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織田木瓜、それは明智一族の心の奥底に印された焼き印
あの衝撃の出会いから二週間は経っただろうか。
久しぶりに会った”彼”は全く別の馬に変わっていた。
見違えるほどに大人しく従順になった”彼”は。まるで以前からずっとそこに飼われていたかのように、当てが割られた二頭分のキャパの厩でその大きな馬体を持て余すようにひっそりとその蹄を休めていた。
(何かあったん?)
(うん、なんやろ。私にもようわからんねんけど、口から火を吹くほどの勢い
があった子がなんかポニーみたいな優しい目になってもうて・・・)
そんな三枝木女子のラインの呟きに誘われるように久しぶりに私は岩倉の乗馬クラブに顔を出した。愛車のスーパーカブの小気味良いエンジン音を響かせて馬の蹄鉄を模した煉瓦造りの門をくぐると青いとんがり屋根にちょこんとチャペルが乗った瀟洒な建物。建てられたのは明治時代の終り頃で築百年は大きく越えたもう文化遺産と言ってもいい岩倉乗馬クラブ。 周りを取り囲む新緑は昨夜ひとしきり降った雨が一層鮮やかに色濃く魅せていた。
「えーっ。あんたまたあの原チャで来たん?
ようセーラー服のスカート捲れあがれへんなぁ」
クラブのロビーの窓から見えるカスタマイズされた2019年モデルのスーパーカブは今の私の一番の宝物だ。ショッキングピンクの車体をシルキーピンクにコーティングし直したその姿は雅な古都の佇まいには良く似合う。
「令和のJKにはいろんな裏技があんねんて。それに50ccの原付と違うし原二の110ccで二人乗りもできるし。京都は上がれば(北上)ほとんど坂道やし。
か弱い京女にはバイクはほんと必須やわ」
「なんや、原チャとか原二とかよう分からんけど、あのお父はんよう許さはったなぁ。うちが母親やったら・・・」
と言いかけて三枝木女史は息を止める。
開け放された窓から聞こえる小鳥達の朝の合唱がひときわ大きくなる。
「うちが母親やったら?・・・」
聞き返した自分の言葉にハッとした。
三枝木女史が母親だったら二人の関係はどうなったのか、どう変わっていたのか。それは私の人生永遠のテーマである訳で...。
「そうやなぁ、あんたにとってうちが三枝木女史やなかったら...」
そこで彼女は少し間を置く。
通り抜けてくる風は気持ち良く、二人の髪をさわさわと揺らし頬を優しく撫でてゆく。馬場の砂を駆る蹄の音、それに交じって聞こえてくる彼等の嘶き。
それは私の幼い頃からの聞き馴染んだ言わば子守唄のようなもの。
「ギュっとしてたやろな。もっといっぱいギュっとしてた」
「ずるい言い方やん」
彼女は意外そうに繭を少し上げ小首を傾げた。おそらく自分にしては最も無難でハートフルな答えを出したつもりだったんだろう。母親を持てなかった私には心のひとつもときめいてくれると思ったのかもしれない。
「パパもギュッとはしてくれる、けど母親のそれとは違う。それを知らない私にそんな言葉はずるい。違う?三枝木女史」
「ふふっ」
「何が可笑しいのん?三枝木女史」
「知らん間に理屈っぽなって。そないなことが言える年になってんなぁ璃子も
やっぱりこれも・・・・」
「明智の血なのかなぁ・・・?」
「こら、先言わんといてくれる?」
少し澱みかけた二人の間の空気のだまが三枝木女史のコロコロとした笑い声で溶けていく。
明智一族の血脈。パパは立ち入ることが出来ない私と三枝木女史だけのテリトリー。そこに何があるかはまだ知らないけれどきっと尊い私の考えも及ばない何かがあるわけで。
「さぁ、まずはお腹ごしらえやね。何か作る?それとも何処か食べに行く?」
三枝木女史の声に促されてソファーから少し重いお尻を上げる。
その時だった。
北山杉の一枚板をくり貫いて設えられた岩倉クラブ自慢の玄関のガラス戸。その向こうに勢い込んで駆けてくる数名の人影が見えた。自動ドアが開くのもどかしそうに押し開けてなだれ込むようにして入ってくる。
「社長!もう訳がわかりまへんわ、あの馬!」
血相を変えて飛び込んで来たのは調教主任の野々宮さんだった。後に続くのは今年高校を出てクラブに入ったばかりの見習いの楓ちゃん。
「ののさん、あの馬って、さっきみんなして見たとこやないの?
璃子に頬擦りまでしてきてんえ、あの子」
「それが...」
野々宮さんが楓ちゃんの方に視線を送る。うつむいたまま顔を上げようとしない佐々野楓18歳。その頬にはもう泣き張らしたような涙の跡が見られた。
「楓ちゃん、何があったん?」
いたたまれず周りの声を制するように私は声を上げた。
楓ちゃんはは鼻水を二三回しゃくり上げたあとまるでこの世の不幸を一身に背負ったような表情を私に向けた。
「良かったって...。良い子になってくれてありがとうって。
今朝はずっとあの子の耳元でそうささやきながら世話をしてて...。
わかってくれたんだよ楓ちゃんのことをって野々宮さんもそう言ってくれて..」
「それで...?」
私の急かす声に三枝木女史はゆっくりと手のひらを上げる。
「ののさん、まずはあなたから状況を聞かせて。その方がいいと思う」
「そ、そうですね。わかりました」
野々宮さんは口許を十文字に結ぶようにそう言うと、後ろ手に携えていた小さな手提げのポリ袋をそっと私達の前に差し出した。
中を覗いた途端、
「えっ、何...?」
おそらく想像していたものとは全く違ったのだろう。手で口を抑えた三枝木女史の顔がみるみる青ざめていく。
「まだ厩に何個も落ちてます、至るところに」
鳩とカラス、そして鶏の首。まだ血も渇かず滴り落ちているような状態。
「社長と璃子さんが厩まで来られて帰られてほんの4,50分の間に起こったことで。そやから私も、その、何が何やら分からへん状況で。まず報告と思うて...」
「私がいけないんです」
楓ちゃんの心の底から絞り出すような声が野々宮さんの話を遮る。
「皆さんが去ったあと、厩のなかを掃除してたらあの子の鬣(たてがみ)が急に気になり出して。ずっと洗えてなかったし伸び放題だったから調えて上げよと思ったんです。
お湯をかけて洗って上げて、ドライヤーで乾かして上げて
それで毛並みを揃えてたら...」
「揃えてたら...どうしたん?」
楓ちゃんの震える声。それを静めるような低く囁くような三枝木女史の声。
「鬣の根本の部分に汚れのようなアザのようなものが見えて。何かなって思ってタオルでこすってみたら、急に立ち上がるように前足を上げて目を剥いて歯を剥いて、それで・・、」
「・・・・」
「焼き印だったんです、何かのマークみたいな」
「どんな、どんなマーク?もしかしてそれって・・・」
「・・家紋みたいなやつじゃないよね?」
私のことばに被せるように三枝木女史が言う。
「家紋?そう言われればそうかも分からへんけど、桜の花みたいなやつ」
「桜の花?」
「ハイ、桜の花の周りを花弁で囲んでるみたいな」
三枝木女史が振り返って私を見た。
桜のような花、周りに花びら。それは明智一族にとっては心の奥に深く記された焼印のようなもの。
「織田木瓜・・・」
三枝木女史の無言で動く口許をなぞるように私はそう呟いた。
先ほどまであれほど世話しなく鳴いていた小鳥のさえずりも嘘のように消え
その代わりに遠くでカラスの長くて低い地を這うような鳴き声が聞こえていた。
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