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2. うつしおみ
「……くるみ、くるみ」
私はハッと目を覚ます。
目の前に夫がいる。
どうやら、うとうとと眠っていたらしい。
オーブンを見ると、もうライトが消えている。チョコレートの甘い匂いの中に、柑橘類の爽やかな香りがする。
「いい匂いがしてきたから見に来たら、寝てるし。焼いてる間に、使った道具を洗ってしまえば、億劫にならないんだろ」
はいはい。ごもっとも。
夫からは、いつも一言指導が入る。
私はオーブンの扉を開けて、焼け具合を確かめる。
竹ぐしを刺してみたが、生地は付いてこない。中まで焼けたようだ。
「もう、食べられるか?」
「食べられるけど、焼いてすぐは、生地がまとまってないわよ」
せめて、粗熱が取れてから食べたい。
できるなら、1日2日置いた方が生地が落ち着くし、しっとりする。
「匂いで誘っておいて、おあずけか」
まあ、気持ちがわからなくもない。
ふわふわの熱々パウンドケーキは、手作りならではだ。
大振りに切り分けて、皿に盛り差し出す。
夫は一口食べて、目を輝かせる。
「うまいぞ。生地はチョコで……何入れた? 甘いけど、後に少し残る苦味がいい」
どきりとする。
既視感を覚えた。
夫は、夢と同じことを言う。
「ああ、オレンジピール。この間、作っておいたの」
「へえ。そういうとこだけ、まめだな。もうちょっと、掃除とかをまめにしてくれたらいいのに。だいたい、ケーキって砂糖がけっこう入ってるんだろ。太るし」
美味しいって、食べてたくせに。
夫に背を向けて、シンクの中のボウルや泡立て器を洗い始める。
私は後で、ゆっくり食べよう。
夫の関心は、すでにテレビの画面に吸い寄せられている。お気に入りの女優のCMを見て、鼻の下を伸ばす。
「美咲ちゃんみたいな、愛人がいたらなあ」
「じゃあ、私も優しい彼と付き合おうかな」
「どうぞどうぞ。相手にしてもらえればな」
そんなこと、有り得ないと思ってるのね。
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