そして今日も、波留の右耳のイヤホンはわたしの左耳におさまって、わたしの左手は、波留の右手を感じて生きていく。願わくば、ずっとずっと。ただ、わたしたちの幸福な世界を、わたしたちは生きていく。
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