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「もういいわ。早くお風呂に行きなさい。そのままだと食卓にはつかせないから」
香苗の記憶が確かならば、息子は玄関先で転がった後、適当に砂を払っただけだったはず。
半ば強引に追い出されるような形で部屋を後にした陽平を見送った香苗は、小さく溜息をつくと、自分以外誰もいなくなったはずの部屋の片隅をじっと凝視した。
「陽平はああ言ってますけど、あなたはどういうつもりなのかしら」
「どうもこうも、鍛え始めたらスポンジが水を吸うように技術を身に着けるのが面白くて、つい」
風景が滲む。そこにうっすらと浮かぶ人影が人の目ではっきりと見えるようになったときには、香苗一人だったはずの部屋にもう一人の姿が確かに在った。
陽平よりも少し高い身長、筋肉の付き方も陽平に比べてがっちりして見えるが、立ち姿や動きにはどこかしなやかさを感じる。無駄だらけの動きには一切の隙がない。
この男こそ香苗が先ほど口にしたばかりの最も強い忍者。風雅雅夫その人だ。
「つい、ね。あの子、たぶん賦力の流れ、目で追えてるわ」
「だろうな。目がまったく興味を隠せていなかった。あのクナイを的に当てるだけでさえ手こずった小僧とはまるで別人だ……」
二人の視線が共に香苗の抱える鉢植えに注がれる。
「身のこなしこそ雑だが、経験したことは忘れない記憶力がある」
「皮肉ね。忘れてしまったことを思い出せないというのに」
「それを俺たちが言うのは、少々皮肉が過ぎるな」
「それで、少しは進展があったのかしら」
話を変えよう。そう受け取った雅夫は、それではと部屋の掛け軸に向かって印を結ぶ。
先程、雅夫が部屋に現れたとき同様に掛け軸前のの空間がぐにゃりと歪む。
歪んだ空間を窓のようにして、向こう側に人影が現れる。
香苗よりも長い髪が印象的で、香苗よりも小柄。着物を着ているらしく広い袖が揺れている。
人影がこちらに気づいたのを合図に、二人は揃ってその場に跪いた。
「“御前様”」
雅夫にそう呼ばれた人影は、手をあげて二人を制する。
『顔を上げてください。お二人は私の師でもあるのですから』
まだ少女らしさを残した女性の声に、二人は顔を見合わせて立ち上がる。
『ここには誰もおりません。いつも通りのお二人でいてください』
「そういうことでしたら……」
「俺も堅苦しいのは得意ではないからな。その方が助かる」
御前様。そう呼ばれた女性が頷くのを見て、二人は小さくため息をついた。
「それで、そちらの方に進展が?」
人影は頭を横に振る。
『お恥ずかしながら、獣王はおろか他の王も目覚める気配はなく。新たな王に至っては蛍の、彼女の才をもってしても難航しているようです』
「一族の悲願を達成するためにも、忍巨兵は必要不可欠。しかし肝心な忍巨兵は封印が解けず、契約者は不在。お手上げだな」
『彼は……陽平さんは、どうしていますか?』
その言葉に香苗は思わず言葉を詰まらせた。
どう答えたところで差し支えはないはずだが、それでもあの子の成長は常軌を逸しているのもまた事実。
世界最強の忍者の血の為せる技か。だとしたらなんとも業の深い血だと思わずにいられなかった。
「あやつは多少使えるようになってきた、というところ。件のクナイは未だ輝きを見せず、また記憶が蘇ったような素振りもない」
つまり一進もなければ一退もない。たとえ陽平自身がどれほど理想の忍者に近づいたとしてもだ。
それはこの10年ほどで一切変わることのなかった事実。
『今更急ぐようなことはありませんが、万が一ということもあります』
「たしかに。あの日のような事態がいつ起こるとも限らない。あれが、俺たちが平和ボケしていたツケなのだとしたら……二度目はない」
雅夫の言葉に香苗も、御前様も頷く。
それほどの犠牲の上に“今”があるのだ。
「そういえば椿の方は? たしか双子の……」
『まだお会いしたことはありませんが、椿の話では足でまといになるようなことはないはず……と』
椿のことは香苗も良く知っている。
彼女は、香苗や雅夫が優秀だと認める数少ない現代の忍者だ。
その椿が弟と妹を手ずから育てているとは聞いていたが、まだ十代半ばでそれほどの忍者に育っているのかと思うと頭が下がる。
「では近いうちに忍巨兵に?」
『そうなる予定です。その際にはどうかお二人も……』
「雅夫さんはともかく、私は遠慮しておくわ。陽平に勘繰られても困る────」
「っ!?」
「これは……」
香苗の感じた気配に雅夫も気づいたらしく、次の言葉も待たずに慌ただしく襖を開け放つ。
『そちらでなにか……』
「ええ。何者かわからないけど、とてつもない量の賦力が流れたのと……」
「何故かあの馬鹿者がそのすぐ傍にいる」
御前様を迎えるためにと張っていた結界が仇になった。
それにしても、てっきり言われた通りに風呂にでも浸かっているかと思えば、なにが陽平を動かしたのか。
「まだ平和ボケしているとでもいうのか………」
忌々し気に吐き捨てる雅夫に香苗は頭を振る。
「余計な詮索は後。今は状況の確認を」
「わかっている。俺は現場に向かう」
文字通り跳び出していく雅夫を見送り、御前様の人影を遮断する。
懐から取り出した小さな笛を咥えると、思い切り賦力を込めて音を鳴らす。
「……何事もなければいいけど」
その願いが聞き届けられることはないと知りながらも、香苗は願わずにはいられなかった。
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