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 いったいどのくらいの時間を走ったのだろう。  時非島に辿り着いた陽平(ようへい)は、船着場の隅に背を預けるように座り込んでいた。  海の上を全力疾走。あれだけ常識はずれのことをしたにも関わらず、息切れひとつ起こしていない自分は、本当に数時間前の自分と同じ人間なのだろうか。  忍巨兵(しのびきょへい) 獣王クロスは言っていた。陽平という人間の持つ情報を上書きするのだと。  では、上書きされて消えてしまった部分はどうなってしまったのだろう。  それは本当に、風雅陽平(ふうがようへい)に必要のないものだったのだろうか。 「ヨーヘー?」  驚き半分、嬉しさ半分で顔を上げる。  前者はまだ幼馴染がこの辺りに残っていたことに驚き、後者はまだ自分が風雅 陽平だとわかってもらえるのだという安堵からの嬉しさ。 「なんだよ、まだこんなとこにいたのか。いくら勝手知ったる島だからって、一人歩きするにゃそろそろ時間も遅ェだろ」  努めて自然に言葉を紡ぐ。 「送ってやっから、いい加減帰るぞ光海(みつみ)」  大丈夫。いつも通りだ。どこも変じゃない。  壁を支えに立ち上がり、いかにも仕方がないと不満をもらしたような顔で幼馴染を出迎える。  大丈夫。なにも間違ったりしていない。 「……ヨーヘー、どうしちゃったの?」  光海の言葉に心臓が跳ねる。 「どうって、どこもおかしくなんてねェだろ。馬鹿なこといってないでさっさと帰るぞ」  強引に差し伸べた手は、頭を振って拒絶される。 「ううん、ヨーヘーなんか変だよ」 「ど……どこが変だってンだよ」 「ねぇ、さっきの女の子は?」  訊きながら近づいてくる光海に気圧されるように、壁にまで後ずさる。  すぐに言い訳が思いつかない。とっさに思いついた言葉は、予想以上に間抜けな回答だった。 「行っちまったよ」 「うそ」  間髪入れずに見抜かれて、冷たい汗が背筋を落ちていく。 「うそ」  一文字ずつ噛み締めるように再び告げる光海に、陽平は頬が引き攣るのを感じた。 「なにを、根拠に……」 「ここ」  光海が陽平の腹に触れる。そこは少し前にあの鎧武者に胴切りにされた部分。当然、服は裂け、血で汚れている。 「私、あのときヨーヘーが死んじゃったんだって、怖いのとか、悲しいので頭がいっぱいになったんだけど……」  鎧武者に陽平が斬られた瞬間、あの少女が淡い緑の光を放ったらしい。  帯のように伸びた光がふたつに斬られた陽平を包み込むと、次の瞬間には五体満足な陽平がその場に横たわっていたのだという。 「びっくりなことがが立て続けに起きたからか、私は急に目眩がして、そのまま意識を失っちゃってたみたいだけど」 「目眩って、大丈夫だったのかよ」 「もう。斬られちゃったヨーヘーの方が大ごとだったのに……」  ばかね、と笑う光海を直視することができず、陽平は思わずそっぽを向いてしまう。 「だから」  少し強めの声色に、肩がビクリと跳ね上がる。 「ヨーヘーは、小さな女の子を一人にしたりしないよ。それが自分を助けてくれた人なら尚のこと」  そう告げる幼馴染の表情は、自分の言葉を微塵も疑っていない強さがあった。  照れ隠しも含めて、陽平はできるだけ素っ気なく返事をする。 「買いかぶりすぎだっての」 「そんなことない。ヨーヘーはいつだって怖い思いをしている誰かのために走っていくような人だから」  渇いた笑いが口からこぼれ出した。  その場に尻餅をついて、光海に見られないよう顔を隠す。 「そんなかっこいいモンじゃねェよ……」  勘違いだ。誤解だ。陽平自身、そんなつもりで行動を起こしたことは一度だってない。  光海がなにを根拠にそんなことを言うのかわからないけれど、陽平は決してヒーローなんかじゃない。 「ヨーヘーは忘れちゃったのかもしれないけど、私がずっと覚えてるから。だから心配しないで」  心配なんてしちゃいない。それどころかそんな記憶は忘れてほしいとさえ思った。 「ねぇ」  膝を抱えて俯いた陽平の頭に、光海の掌が振れる。  そっと、やさしく幼馴染の手が触れるたびに、粗ぶった気性が落ち着いていくのがわかる。 「ヨーヘーはきっと、怖い思いをしたんだよね。私が考えてるよりも、もっとずっと怖い目にあったんだよね」  返事をしなければと思ったけれど、それを上手く言葉にできない。  怖かったと認めるのも気恥ずかしいし、怖くなかったと虚勢を張るだけの余力もない。 「だから、一人で戻ってきたんでしょ?」  一人で、の部分にどうしても反応してしまう。  それがどういうことなのか、薄々わかっている。理解してしまっている。 「あの子には、あの子を守る強ェやつがいるんだ。だから、大丈夫……」 「あの子が、そう言ったの? 大丈夫だから、帰ってもいいよって」 「口数の少ねぇ子だったからなんとも言えねェけど、……俺が帰るのを、止めなかった」  思い出す少女の目は、なにを伝えるでもなくただ陽平の姿を見つめていた。  握りしめた拳が痛い。だけど言葉も浮かばず、気持ちのやり場も見つからず、ただ拳を握るしかできなかった。  そんな陽平の拳に、光海の指先が触れる。 「なんとも言えないって、ヨーヘー今、自分で言ったじゃない。あの子は口数が少ないって」  光海の指摘に息が詰まる。  口数の少ない子が、初対面の陽平を引き留めるような真似をしただろうか。  答えはノーだ。 「ヨーヘーが怖いことから逃げるのを止めなかったってことは、あの子が今、怖い思いをしているんじゃないかな?」  心臓を鷲掴みにされたようで、陽平は思わず顔を上げていた。  相当ひどい顔をしていたのだろう。一瞬驚いた光海は、それでも優しい眼差しで陽平の手を握りしめる。 「ねぇ、ヨーヘー。あの子はなんで、ヨーヘーを引き留めなかったんだろうね」 「……わからねぇ」  頭を振って答える。 「そもそもあの子は、どうしてここに来たのかな」 「……それは、たしか……願いを叶えにきたって」 「それは誰のための願いで、なんのための願いだったの?」  思い出すのは「悪魔か」と口にしたときの少女の表情。  無表情。まったく変化がなかったように見えたが、本当は泣きそうな顔にも見えていた。 「俺が……ひでェこと言って、傷つけたから……」 「ヨーヘーの言葉に傷ついたのに、あの子はヨーヘーのことを優先してくれたんだね」  名前もわからず、素性も一切不明な少女だけど、あの子は間違いなく陽平を思ってくれていた。  少なくともそう取れる行動をしていた。 「やさしい子なんだね、あの子」 「そう……かもな」  意地っ張り。そう笑う光海の声に、少しだけいつもを取り戻せた気がした。 「ヨーヘーはそんなのじゃないって言ったけど、ヨーヘーはいつも誰かのために走ってた。それが本当は"思い出せない過去の自分と違う部分を誰かに指摘されるのが不安だったから"なんて理由だったとしてもね」  もう何年も本音は隠していたつもりが、あっさりと見抜かれていた事実に苦笑いする。 「……お、幼馴染って怖ェな」 「でしょ。だから私は知ってるの。ヨーヘーはきっと、怖い思いをしている女の子のために走るんだって」 「……行け、って言うのか?」 「行かないヨーヘーなんて、よ」  胸に刺さる言葉に、陽平は無言で立ち上がる。  夜風が陽平の頬を撫で、吹き抜けていく。  そんな風に言われてしまうことが怖くて逃げてきたというのに。それを直接言われたことで、逆に吹っ切れた気がした。  たしかに今の自分は、風雅陽平らしからぬ行動ばかりだった気がする。 「……行くの?」  光海の問いかけに頷く。 「あの子が困ってンだ。たぶんクロスも……」 「うん」 「……思い出せない過去も、どうなるかわからねぇ未来もどうでもいい。俺はおめぇの知ってる現在(いま)の俺らしく走ることにする」  風が背中を押すように海へと吹き抜けていく。  先ほどまで感じていた恐怖が消えたわけではないけれど、不思議と立ち上がる力は湧いてくる。 「いってらっしゃい」  そんな光海の言葉を背に、陽平は走り出した。
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