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影
そして私は、地面に投げ出される。
生きている。無事だ。齧られた様子もなく、五体満足だ。
お尻を強く打った痛みと、抜けきれていない疲れからの虚脱感はあるが――
目の前の光景は、そんなものが気にならなくなるくらいに意外なものだった。
私を掴んでいた怪物の腕が根本から千切れ、地面に落ちて、砕けている。
体液のようなものは流れてこないが、どうやら怪物にも痛覚はあるらしく、声もなく悶えながら後ずさっていた。
助かった。
でも、一体何故?
――と。
突然、視界が真っ暗になる。
でも、焦りはない。この感触は三度目だから。
「だーれ――」
「どうなってんの奈々子、これ」
「むー……。ミズキちゃんノリわるーい」
ひょこひょこと軽やかに姿を見せた奈々子は、そのまま私の隣に体操座りする。怪物を前にしているというのに焦る様子もなく、
「というか今スキップしてなかった? 足は? グネったんじゃないの?」
「嘘でーす☆ 見ての通り、奈々子ちゃんの足はつやつやぴかぴか痛い!? いたたた、痛い! 痛いですミズキちゃん! 髪の毛が抜ける! 束はまずいって!」
「ハゲてろ馬鹿。――で、この状況なに?」
奈々子は痛みで涙目にはなっていたが、まるで玩具を取り出す子供のようにニコニコと笑顔で、カバンの中を漁る。
「じゃーん!」
そして取り出したのは――先ほど闇空の彼方に飛んでいったはずの、石像だった。
「わざわざ拾ってきたの? 自分で投げた癖に」
「のんのん。実はさっき投げたのは懐中電灯でーす。すり替えておいたのさ! つまり最初から投げてません!」
「……うん、それで?」
「あ、イラッとしてる? すごいイラッてる? 略してすごイラ? ミズキちゃんの顔が早く言えって形相をしていますが私は挫けない。まぁ見ててっと」
とう、なんて気の抜けた声と共に――奈々子は、石像の突起のひとつをへし折った。
途端。
眼の前の怪物の腕が一本、千切れ、地面に落ちる。
これは――
「気づいた? ね? 気づいたー? これさー、なんかアレと連動してるっぽいんだよねー」
見れば、石像は私がさっき見たときよりも損傷が増えている。具体的には、怪物の折れた腕と同じ箇所にある突起が全てへし折られていた。
……私は、さっき奈々子に驚かされた影絵のことを思い出していた。
アレは、あまりにも怪物にそっくりだったが――それは当然だったのかも知れない。
噂にあった“巨大な影”とは、本当に文字通り、この石像の影のことだったのではないか。影が動き出す理屈や理由は知る由もないが、少なくともその因果関係だけは間違いなさそうだった。
「……お前、いつから気づいてたの?」
「ミズキちゃんが、“突起一本折れてるし”って言ったところで確信に変わったかな。私はコレのもともとあった形を覚えてなかったもん」
奈々子が最初に捕まった時、カバンを叩きつけたと言っていたが――その時に腕が一本千切れたから、奈々子は助かったのだろう。カバンの中にあった怪物の石像の突起がへし折れたのだ。
しかし奈々子はもともとの石像の形を知らなかったから、最初は怪物と石像の因果関係に気づかなかったのだ。
「……うん? じゃあ、私が石像返却しようとしたときにはもう気づいたってことだよね」
「そだよ。だからミズキちゃんがアレに石像を返そうとしたときはちょーっと焦ったなぁ。とりあえずミズキちゃんはその振り上げた拳を収めよう、ね?」
「言えよ! 教えろよ!」
「いやほらー。その時は怪物を殺していいかわからなかったでしょ。追いかけては来てたけど、もしかしたら私達に害はなかったかもしれない。だから――おっと」
ぺき、ぽき。
べきん、ぼきん。
奈々子が石像の突起を全てへし折る。
すると私達のすぐ目の前で、怪物の腕が落ちた。
奈々子と会話していて気づかなかったが、怪物は再度私達を襲おうとしていたようだ。――それは、失敗に終わったけれど。
もう、怪物に腕は残ってない。
ずんぐりとした円錐状の胴体だけが残っていて、そして痛みに苦しむかのように悶えている。もはや立ってもいられないのか地面を転がり周り、塀に我が身を押し付け、震えている。もしあの怪物が声を出せたのだとしたら、この場は今、絶叫で満たされているだろう。
……確かに、私はこの怪物に恐ろしい目に遭わせられた。
しかし、こうなると……こんな痛々しい姿を見てると、あまりにも哀れだった。
「くっそウケるよね、ミズキちゃん! 超笑えるんだけど、あははははは!」
思わず、私は奈々子の横顔を凝視していた。
笑顔だった。
いつもと変わらない、笑顔だった。
本当に心の底からおかしそうにしていて、石像を持っていない片手でお腹を抑え、涙すら浮かべながら笑っていた。
「見てアレ! 虫みたい! あ、やばい、すごいツボった。あははははは! アッハハハハハ! ふひ、ひーっ、ひっ、あっはははははははっ!」
「お、おい、奈々子」
「え、あれ? 面白くない? あー、そうだよね、ずっと私ばっかやってたもんね? ごめんね、腕の一本くらい残しておけばよかったね」
「いや、そうじゃ、なくて……」
「はーいはい、わかってるって。あとは好きにしていいよ。いっぱい疲れたのはミズキちゃんだものね? だから――」
ミズキちゃんが殺していいよ。
奈々子は、いつもどおりの調子で、そんなことを言った。
私の手の中に、怪物の石像を押し付けながら。
ころす、殺す……?
私が、あれを殺す?
命を奪うということか……?
私だって、蚊や蝿を殺したことはある。牛肉や豚肉だって食べる。生きるためには当たり前のように命を殺してる。そんなことはわかってる。
この怪物は、たぶん、殺さなきゃいけないんだと思う。そうしなきゃこの路地の迷宮から出られない気もする。
でも、私は――
私は……。
――なんで、奈々子は平気でそんな事を言えるんだ。
奈々子を見る。どきり、と心臓が跳ねた。
奈々子はじぃ、と私を見ていた。真っ直ぐに。
初めは笑顔のまま。しかし徐々にそれは引っ込んで――笑みが消える。
奈々子の視線は、私の手の中に落ちる。
「……そっか、ごめん」
奈々子は私の手の中から、やんわりと石像を取り上げた。そして――
「あっ――」
私がなにかを口にする前に、石像を地面へと叩きつける。
石像は頭頂から路面に激突し、砕け散った。
……目の前の怪物もまた、同様だった。
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