第四章 伏見の狐

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凍夏と泰介が伏見稲荷へ出かけたのは数日後の暑い日であった。 その日は朝から泰介のご機嫌は斜めで、ついでに凍夏のご機嫌も斜めであった。 「ほうら、しゃんとしな」 苑介はぐにゃりと骨の抜けたような泰介の背をとんとんと叩き、貞介は雪狐姿の凍夏の鼻筋を撫でた。それでもまだうだうだしているので朝餉を済ませ、顔、歯を磨かせると貞介はぽいぽいっと敦賀屋の表へ放り出した。 「行ってらっしゃい!」 貞介に送り出された泰介と凍夏は仕方なしに、伏見稲荷へと向かった。伏見稲荷は五条御幸町通りそばの敦賀屋からは結構遠い。籠を頼むか、と考えている時に二人は声をかけられた。 「お泰、別嬪はん連れてどこ行きはるん?」 島崎屋の亮平であった。 「なんだ亮さんか。別嬪って、凍夏が?」 今や人姿となった凍夏を泰介は見やる。確かに涼しげで少女のような見目をした少年の姿であるが、やはりどことなく雪狐の面影が見える。 「なんだ、って酷ない?凍夏はんっていうんやね」 亮平は凍夏に笑いかける。どうやら亮平の好み、のようだった。 「はい。凍夏と申します。坊っちゃん方がお世話になっております」 その凍夏の低くはないが、少女でもない声に亮平は驚いた。少女でないばかりか、聞き覚えがあるような気がする。 「うん?」 「大きゅうなられたこと。おいたは程々になされませと申したこと、ございましたね」 「アッ」 亮平は思い出した。まだ双子が生まれる前、苑介と敦賀屋で遊んでいた折、悪戯を考案中に囁かれた声であった。いつも声のみで、姿が見えなかったが苑介は「はあい」と平然と返事をするものだから亮平は体を強張らせるのみであった。亮平はこの頃から既に敦賀屋の触れてはいけないこと、を学んでいたのだった。 「亮さん、珍しいね。五条にいるの」 何も言えないで呆けている亮平に泰介は問うた。 「んあ?ああ。姉はんの具合が良くなくて。義兄はんの手伝いをな」 ちらちらっと凍夏を見遣りながら亮平は答えた。 「えっ、有紀さん具合が良くないの?っていうか亮さんが手伝いを!」 「だから、お泰の俺の印象ってどんなん?そうなん。夏バテやろか」 「夏バテだったら兄さんが本職だよ。ちょっと俺、伏見稲荷に出かけなきゃいけないんだけど、時間あったら敦賀屋に行ってみてよ。今日は貞も兄さんもいるからさ」 するりと前半の問いを交わすと、泰介は籠を引き留めた。 「あ。お泰。おおきに」 「またお見舞いに行くから!」 泰介は亮平と別れると、眉根を寄せた。有紀が伏せっているところなど見たことも聞いたこともなかった。いづといい、苑介といい伏せるのは敦賀屋の十八番なのだ。 「心配ですね」 凍夏も不安げだ。 もちろん、亮平と同じで凍夏は有紀と直接会ったことはない。しかし、話はよく聞いていたし有紀が敦賀屋に来た際には何度か目にしていた。 そう心配しているうちに二人を乗せた籠は鳥羽街道を通り、伏見稲荷大社に着いた。
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