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風音視点では。
「風音(かざね)ちゃん? うちの響也(きょうや)は、元気にしている?」
「はい。元気ですよ……今日も……多分」
有賀風音(ありがかざね)は、携帯電話を持って隣室側の壁を見つめたまま、歯切れ悪く答えた。
「そう! それなら良かったわ! うちの響也ったら、私が連絡しても無視するか、仕事を理由に全く相手をしてくれなくてね……」
「そうですか……伯母様も大変ですね……」
また始まったっと、風音はバレないように溜め息を吐いたのだった。こうなると、伯母様の話が長くなるのは、昔から同じであった。
伯母様は、風音が住むマンションの隣室に住んでいる、従兄弟で同い年で、現在、人気俳優として活躍している有賀響也(ありがきょうや)の母親であった。
また、風音が高校生の時までに通っていたピアノ教室の先生でもあった。響也に似て綺麗な顔立ちの伯母様は、ピアノ教室に通う男子を中心として、とても人気のあるピアノの先生でもあったがーーピアノに関しては、妥協をしない、させてくれない、厳しい先生でもあった。
「響也だけじゃなくてうちの子供達も、風音ちゃんのように、親思いの優しい子だったら、良かったのに……」
「そ、そうですか……? アタ……じゃなくて、ワタシもあまり親思いでは無いですよ?」
(危ない、危ない。いつもの癖で、アタシって言うところだった)
風音が子供の頃、両親の仕事の都合で、何度か響也の家に預けられた時に、「アタシ」って言ったら、伯母様に「アタシじゃなくて、ワタシでしょ!」っと、散々注意されたのを思い出したのだった。
伯母様は元々、良い所のお嬢様だったようで、風音と自分の子供達に対しては、行儀作法にも厳しい一面があった。
伯母様は、風音と響也、響也と歳の離れた響也のお兄さんには、プロの音楽家になって欲しかったようで、子供の頃に、行儀作法と言葉遣いは伯母様によって撤退的に直されたのだった。
その為、風音はそこそこだが、伯母様の実子である響也と響也のお兄さんは、特に行儀が良くなったのだった。
結果として、誰一人として、伯母様の目的である音楽家にはならなかったが、響也は俳優として、響也のお兄さんは海外での仕事と結婚が成功するきっかけとなったのだから、伯母様の教育の賜物と言えるだろう。
「ねぇ、風音ちゃん?」
伯母様は話しづらそうに切り出した。
「今度、うちのピアノ教室で、小学生と中学生のコンクール部門と、高校生以上の生徒によるコンサート部門を開催するんだけど、風音ちゃんも参加してみない? もちろん、コンクール部門じゃなくて、コンサート部門で」
コンクールという言葉に風音は、電話越しにビックっとなって携帯電話を落としそうになった。
「でも、伯母様。ワタシはもう、ピアノを辞めてしまったので。それに、一人暮らしを始めてから全く触れていないので、弾けません」
嘘だ。ピアノは、たまに触れている。
大学の軽音サークルや合唱サークルで、ピアノ担当者が不在の時に、渋々代理で弾いている。
おそらく、響也はこの事を知らないはずだ。知っていれば、必ず言ってくるはず。
「お前は、やっぱりピアノを続けた方がいい」と。
「そう……残念ね。でも、もし、コンサートに参加したくなったら、連絡してね。コンサートには、まだまだ時間があるから」
コンサート部門に参加する生徒がいなくてねっと、コンサートの内情を漏らす伯母様と、それからいくつか会話をした後に、風音は電話を切った。
それから、風音はベランダに出た。頰に当たる夜風が気持ち良かった。春先になったとはいえ、気がつくと、あっと言う間に外は暗くなっていた。
隣室のベランダを覗くと、響也はまだ仕事から戻って来ていないようで、部屋の電気が点いていなかった。
「コンクールか……」
風音は、かつて一度だけ、コンクールに出場した事があった。そして、金賞を受賞したのだった。
名誉たる金賞。
自分の努力の証たる金賞。
になるはずであったーー「あの時」までは。
風音は「あの時」の事を思い出して、両耳を抑えて、その場に蹲った。両目には涙が浮かんだ。
ピアノを弾く事が、ただただ、純粋に楽しかった子供時代は終わった。
もう、子供時代には戻れない。
「アタシは、ただ、誰かに喜んでもらいたくて……誰かに楽しく聴いてもらいたかっただけなのに……」
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