第四章 伏見の狐

3/8
170人が本棚に入れています
本棚に追加
/94ページ
「いいいい」 泰介の口から始終漏れる呻き声に凍夏は辟易していた。 「しゃんとなさいとお兄さまに言われたでしょう」 本当のことを言えば凍夏とて、大きな溜息を吐きたい。なぜならここはもう稲荷の狐の土地である。凍夏は見られている、ことを毛の一本一本で感じていた。敵意はないのだと、逆立つ毛を必死に舐めて落ち着かせたいのだが、人の姿ではそうもいかない。 「泰介坊っちゃんが羨ましい」 凍夏がぼそりと呟くと、泰介はえ?と情けない顔を向けてきた。泰介は凍夏が感じている刺すような視線をまるで感じていないようだった。呻いているのはただ単に嫌なだけ、だ。 三兄弟の中でも泰介はこうした人ならざるものの特有の空気、とでも言えばいいのだろうか、ともかくそういったものに鈍い。苑介は鋭く、凍夏同様その肌を持って感じることができる。貞介も苑介ほどではないが感じることができるようだが、意図して遮断することもできた。おっとりとした貞介は神経を擦り減らす空気は感じない方が楽だった。 いづの血を引く兄弟にはその空気を感じることは野生本能のようなものである。それが全くと言って良いほどない泰介だが、仁之介に似たわけでもない。仁之介は仁之介で、人としてその空気がわかった。人ならざるものである、己とは違うものであるという恐れから勝手に肌が泡立つ。敏感であったから仁之介は少々早くその生涯を閉じたのかもしれなかったが、いづに出会えたことも仁之介の人間としての危機感のおかげとも言えた。 泰介が鈍いのは敵が存在しないということだ。 向かうところ敵なし、というわけではない。だが丈夫なのは確かだ。それは貞介もそうで、野生本能は本来遮断して良いものではない。遮断しても生きていけるという、強さを持っている。苑介は屈強な体ではないが、鋭い空気を醸すことができた。 総じて敦賀屋兄弟は稀に見る特異体質なのだ。 「視線を感じないわけじゃないよ。ただ、怖いものではないからさ」 泰介は凍夏の呟きを聞き取っていて、少し済まなさそうに微笑んだ。 「だから羨ましいと申しているのです。無論、私とて怖いわけではありませぬ」 「はいはい」 「行きますよ」 数多の狐の視線を感じつつ凍夏と泰介は神体である稲荷山を登る。 千本鳥居を越え、少し登った辺りでふっと気温が下がった瞬間があった。神域に入ったのだ。そこから辺りは仄暗くなり、鳥居の朱はより鮮やかになった。そして視線もそこかしこに感じた。 伏見稲荷神社の狐は祭神ではない。祭神、稲荷大神の眷属である。稲荷大神はこの世界を越えた向こう、にいるが神域には違いなく凍夏の毛は一層逆立った。 「兄さん、いつも平気な顔しているのすごいな」 階段を一段、一段踏みしめながら泰介は呟いた。そう言う泰介だとて平然としている。ただ、それまでの駄々っ子ぷりを思い出して凍夏は少し笑った。 「苑介さまは、」 凍夏は苑介が双子よりいづに、向こうに近いからかもしれない、と言いかけてやめた。幼い頃から母と兄と離れることも度々あった双子は寂しがりに育った。だから言えば、拗ねることは目に見えていた。凍夏にとってはまだまだ可愛い子なのだ。稲荷の神域にいるというのに凍夏は微笑ましくなった。 「兄さんが、どうしたの」 「なんでもありませんよ。やはり場数を踏まねばね。泰介坊っちゃまも慣れませんと」 「兄さんがやってくれるならそれで構わないんだけどなあ」
/94ページ

最初のコメントを投稿しよう!