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 時間は少し遡る。  治療を終えた陽平は、母に言われた通りに風呂へと向かっていた。  のんびりと風呂に浸かった後は、母の用意してくれた夕飯を食べて、あとは寝るだけ。そんないつもと変わらない当たり前の行動を、ごく自然に行うはずだった。この瞬間までは。 「……ん? 今、何か声みたいなのが聞こえた気が」  一瞬、また父の悪戯かと思ったが、すぐにその可能性は頭から消えていた。  とくに理由があったわけではないが、誰かが自分を呼んでいる。そう認識した瞬間に、胸が早鐘を打ち始める。  無意識に取り出した思い出のクナイを握りしめ、誰に告げるでもなく家を飛び出していく。 「なんだってンだよ、いったい」  辺りはすでに暗く、月が煌々と輝いている。  雨が降り出すような気配もなく、まるで陽平が行くべき場所を示しているかのように、夜道を風が吹き抜けていく。 「ヨーヘー?」  不意に声をかけられて、陽平は声のする方を振り返る。  別段驚くような相手でもないが、一応訊ねておかねばならない時間だろう。 「光海(みつみ)か。なんでこんなとこに?」 「なんで、じゃないわよ。ヨーヘーこそ、こんな時間にこんなところでなにしてるのよ」 「なにって……そりゃあ……さんぽ?」 「なんで疑問形なのよ」  とくに言い訳が思いつかなかったからだ。と言うのもヤブヘビなので、適当にごまかすことにした。 「そんなことおめぇには関係ねぇだろ。どこでなにしてようが俺の勝手だろ」  その言葉に光海は溜息で応じた。 「あのね、仮にも幼馴染がいい加減夜も更けてきた頃に刃物握りしめて歩いてたら声くらいかけるでしょ」  ぐうの音もでないくらい正論だった。 「それで。どこに行くつもりだったのよ」 「なんつーか、アテがあるわけじゃねぇンだ。本当に散歩みてぇなモンだよ」 「じゃあ、私がついて行っても問題ないわよね」  そう言って隣に並ぶ光海に、陽平はできる限り嫌そうな表情をしてみせた。 「なにしてるのよ。行かないの?」  嫌な顔は全力でスルーされた。 「それで、どこまで行くのよ?」 「アテがあるわけじゃねぇって言ったろ? 嫌ならついてくンなよ」  頬を膨らませつつもついてくる辺り、どうしても帰るつもりはないらしい。  とはいえ馴染みの道なので迷うこともなければ、変質者が出ることもない。ついてくること自体には問題ないだろう。  なにせ、ここは離島のド田舎だ。  二人並んで通学用の道を進み、船着き場の辺りを目指す。  時間や恰好こそ違えど、登下校風景となにも変わらない。  なのに、気持ちが逸るのはどういうことか。 「どうしたのよ。人の顔じろじろみちゃって」 「いや、なんでもねぇンだけどさ……」 「変なヨーヘー……あ、いつものことか」 「あンだとこの……」  会話におかしなところはない。いたっていつも通りの内容で、いつも通りのやりとり。  では、この緊張はいったいなんなのか。 「まさか……意識してるってェのか?」 「ねぇ」 「いやまて。たぶん……違うはずなんだ」 「ねぇってば」 「ちょっと待てって。今それどころじゃ──」 「いいから見なさいよ!」  長めの横髪を強引に引かれ夜空を見上げる。  春先にしては随分と月明かりの綺麗な夜だと思ってはいたけれど、直接上を向いてようやく思考が現実に追いついてきた。  いくらなんでも明るすぎる。  それどころか、まるで照明弾でも落ちてくるかのように明かりの中心が動いて見える。 「暗いせいでよく見えないけど、なにか落ちてきてるよね?」 「は? なに言ってンだよ。この明かりの中で暗いはずが……」  よく見れば光海は陽平のように目を細めるわけでもなく、なにか空に見えるものを追いかけているようだった。  この距離にいながら見えているものに差があるというのも奇妙な話だが、現実そうなっている以上は直接確認する以外に疑問を解く方法はない。 「わかんねぇけど、船着き場の辺りに落ちていくぞ」  言い終わるよりも早く明かりに向かって走り出すと、光海も慌てて陽平の背中を追いかける。  正直、あまりいい予感はしないが、行かなければならないとなにかが陽平の中で騒ぎ立てる。 「まさか……UFOとかいうんじゃ……ないわよね」  予定通り船着き場で足を止めた陽平に、追いついてきた光海が息を切らせながら空を見上げる。  先程のような明るさはないけれど、それでも周囲を照らす光源はゆっくりと二人の目線にまで降りてきて…… 「えっと……こういうときなんて言うンだっけ。たしか“空から女の子が”でいいのか?」 「ちょっと待ってヨーヘー。私理解がぜんぜん追いついてないんだけど」  そうは言うが、現実にこういうことが起きている。  光海が何度目を擦ろうが、女の子がすっぽりと陽平の両腕に収まっていた。 「大丈夫だ。俺も何ひとつ理解しちゃいねぇ」  陽平の腕の中で光は収まり、女の子はゆっくりと目を開ける。  陳腐な例えだが、さながら童話のお姫様がベッドの上でゆっくりと目覚めるシーンを見ているようで声がかけづらい。  着物の身につけた10代初めくらいの少女は、僅かに身を攀じると、両肩から胸元にまで伸びる緑がかった黒髪を揺らして陽平の腕から体を離した。  嫌がったというよりは、ただ現象として地面に立っただけ。そんな無機質な印象を受ける表情に、陽平と光海は互いに顔を見合わせた。 「えっと、お前……今空から落ちてきたのか?」  陽平の疑問に、少女は僅かな間を置いてから頷く。 「飛行機から落ちた……とかじゃなくて?」  今度は答えない。  ひょっとしたら飛行機がなにかわかっていない可能性もあるが、いまひとつ表情が読めない。 「ねぇ、あなたのお父さんとお母さんは?」  今度は光海が訊ねる。  少女は答えず、光海を見ようともしない。というよりも、そもそもどこを見ているのかわからないくらい目が生気を失っている。  よほど恐ろしい目にあったのか。視線で合図を送り合うと、二人は少女に近づいて目線を合わせるようにしゃがみこんだ。 「お前さん、名前は?」  少女に反応はない。  しかし近づいたことで少女がどこを見ているのか気づくことができた。 「ヨーヘーの……胸元?」 「食い物とか入ってねェぞ? あるのはこいつくらい……」  懐から取り出したのは思い出のクナイ。本来穴の開いた部分に勾玉のようなものがハメこんである例のあれだ。  しかしそれで当たりだったらしい。少女の視線は明らかに陽平の手にあるクナイを追っている。 「お前、これがなにかわかってるのか?」  少女が頷く。  これに陽平が動揺したのは光海の目から見ても明らかだ。 「じゃあ訊くぞ。これは……なんだ」 「獣王(じゅうおう)との契約(けいやく)」  小さな声。しかしはっきりと少女は“獣王の契約”と、そう告げた。 「悪ぃがなんのことかさっぱりわからねぇ。お前さんはこれの関係者なのか?」  再び頷く少女に、陽平の心臓がドクンと跳ねた。  今までなんの情報も得られなかった思い出のクナイを知るという少女。なにかが記憶に触れるような感覚に、陽平は僅かに顔をしかめる。 「ねぇ、あなたはどうしてここにいるのかわかる?」  返答しない少女に対して質問の仕方を考えていたのだろう。少しの間黙り込んでいた光海が改めて質問を口にした。  確かに、自分の置かれた状況をわかっていない可能性だってある。  だが、予想外にも少女はこれに頷いた。 「ねがい。だから獣王は在らなければならない」  生気のない瞳でそう告げる少女に、光海はなにを感じたのか身震いしていた。  そもそも少女の言う"獣王"がなになのかもわからない。  だが、陽平の本能が物凄い音を鳴らして警告している。これ以上は確実に危険だ。  父の、雅夫(まさお)たちの意見も聞くべきかもしれない。光海も同じことを考えたのか、向き合って頷き合う。 「そうだ。一応これだけは聞いておかなくちゃいけねぇ。お前は今"ねがい"って言ったけど、誰かの願いを叶えるためだけにここに来たってのか?」 「わたしにはそれしかない」  それ以上を少女は答えない。  ワケありなのはわかった。多くを語ってくれないこともなんとなく察した。 「じゃあ、どうやったらその願いを叶えられるンだ?」  少女は答えない。だが、振り返り、真っ暗な海へと視線を向けた。 ─── しまった。  悪い予感がした時点で移動するべきだったと後悔した。だが今更ではどうしようもない。  少女の手を引き、光海と共に背に庇う。  信じられないほどの圧力を、影の向こうから放つ相手がすぐそこにいる。  雅夫との勝負がなければ中てられただけで気を失っていたかもしれない。それほどまでの"殺気"を相手は放っている。 「どうやら一族の生き残りがいたようだな」 「男の人の、声?」 「光海、黙ってろ!」  金属音が聞こえる。一瞬足音かと思ったが、海の上で足音もないだろう。  そもそも父以外に海の上を歩ける相手なんて存在しないと思っていた。  陽平の視界にその姿が入り、音の正体がはっきりとわかった。 「銀の、武者甲冑……?」 「それを渡せとは言わぬ。ただ我に斬られて、息絶えればよい」  陽平たちから少し離れた場所に上陸したそれは、背負った長大な刀を軽々と抜き放ち、切っ先を突き付けた。
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