序章

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序章

天正十年、六月二日 ──── たれか、たれか、馬引けぇーーー! 見上げれば火の粉が天高く空を舞い、行く手は炎の渦が地面をオレンジ色に染めあげていく。 辺りには一寸先も見通せないほどに白煙が立ち込めていた。 弥助!蘭丸! 蘭丸様は、もう既に・・! 無数に襲いかかる鏑矢を双刀で払い除けながら弥助が叫ぶ。 事切れたと申すか! ははっ 是非にも及ばず、 今にも吐き出しそうなその言葉を魔王は胸の奥へと押し戻す。 己なくしてなんの日の本か。 織田信長なくしてなんの天下か。 生きねばならない。 むざむざとこの身を天に捧げるのは愚の骨頂。 自ら火を放ったは死中に活を求めんが為。 「馬屋は無事か?」 「はっ、今のところはまだ」 「よし、火焔のなかに押し通る!弥助、早う、馬引けぃ!」 壁や廊下には無数の鏑矢が突き刺さり そんな状況でもこの魔王は自らが生きんがための策を模索していた。 奥座敷にひとり篭り辺りに火を放ち自らの命を絶とうとしたそんな織田信長は何処にもいない。 ──── 信長がいたぞー! 火炎の渦巻くなかにこだまする声。煙の向こうに水色桔梗の旗が無数に揺れていた。 その時だった。 「親方様!あれを!」 弥助の大きな黒い手が指し示す先には軍勢に追われながら、翼をばたつかせ今にも飛び上がらんばかりの信長の愛馬がいた。 ブルルン!ブルルルーーン! 信長に気づくと彼は蹄を鳴らし喉を震わせ、まるで何かを訴えるように膝まずく。四方から飛んでくる矢を避けようともせずその大きな黒い瞳を信長へと向けた。 「鬼葦毛・・・」 そして大きく首を振りその黄金色の鬣を震わせ一瞬の間を置いたあと大きな白き翼を拡げ、軍勢を掻き分け漆黒の空へと駆けた。 「一人して、逃げるか鬼葦毛!」 そんな弥助の叫びを手を上げ無言で制する信長。 信長が天馬と呼んで憚らない鬼葦毛。 思えばあの時もそうだった。その大きな白き翼を初めて信長が目にしたのはおけはざま山に陣取る今川勢の大軍に相対した時だった。 蹄を打ち鳴らし前足を大きく振りかぶり低く垂れ込めた雲に雄々しく嘶いた その背にはあるはずのない両翼が見えた。 それは信長だけに見えた翼だったのかもしれない 雄々しく拡げた真白き翼を羽ばたかせるその姿に己を重ねたのかもしれない。 あの日と同じ。 いや同じではないかもしれぬ。 もはやこれまで、我が天命を伝えたのかもしれぬ いやいや違う。 あの真っ直ぐにこちらを射通すようなその眼は、引導を渡すようなものでは決してない。 ─── 諦めてはなりませぬ 天馬鬼葦毛は我に確かにそう告げたのだ。 「ええーい、まだだ!まだまだじゃ!弥助! ありったけの矢を持てぇ!!」
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