いざない

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いざない

 しっかりと路面を踏みしめ、住宅の塀を横目に前へと進む。  もう変な不快感は残っていない。いつもどおりの私だ。寒気も感じない。 「いーまー! わたしのー! ねがーいごとがー!」  後ろから聞こえてくる奈々子の歌声が幻聴でなければ、の話だが。寧ろ幻聴であってほしい。恥ずかしい。  さっきまで鬱陶しく話しかけてきていたのだが、今は相手をしてあげる気分でないので放置していた。するとコレだ。つっこんで欲しいのだろうか? 「かなーうーなーらーばー! つばーさーがー、ほしーいー!」  決して音痴ではない。しかしうるさい。そろそろ塀の向こうから怒鳴り声のひとつでも聞こえてきてもおかしくはない。そうなったら私は全力で逃げる。  いやダメだ、奈々子の方が足が速い。ごぼう抜きされる未来しか見えない。そして怒られるのはどうせ私だ。くそう。 「このー! せなかにー! とりーのようにー!」  ビデオカメラは私の手元にある。  いっそ奈々子の歌唱動画でもアップロードした方が、それなりにネタになるんじゃないだろうか。 「しろーいーつーばーさー! つけーてーくーだすぁぁぁぁぁいー!」  サビ手前にくると、急にコブシを利かせだした。ただでさえ耳につくのに煩わしい。……サビはもっとやかましいに違いない。  さすがに聞くに堪えなくなったので、足を止め、振り返った。 「奈々子あんたいい加減――」  いない。  ……え?  誰もいない。  慌てて周囲を見渡すが、いない。  この道は一本道だった。まっすぐ伸びた道。右手には住宅の塀。左手には林。  林方面に入れば隠れられるだろうが、そんな物音ひとつしなかった。  いや、待て、待て。  それ以前に、 「ここ、どこ……?」  代わり映えのしない一本道。  どこまでも、“本当にどこまでも続く一本道”。  奈々子に犬の糞を見せつけられてから、もう五分以上は歩いている。この道はこんなにも長かったか? 少し歩けば国道に合流していたはずだ。遠目には歩道橋が見えたはずだ。 「奈々子! ちょっと、もうやめろよな! わかったから、びびったから! 私の負けでいいから!」  ……返事はない。  ただ、草葉が風に揺れて擦れる音だけが聞こえる。  すぐにスマホを取り出す。LINEなんてまどろっこしい、電話帳から直接通話を呼び出す。  出ない。  いや、そもそも繋がってない。不通の音だ、これは。  アンテナ……圏外!? なんで!?  やばい、やばいぞ。これは、なんかやばい。  落ち着いたばかりの心臓が、再び痛いほどに高鳴ってくる。  オカルトとか信じてなかったが、さっき石像を手にとったときの嫌な感じは本物だった。自分自身で感じたことだ、決して気のせいなんかじゃない。  早く、この場を離れるべきだ。  一刻も早く、奈々子を探して逃げ出すべきだ!  でも――でも、どこを探す? 可能性があるとしたら林の方か?  と。  何かが、つま先に触れた。  靴だ。  奈々子の靴だ。右足だけ。  真っ赤なレディーススニーカー。側面には海外のトゥーンキャラクターがでかでかとプリントされている。こんなのを恥ずかしげもなく履けるのは奈々子しかいないので、見間違えようもない。  ただ、私はこんなに目立つものを見落としていたのか? そこまで気が動転していたんだろうか。  ぞわり。  うなじに、生暖かい空気が触れた。  私は情けない声をあげて、弾かれるように振り返る。足がもつれて、また尻もちをつく。腰が痛い。  しかし、そんな痛みなど、すぐに気にならなくなった。  眼の前に、路地が出現していた。  “出現した”のだ。そんな馬鹿な。  先程まで確かに、住宅の塀は隙間なく連なっていた。脇道も分岐点もなく、本当に一直線の道しかなかった。  なのに、私の目の前には、存在している。  当たり前のように住宅と住宅の間に道が一本伸びていて、電信柱が等間隔に立っている。左右を塀に挟まれた、至って普通の――突如として出現したことを除けば――ありふれた道のように見える。  ……奈々子は、こっちにいる、のか?  口の中が酷く乾く。カバンから五百ミリペットボトルを取り出して、お茶で喉を湿らせる。そうすると、少しだけ気持ちを落ち着けることができた。  ぬるいペットボトルを額に当てて、大きく深呼吸。  ……よし、よし、オッケー。問題ない……。よし。  ちょっとだけ進んで、ヤバそうならすぐに戻ればいい。オッケーそれでいこう。  私は一歩――踏み出した。  途端。  なにか、極めて薄い膜のようなものを突き破った、不快な感覚を覚える。  音が消える。  視界が、暗くなる。  あ、これはダメだ。  すぐに踵を返す――しかし、もう、“ダメ”だった。  壁だ。  袋小路の奥に、私は立っていた。単純に壁が出現したのではない。壁の向こうは民家らしき建物が存在している。  全く別の場所にワープしてきたかのようだ。  引き返す道はどこにもなく、あの林もどこにもない。直前まで確かに聞こえていた草葉の擦れる音も、あまり好きじゃない土と植物のニオイも、消えた。  なにより、突然、周囲が暗くなった。真っ暗で何も見えないというわけではないが、さっきまで真っ昼間だったのに、いきなり夜になったようだ。  焦る気持ちが、冷たい火となって私の体を内側から炙る。  鼓動が痛い。うるさい。どうしよう、どうしよう、どうしよう!  くそ、くそ! なんで、こんな意味のわかんないことに!  ペットボトルを投げつける。しかし壁はあっさりとそれを弾き返してくる。確かに壁だ。幻なんかじゃない。そこに現実として存在していて、私の行く手を遮ってる。  何が起こったのかは分からない。  しかし、私が踏み出した一歩は、取り返しのつかない一歩であることは間違いなかった。  私はただ、足元に戻ってきたペットボトルを思い切り蹴りつけることしかできなかった。  転がっていったペットボトルは破損し、中身をぶちまけ、もう元には戻らない。
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