妖怪の町、月影町

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妖怪の町、月影町

「――おお、すごい! いい! いいよー!」 嘉神ハルは、一眼レフのデジタルカメラを構えて、立ち並ぶ無数の鳥居を写真に収める。 ここは京都、伏見稲荷の千本鳥居。 シーズンを外した早朝というとても限定された時間であれば、運が良ければ、観光客がおらず、写真が撮り放題なのだ。 ハルは、今年からカメラを始めた三十二歳のOLだ。 人は、三十歳になると節目を感じるのか、新しいことを始めたくなるもので、ハルも自分の行き詰った人生に嫌気がさして、新しく趣味を始めた。 ボーナスをつぎ込んで、三万円もする良いカメラを買った。 退路を断つ目的もあったのだが、そんな心配はしなくていいほど、ハルはカメラにのめり込んでいた。 ハルは入念に調べて、この秋と冬の間――紅葉も終わって雪が降る前の、微妙なシーズンに長期休暇をとった。 ホテルも安くて、人も少ない。 京都の美味いところを余すことなく楽しめるのだ。 早朝の薄暗いくらいの方が、鳥居の朱色が映えて、わびさびを感じる。 ハルは写真を撮りながら鳥居の中を進んでいく。 途中、立ち止まって撮った写真を確認していると、不意に、何かの気配を感じる。 その時、風が吹いた。 季節外れの、生暖かい、吐息のような風だ。 前にも無数の鳥居、背後にも無数の鳥居が存在する中で、気がつくと、前後がわからなくなっていた。 伏見稲荷は基本的に坂になっているのだが、ここは前も後ろも平坦で、どこまでも鳥居が続いている。 (よそ見してたから変なとこ来ちゃったのかな?) こんなところに迷い込んだ覚えはない。 それに、観光で来たのだから、もちろん土地勘など持ち合わせていない。 うろうろと周辺を見回していると、今度は先程とは違う、獣臭のようなものが鼻をくすぐった。 「人間! お前人間か!?」 鳥居の上に、一匹の小さなキツネが座って、見下ろしていた。 ハルはすかさずカメラでその姿を撮る。 なんとも可愛らしい姿だ。 「うわ、なんだそれ!?」 キツネは驚いて顔を背けた。 「あなたは誰?」 喋りながら、ハルは撮った写真を確認する。 逆光にもピンボケなっていないし、咄嗟にしてはきちんと撮れている。 「俺はここに住むキツネ、不知火だ! お前は人間か?」 「そうだよ。私は人間の、ハルって言うの。……あれ、キツネって喋れるの?」 「今!?」 キツネがハルの目の前に、ふわっと着地する。 「お前、どうやって入ってきたんだ。人間は、鳥居の結界を抜けられないはずなのに……」 「入ってきた? どういうこと? 私は京都に観光に来てただけだよ」 「京都ってのは、人間の町だろう? ここは京都じゃない」 風景が揺らいで、鳥居がひとつを残して消える。 ハルがいたのは、住宅街の中の、小さな稲荷神社の前だった。 「……へ?」 目の前の様子が信じられず、ハルはまばたきを繰り返した。 月影町、と彼が呼んだこの町は、見た目こそ少し古いどこにでもある田舎町だが、どうやら完全に人間の町とは違うようだ。 ハルも京都に詳しいわけではないが、ここが京都ではないことだけは理解した。 空には見たこともない鳥のようなものが飛んでいるし、町にはおおよそ見たことのない生き物がそこかしこにいる。 ハルは興奮気味に、それらを写真に収める。 不知火はそれを呆れたように見ていた。 「お前は何をしにここに来たんだ?」 「私は写真を撮るために来たんだよ」 「人間の世界から?」 「んー、仕事の世界、から?」 おどろおどろしい化け物にシャッターを切る。 不知火はどこかへ案内しようとしているわけではなく、ハルが適当に歩きまわるのをついて回っているだけだ。 幻想的というほど綺麗なものが広がっているわけではない。 しかし、ハルにしてみれば、ここはとても魅力的な町だった。 今を生きる現代人は、非日常を求めて京都に来るのだ。 普段の生活で目にすることのない景色や雰囲気、そういったものが感じたいのだ。 ハルも多分に漏れず、京都へは息抜きや気分転換のつもりで来ていた。 仕事が嫌になって、新しい空気を取り入れたくて。 この月影町は、京都をさらに非日常へ昇華したような町だった。 なぜなら、ハルの他に人間はひとりもいない。 人の形をしていても、ハルと同じ姿をしている者はいないのだ。 何やら、解放されたような気がする。 ずっとこんなところに来てみたかったのかもしれない。 馬鹿馬鹿しいことを真面目にやって、少しばかりのお金をもらって。 カメラを買って、京都に来て、今こうして夢やら現実やらわからない場所を歩いている。 これが現実なのか、そうでないのか。 あとになって写真を見れば、はっきりと分かる。 (現実であってほしいけど) 儚い思いを胸に抱きながら、ハルは写真を撮る。 「そっち行くと大通りだぞ」 「大通りって何かあるの?」 「店とか施設とか……。まあ、今の時間はあんまり機能してないけど。妖怪はみんな、夜に起きるからな。言ってみれば、今の時間帯は人間の世界で言うところの晩ってところだ」 「あ、じゃあ、不知火は不良なんだー」 「なんだその言い方は」 不知火は怒ったように言うと、ハルの前に立ちはだかった。 「言っておくが! 俺は三百歳のキツネなんだぞ。お前よりよっぽど年上だ。あ、おい、ちょっと待て」 「尻尾もふもふだねぇ」 「触るな! 話を聞け!」 ハルの手から抜け出して、不知火は首を後ろ脚で掻いた。 「じゃあ、その三百歳の不知火さんは、なんで私についてくるの?」 「なんでって、気になるだろ。俺は人間を見るのは初めてなんだ」 「三百年も生きてるのに?」 「三百年生きてるからって、いつでも人間に遭遇できるわけじゃない」 「私とは貴重な出会いなんだねぇ」 「そういう言い方は、ムカつく」 口を尖らせると、不知火はまた歩き始めた。 「――大通りって、行かない方がいいの?」 「ん?」 「いや、わざわざ言ったから。さっきまで町の説明しなかったじゃん」 直感的に、不知火の言い方から、ハルはそう思っていた。 だから、さっきからここで歩みを止めているのだ。 「人間のこと、嫌いなやつだっているんでしょ」 「わかるのか?」 「よくあることじゃん。人間のことが嫌いだなんて」 「よくあるのか……」 「そうだよ。よくある。漫画で読んだことある」 「まんが?」 「知らないの? 人間の文化に疎いなあ!」 からかうように言うと、不知火は不満気に前足を出して、ハルの足を叩く。 「ところで、どこかおススメの場所ある? 歩き疲れちゃった」 可愛い仕草に一通り満足すると、ハルはいたずらに笑った。 不知火に案内されて、ハルは通りにあった、無人の茶屋のベンチに座っていた。 木陰にいると、光がちらちらと降り注ぐ。 こんなに明るくて風も気持ちいいのに、全く混んでいないのは不思議なものだ。 「そういえば、帰るつもりはあるのか?」 「え?」 「一回も言ってないだろ。帰るって」 言われてみれば、とハルは考える。 「帰るつもりあるよ。当然だよ。だって、仕事もあるし」 「じゃあ帰る方法探さなくていいのか?」 「へ? 帰られないの?」 「帰られないよ。人間に会ったこと無いって言ったろ」 「はい? じゃあ、どうすんの?」 「それを聞いてるんだろ!?」 「えー、とりあえず、帰る方法を探しましょう」 カメラを首から下げて、空を見上げる。 ハルはあまり悲観的には考えていなかった。 旅行の延長線上というほかない。 ちょっとした冒険に、胸が躍る思いだ。 「思い当たることある?」 「俺? 知らないよ」 「私もー」 「何でだよ!?」 何であれ、解決策を探す基本は、有識者を探すことだ。 「詳しい人、いないの?」 「何に詳しいやつなのかによる。何でも知ってるやつなんていないからな」 「えっと、じゃあ、鳥居?」 ハルは自分が鳥居の真ん中から移動したことを思い出す。 鳥居が関係していることは間違いない。 「おとろしってやつがいる」 「知ってる。あの、顔だけみたいなやつでしょ」 「知ってるのか? それも“まんが”か?」 「そうそう」 あはは、とハルは笑う。 本当に、昔読んだ漫画に出てきたのをたまたま覚えていただけだ。 おとろし、とは鳥居の上から落ちてきて、不信心な者を驚かす妖怪だ。 見た目こそ恐ろしいが、それほど悪さをするようなものだとは聞いたことがない。 「会ってみようよ」 「俺、あいつ苦手なんだよ」 不知火は文句を言いつつ、渋々ベンチから降りる。 彼に案内されて、町の中を進み、山手へと差し掛かる。 先程も歩き回っていたが、この町はどこまでも続いている。 景色の端が見えない。 山は町の中にそびえたっており、その周囲にも見える範囲ではずっと町並みが続いている。 しかし、高い建物や電波塔などはなくて、圧迫感はない。 (本当に、人間の世界とは違うんだ……) そう思ったのは、山に入った途端、視界のほとんどが見えなくなったからだ。 さすがにハルも不安になり、白い濃霧に覆われたようにして見えなくなった周囲を見回す。 「山には、たくさんの妖怪がいる。だからすごく広いんだぜ」 「そうなんだ。どれくらい?」 「妖怪の数だけ山が広がってるんだ。俺にもわからないよ」 「妖怪が場所を広げるの?」 「人間は違うのか? 妖怪は自分の場所を自分で作るんだよ」 だから、町が無限に続いているのか。 すでにあるところに住むのではなく、増えるたびに新しく作るのだ。 「じゃあ、この山もあの町と同じくらい広い?」 「まあ、そうだな」 濃霧の中を歩いていく。 生えている草木を写真に撮ったりしていると、やがて、大きな石造りの鳥居がぽつんと現れた。 あるのは鳥居だけで、その前にも後ろにも、社のようなものはない。 「……おとろしはどこにいるの? 何も見えないけど」 「鳥居をくぐるんだよ」 「あー、なるほどね」 不信心ではあるけども、そう言われると複雑な気持ちになる。 何が起こるのかはわかっているつもりで、ハルはどきどきしながらも鳥居の足元へと進む。 くぐると、ドン、という音と衝撃が背後から響いた。 「誰だあ、おれの鳥居を通るのは……」 振り返ると、ハルよりも何倍も大きな頭部、それに張りつく、ぬらぬらとした不気味な長髪。 口は大きく裂け、鋭く尖った牙が顔を覗かせている。 しかし、思っていたほど、怖くない。 「あなたがおとろし? 私は人間のハル。よろしく」 「…………」 おとろしは困惑した表情で、不知火の方へ視線を投げかける。 不知火は諦めた様子で首を振った。 「――話はわかったあ」 不知火からの簡単な経緯を聞いて、おとろしは頭を地面にこすりながら大きく頷いた。 「鳥居にはあ、世界と世界を繋ぐものもあるんだあ。それを通ったのではないかあ?」 「世界と世界を繋ぐもの……」 伏見稲荷の鳥居にそんな特殊なものがあったら今頃行方不明者が続出して大変なことになるのではないか、とハルは訝しむ。 「条件みたいなものってあるの?」 「条件……」 おとろしは目を閉じて考え込む。 「――特殊な鳥居はあ、術をかけられている鳥居だあ。誰かがあ、術をかけたらあ、性質が変化することもある」 「術って、どんな?」 「人間の世界と妖怪の世界を繋ぐ術だあ」 それを聞いて、不知火が口を挟む。 「そんなもの、そう簡単に使えるはずがない。聞いたこともないぞ」 「昔はよくあったあ。人間の都に術をしかけてこちら側に誘い込むんだあ」 「何のために?」 今度はハルが聞く。 「――食うためだあ」 おとろしは大口を開けてハルを見る。 生臭い息がかかって、ハルは顔をしかめた。 「今はどうしてるの? 人間を食べなくても平気?」 「なんだあ、お前。人間のくせに、おれが怖くないのかあ?」 「見た目で人を判断しない主義なの」 「食われても、いいのかあ?」 「嫌だよ。よくない。帰りたいし」 「わけがわからないやつだあ。お前本当に人間かあ? キツネの仲間なんじゃないのかあ?」 「キツネにこんなに変なやついないよ」 「ひどいなー。私は標準的な人間のつもりなんだけど」 元の世界でも変と言われる方ではあったが、妖怪にも言われることになるとは。 おかげで言われ馴れているし、その都度、普通と言い張ることにしている。 「――とにかく、術ならばあ、おれよりもキツネの方が詳しいはずだあ」 「でも、不知火は何も知らないんでしょ?」 「こいつは若いキツネだあ。仙狐に会えば、知っているに違いない」 「若いキツネ? 三百歳だって言ってたけど」 「三百年はまだ小僧だあ。妖怪は五百年を越えてようやく一人前だあ」 おとろしに小僧と呼ばれても、不知火は文句を言わなかった。 どうやら彼の方が立場が上らしい。 「仙狐はあ、千歳を越えたキツネだあ。妖怪と人間のことはあ、おれよりも詳しい。そこの小僧も知っているはずだあ」 「そっか。わかった。次はその仙狐って人のとこに行ってみるよ。ありがと」 「……人間から礼を言われたのは、初めてだあ」 おとろしはそう言って笑う。 「あ、ねえ、写真撮ってもいい?」 聞きながら、ハルはすでにカメラを構えていた。 レンズの向こうにはちゃんとおとろしが写っている。 「人間の世界に持ち帰るのかあ?」 「まあね。あっ、他人に見せたりしないよ。自分が見るだけ」 そう言い訳しながら、シャッターを押す。 他の誰にも撮れない、自分だけの写真だ。 不知火はおとろしのところから少し離れると、言った。 「……仙狐のとこは、本当にやめといた方がいい」 「どうして?」 「だって、危ないんだよ。仙狐は、昔、人間のところで悪さをしていたキツネだ。おとろしはああ言ってたけど、人間を食べたりはしていない。でも仙狐はそういうことをしたことのあるキツネなんだ」 「私が食べられるかもしれないって?」 「わかんないけど、でも、心配なんだ」 消え入りそうな声で、彼は言う。 ハルは屈んで、不知火と目線を合わせた。 「大丈夫だよ」 「大丈夫って、どうしてそんな自信があるんだよ」 「自信なんてないよ。私も食べられたくないけど、食べられたくないことがわかると、食べられちゃうかもしれないから」 「……意味わからない」 「ふふ、これでも社会人なんだよ。自信って、ないよりあった方がいいものなんだ。びくびくしてると自分の力も出せないよ」 自信は毒にも薬にもなる。 決して過剰にはならず、普段通りで居続けることが、自分の力を引き出すことに繋がる。 ハルは今までの経験から、それがわかっていた。 「もし食べられちゃったら、カメラだけでも人間の世界に返してね」 「質の悪い冗談言うなよ」 「ごめんごめん」 不知火はハルに呆れたのか、諦めたのか。 何も言わず、また道案内を始めた。 山の中を右へ左へと進む。 この濃霧の中でも、彼には道が見えているのだろうか。 きっと、ハルのような人間には見えない道なのだろう。 三十分ほど歩くと、不知火は立ち止まった。 「もうすぐ、仙狐のいる白糸の滝だ。……本当に行くのか?」 「うん、行く」 「……わかった。カメラは預かっておくよ。壊されたら、困るだろう?」 不知火が言う通り、カメラのストラップを縛って、首にかけてあげる。 ハルは柔軟をして、よし、と気合を入れた。 さらに進むと、水の音が聞こえ始めた。 (滝の音だ……) そう思うと濃霧が晴れて、細いが力強い滝が姿を現した。 突然に景色や地形が変わるため、少し戸惑う。 「ちょっと待て」 不知火が言って、先に滝まで行く。 「仙狐、いるか」 そう声をかけると、一陣のつむじ風が起こり、白くて大きなキツネが姿を現した。 両目がまるで洞のように黒くて深い。 「呼ばずとも、私はここにいる」 「人間が、お前に聞きたいことがあるそうだ」 「人間が……?」 顔をハルへ向ける。 「こんにちは」 「生きている人間を見るのは久しぶりだ。どれ、近くに来い」 仙狐が言うと、ハルが動こうとする前に、身体が勝手に歩き出して、滝の近くで止まった。 「驚いているな。私の術に……」 仙狐は自慢げに言う。 「人間を操るなど容易いこと。それを忘れることなきようにな。私を恐れよ、人間。恐れを知らぬ人間は、長くは生きられぬぞ」 「びっくりした……。すごいことできるんですね」 「……む?」 ハルの反応が予想と違ったのか、仙狐は首を傾げた。 「術が得意なキツネだって聞きましたよ。他にはどんなことができるんですか?」 「私に何をさせるつもりだ? ――まあ、いい。私は何でもできる。何にでもなれる。このようにな」 白煙があがり、仙狐の姿が、人間のように変化する。 僧衣を着ていて、白い頭巾を被った尼の格好だ。 「以前はよく、この姿で人を騙し、食らったものだ」 「これだったら確かに騙されるね……」 「そうだろう、そうだろう。こういうこともできるぞ」 もう一度白煙が上がると、仙狐は五メートルほどの大きさに膨れ上がり、真っ赤な鬼の様相を見せた。 角は五本、目は十五個もあり、見るからに恐ろしい鬼の化け物だ。 仙狐はハルの真上から見下ろすようにして、声をかける。 「どうだ、恐ろしかろう。酒呑童子だ。本物は頼光の騙し討ちで首を跳ねられておるが、私にも試してみるか?」 「ええと、ごめんなさい。そのシュテンなんとか……さん、わからない」 「何……?」 しゅるしゅると、仙狐はキツネの姿へと戻る。 「お前、頼光の手の者ではないのか?」 「ヨリミツ……?」 聞いたことのない名前だ。 どうやら、何か勘違いをしているらしい。 「誰だ? お前は?」 「私はハルです。観光で京都に来たら、いつの間にかここにいて。彼に案内してもらって、帰る方法を探しているんです」 「妖怪を退治しにきたわけではない、と?」 「退治なんて、そんなこと! あんなに立派な町を作っていて、すごいじゃないですか」 「ふうん……。どうやら、私の知っている人間の様子とは少し違うな……」 仙狐は近づいて、ハルの匂いをくんくんと嗅ぐ。 「知らない匂いだ。やはり、時代が変わったのか」 「そうですね。たぶん、仙狐さんが知っている時代とは、大きく変わっていると思います。妖怪のことなんて、みんな、知りませんし」 「なんと。もう都で暴れるやつもいなくなったか」 「仙狐さんは暴れていたのでしょう?」 「いや、私が都にいたころには、まだ暴れるほどの力は持っていなかった。せいぜいが人間を騙すくらいのものだ」 彼女は懐かしむように、目を細めた。 「大きな力を持つ者は、より大きな力に屈服させられる。酒呑童子たちがやられた時に、我々はもう都には住めないと感じた。頼光の一団は、それはもう、鬼よりも鬼だと評判だったからな」 「そんなに凄い人たちがいたんですね」 「ああ。あれだけのことを成しても、後世に名も残っておらんとは、不憫なものだが……」 仙狐は滝の方を見る。 「人間の世界に帰る方法を調べている、と言ったな。この滝をくぐれば、帰られる」 「そんな簡単に?」 「しかし、時代は選べん。元の世界ではないだろうな。ここから、お前の匂いはしない」 「それは困るなあ。私、京都の伏見稲荷から鳥居を通って来たんです。キツネ繋がりで、何かわかりませんか?」 「私らと、稲荷は別の存在だ。わかるはずもない。だが、その話を聞く限りでは、あまり良い問題ではなさそうだ」 「なぜ?」 「考えてもみろ。稲荷ということは社だろう。社には人が集まる。そのようなところに、転移するための術をかけているのだ。社の領域を犯すことの危険性は我々が知らぬはずもあるまい。その行いは悪戯では決して済まぬ。つまり、多少の危険を冒してでも達したい目的のあるものだ」 「それは、誰かが私をここに連れ去ったってこと?」 「だろうな。誰でも良いなら、そのような面倒なことはすまい。町から人間をひとりさらうくらい、誰でもできる。まあ、向こうに行けるだけの力を持つやつだけだが」 会話が途切れ、滝の音が響く。 ハルの知り合いに妖怪はいない。 もちろん、そのような者に会う場所にも行ったことはない。 京都訪れたのだって、修学旅行以来だ。 だから、何者かに狙われる理由が見つからない。 「その人って、私をここに連れてきて、どうしたいんですか?」 「わからぬ。食うつもりなら、入ってきた時に食うておるだろう。不知火がずっとついておるから出てこられていないのかもしれぬが」 「ってことは、不知火よりも、弱い存在ってことですか?」 「そうなるな。邪魔が入ることに極端に弱いやつだ。出てこられないくらいなのだからな」 不知火からカメラを抜きとる。 「仙狐さん、写真、撮ってもいいですか?」 「写真、とな。その道具、もしや魂を抜きとったりはせぬだろうな?」 「さっきおとろしさんも撮ったから大丈夫」 「おとろし、何と不敵な」 仙狐と不知火の立ち並ぶ姿を、ハルは写真に収める。 「ちょっと、考えてみます。一回町に戻ろう、不知火。そろそろ明るいところに行きたい」 「――しばし待て、人間」 仙狐が息をフッと空中に吐くと、風に白い色がついてまとまり、一輪の白い花となった。 ふわふわと漂い、ハルの頭に髪留めのように刺さる。 「これを持っていけ。身を守るだろう」 「ありがとう! 三十にもなって頭に飾りをつけるの、恥ずかしいな……」 「三十など赤子よ。人間の世界に戻ったら外せばよい」 愉快そうに笑う。 白い花は、嗅いだことのない良い匂いがしていた。
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