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のこされたもの
明治元年(1868)
一月三日
新選組、鳥羽伏見の戦いに敗れ退却
四月三日
局長近藤勇、新政府軍に投降。以後、副長土方歳三が新選組の指揮をとる
四月十九日
新選組、旧幕府軍先鋒に参加し、宇都宮城を攻略
四月二十四日
新選組、会津へ向かう
四月二十五日
近藤勇、板橋にて斬首。享年三十五
********
ひと月ほど経った。
新選組は会津にとどまり、旧幕府軍の一員として抗戦を続けている。
戦闘の合間のある晴れた日、京では三番隊組長をつとめていた斎藤一が、初めてみずから土方歳三の見舞いに向かった。
土方は、奪った宇都宮城にて最前線で戦っていたとき、右足を撃たれた。命に別状はなかったものの、会津でしばらくの療養を余儀なくされ、あれから戦には出ていない。
監察の島田魁に教わった道を思い出しつつ進んでゆくと、やがてちゃんと療養所が見えてきた。
だが斎藤は中に入らなかった。対面側から、療養所の外壁にそって、誰かがゆっくりと歩いてくる。
痩躯、右足に巻き付いた白いサラシ。着流し姿だが、髷を切った異国風の頭。目的の人に相違ない。
目が合った。
土方は立ち止まった。まぶしそうに目をほそめたあと、額のあたりに右手でひさしをつくって、
「おう、なんだ、山口君」
「……斎藤で構いません」
「そうかい。斎藤どうした、なにかあったか」
「いえ……副長。ただの見舞いで。……」
帯に愛刀だけねじこみ、手ぶらでのそのそとやってきた猫背の男の顔を見て、土方は一瞬くすぐったそうに笑った。
だが斎藤が追いつく前に、土方はくるりと後ろを向いて、来た道をまた壁づたいに歩き出した。
どういうことかわからないが、とりあえず中に入る気はないらしい。それを悟ると、斎藤も黙って同じ速度にまで歩調をゆるめ、三歩ほど後ろを従っていった。
「君がひとりで見舞いとはな。珍しいじゃねえか」
先を行きながら、土方が言う。
「といっても、君のことだ。まあここんところいくさがねえもんだから、散歩がてら暇つぶしってとこだろう」
「はあ。……」
「いくさがないと、もうだめかね君は」
「……はあ、もうだめなようです。他になにをすればよいのか、どうもよくわからんのです」
「ま、君らしいや。しかし、だからってなあ斎藤。まだ戦えもしねえ病床の俺の顔なんざ見に来たって、おもしろかねえだろうよ」
そういう土方のほそい肩は、おかしそうにくっくっと揺すれていた。
斎藤はぼんやりした。あの鬼副長が、今日はなんだかよく笑う日だ。
土方はやはり、壁にそってゆるやかな足どりで進んでゆく。そうしてひとつめの角を曲がったとき、斎藤はぼそっと尋ねた。
「歩いて、平気なんですか。……」
「あァ、むしろ歩いとかなきゃならねえんだよ。痛えからってあんまり動かしてねえと、傷が治っても体が動かなくなっちまう」
だからこうして、療養所の周りをぐるぐる回っているらしい。散歩みたいにどこかへ行ってみてもよいのだが、もしも途中で激しく痛んで、帰ってこれなくなると困る。
「まったく、あんな小せえ弾ァ一発喰らっただけでとんだ手間だぜ」
斎藤の前の背中はぼやくように言って、ふたつ目の角を曲がった。その姿が斎藤から一瞬だけ見えなくなったとき、小さく呟く声が聞こえた気がした。
あとはただ、いくさで死ぬだけなのになあ。
「……副長」
斎藤も、のっそりと角を曲がった。
療養所の裏は細い道になっていた。両脇の高い壁が日陰をずっとつくっている。
斎藤がその陰を踏む前に、土方は振り返った。青白い顔が、ふと微笑する。
「副長、か」
「……」
「なあ斎藤。新選組も、ずいぶん様変わりしたもんだな。試衛館のころを知ってるやつなんて、もう俺と君だけになっちまったなあ」
「……俺なんか勘定に入れていいんですかね。そんなにみなさんに馴染んではいませんでしたが」
「あァそうなんだよ。京にも、あとからひとり遅れてやって来たようなやつだ。……昔っからいっとう一匹狼だったやつが、結局ここまでのそのそとついてきやがった。わからねえもんだな」
離反やら負傷やら戦死やら。
京を出て戦っているうちに、あのころのひとたちは皆、なんだかいつの間にかいなくなってしまった。
新選組は、土方は。
ただ敗走を繰り返しているだけなのに、不気味なほど何の迷いもなくここまで突き進んできた。そんな背中について行くことができず、みんな次々と脱落してしまったのだ。
――先月、あっさりと敵に投降し、首を切られた新選組局長すらも、そのひとりだったのだろう。誰にも言いはしないが、斎藤はそう思っている。
いつのまにか土方は、まるでヤモリみたいに、ひたと土壁に背中をくっつけて立っていた。そうして目を閉じた横顔は、なにかを思い出しているようにも、ただ背中を涼しがっているようにも見えた。
「……けど、副長」
つい、口をひらきかけた。斎藤のまぶたの裏に、一番隊組長の、あの平べったい顔が浮かんだのだ。
あのひとならば。
病さえ得なければ、ちゃんとここまでついてきたのではないだろうか。
痩せ衰えて血を吐きながら、彼はまったくつまらなそうな顔をしていた。
あのひとはたぶん、もっともっと人を斬っていたかったのだ。
斎藤と同じように。
「いやァ斎藤」
斎藤の言葉は即座にさえぎられた。
目をあけた土方は、反対側の壁を凝視しながら、口元に凄惨な笑みを浮かべ、
「総司も死んだよ」
そう、さらりと言った。
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