何か

1/1
前へ
/14ページ
次へ

何か

 ようやく自分以外の音が聞こえて、私は嬉しくてたまらなかった。  正面のT字路。右の角の先から聞こえてくる。  私は喜んで駆け出して、塀の角に手をかけて――足を止めた。  かつん、かつん。  歩調は、かなりゆったりとしている。こんな状況下で、こんなにも悠然と歩けるものか? もし慎重になっているのならば、靴音高く鳴らしていることがおかしい。  それに……ああ、そうだ。奈々子の靴は一足、私のカバンの中に入ってるじゃないか。そもそもスニーカーでこんな音は鳴らないだろうし、靴下なら尚更だ。  かつん、かつん。  じゃあ、これは誰だ?  私は塀の角に掛けていた手を放して、一歩、二歩、音を立てないように後ずさる。  かつん――  足音が止まる。  角の、すぐ向こう側だ。  そこに、いる。何かがいる。  角の向こうから手が伸びる。  探るように塀に触れて、角の形をなぞっていく。この薄暗さだ。塀を頼りにしながら前に進むこと自体は私もしている。  ただ。  なんで、腕が四本もあるんだ。  薄闇の中、無機質な黒ずんだ四本の腕が壁の表面をまさぐり、角を掴む。  やばい、やばい……!  私はすぐさま、傍にあった電柱の裏に隠れて、しゃがみ込む。そうまでした後で私は馬鹿かと舌打ちしたくなった。どうせ隠れるなら民家の敷地に入ればいいものを……!  かつん、かつん。  歩みが再開する。  近づいてくる、こちらに。  生暖かい空気が押し寄せてくる。  この空気は、この路地を見つけた時に感じたものだ。  微かに鼻腔で悪臭を感じて、すぐさま私は息を止める。    かつん、かつん。  電柱のすぐ裏にいる。  二メートル近い大きさの何かが、いる。  足音は高く、今まで気づかなかったことが不思議なくらいによく響く。  ただ、そんな音よりも、小さく聞こえてくる“手”の音の方が、恐ろしかった。  塀をまさぐっている。ざらりざらりと擦れる音が聞こえてくる。  私の背もたれる電柱が微かに振動する。触れている、撫でている。  私は必死に体を縮こまらせ、カバンを抱きしめ、それに鼻と口を埋めて耐える。声を出さないように。震えないように。音を立てないように。  かつん、かつん。  足音は、すぐ隣。  視界の端に、黒い塊が見える。  見る勇気がない。というか、動けない。  “それ”の指のようなものが、私の頭のすぐ上をなぞっている。  細かな砂の粉のようなものが、降りかかる。  かつん――  足を止めた!?  き、気づかれた? でも、だからって、どうしろって……。  何をしてるんだよ。早く行け。行けよ。どっか行けって!   “それ”は今、何をしてるのだろう。どこを見ているのだろう。こちらを凝視しているのか? 舌なめずりしているのか?  確かめることはできない。目を向けることが、顔を動かすことが恐い。布ずれの音で気づかれるかも知れない。  心臓が痛い。この音は外にまで聞こえているかもしれない。でも心臓の音は抑えられない。祈るしかない。  早く、行ってくれ……!  ――かつん、かつん。  足音が再開する。  少しずつ、少しずつ、離れていく。  私の頭の上を、腕が通り過ぎる。生暖かい空気も遠のいていく。  よし、よし、オッケー、よし……!  耐えきった己を大絶賛してやりながら、私はようやく、顔をあげる。  “あれ”は、もう遠くにいっていて、薄闇の中では全貌がよくわからない。  ただ、ずんぐりとした円錐形をしていて、体の左右から、多くの腕が伸びては塀の表面をなぞっている。  腕の数は左側が四本、右側が三本だ。――もうこの時点で、普通の生物じゃない。ハッキリ姿が見えないのは救いだったかもしれない。  ただ、いずれにせよ、この位置取りはまずい。  今、“あれ”が気まぐれで振り返ったら私の姿は丸見えだ。壁を手探りしていることから、視覚があるのかもわからないが……。  それでも出来るだけ距離を取るに越したことはない。  私はゆっくりと立ち上がり、“あれ”から目を離さないようにしたまま後ろに下がる。“あれ”がしているように壁に手をついて、後退する。  指の先が塀の角に引っかかる。このまま、“あれ”が現れたルートを逆走してやろう。  私はそのまま角を曲がって、完全に“あれ”の視界から外に出る。  やっと、一安心だ。  塀に強く背もたれながら、大きく深呼吸をした。もう二度と大声なんて出さない。  今気づいたが、私の体は汗でじっとりと濡れそぼっていた。額から頬に伝う、粘りのある脂汗。シャワーを浴びたい。着替えたい。帰りたい。  そのためには、出口――  突然。  私は右腕を掴まれる。 「え――」  直後に目元を抑えられた。真っ暗闇だ。  え、え……え? 嘘。なんで。さっきのは、もう、あっちに――  混乱する私の耳元へ、声が――
/14ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加