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何か
ようやく自分以外の音が聞こえて、私は嬉しくてたまらなかった。
正面のT字路。右の角の先から聞こえてくる。
私は喜んで駆け出して、塀の角に手をかけて――足を止めた。
かつん、かつん。
歩調は、かなりゆったりとしている。こんな状況下で、こんなにも悠然と歩けるものか? もし慎重になっているのならば、靴音高く鳴らしていることがおかしい。
それに……ああ、そうだ。奈々子の靴は一足、私のカバンの中に入ってるじゃないか。そもそもスニーカーでこんな音は鳴らないだろうし、靴下なら尚更だ。
かつん、かつん。
じゃあ、これは誰だ?
私は塀の角に掛けていた手を放して、一歩、二歩、音を立てないように後ずさる。
かつん――
足音が止まる。
角の、すぐ向こう側だ。
そこに、いる。何かがいる。
角の向こうから手が伸びる。
探るように塀に触れて、角の形をなぞっていく。この薄暗さだ。塀を頼りにしながら前に進むこと自体は私もしている。
ただ。
なんで、腕が四本もあるんだ。
薄闇の中、無機質な黒ずんだ四本の腕が壁の表面をまさぐり、角を掴む。
やばい、やばい……!
私はすぐさま、傍にあった電柱の裏に隠れて、しゃがみ込む。そうまでした後で私は馬鹿かと舌打ちしたくなった。どうせ隠れるなら民家の敷地に入ればいいものを……!
かつん、かつん。
歩みが再開する。
近づいてくる、こちらに。
生暖かい空気が押し寄せてくる。
この空気は、この路地を見つけた時に感じたものだ。
微かに鼻腔で悪臭を感じて、すぐさま私は息を止める。
かつん、かつん。
電柱のすぐ裏にいる。
二メートル近い大きさの何かが、いる。
足音は高く、今まで気づかなかったことが不思議なくらいによく響く。
ただ、そんな音よりも、小さく聞こえてくる“手”の音の方が、恐ろしかった。
塀をまさぐっている。ざらりざらりと擦れる音が聞こえてくる。
私の背もたれる電柱が微かに振動する。触れている、撫でている。
私は必死に体を縮こまらせ、カバンを抱きしめ、それに鼻と口を埋めて耐える。声を出さないように。震えないように。音を立てないように。
かつん、かつん。
足音は、すぐ隣。
視界の端に、黒い塊が見える。
見る勇気がない。というか、動けない。
“それ”の指のようなものが、私の頭のすぐ上をなぞっている。
細かな砂の粉のようなものが、降りかかる。
かつん――
足を止めた!?
き、気づかれた? でも、だからって、どうしろって……。
何をしてるんだよ。早く行け。行けよ。どっか行けって!
“それ”は今、何をしてるのだろう。どこを見ているのだろう。こちらを凝視しているのか? 舌なめずりしているのか?
確かめることはできない。目を向けることが、顔を動かすことが恐い。布ずれの音で気づかれるかも知れない。
心臓が痛い。この音は外にまで聞こえているかもしれない。でも心臓の音は抑えられない。祈るしかない。
早く、行ってくれ……!
――かつん、かつん。
足音が再開する。
少しずつ、少しずつ、離れていく。
私の頭の上を、腕が通り過ぎる。生暖かい空気も遠のいていく。
よし、よし、オッケー、よし……!
耐えきった己を大絶賛してやりながら、私はようやく、顔をあげる。
“あれ”は、もう遠くにいっていて、薄闇の中では全貌がよくわからない。
ただ、ずんぐりとした円錐形をしていて、体の左右から、多くの腕が伸びては塀の表面をなぞっている。
腕の数は左側が四本、右側が三本だ。――もうこの時点で、普通の生物じゃない。ハッキリ姿が見えないのは救いだったかもしれない。
ただ、いずれにせよ、この位置取りはまずい。
今、“あれ”が気まぐれで振り返ったら私の姿は丸見えだ。壁を手探りしていることから、視覚があるのかもわからないが……。
それでも出来るだけ距離を取るに越したことはない。
私はゆっくりと立ち上がり、“あれ”から目を離さないようにしたまま後ろに下がる。“あれ”がしているように壁に手をついて、後退する。
指の先が塀の角に引っかかる。このまま、“あれ”が現れたルートを逆走してやろう。
私はそのまま角を曲がって、完全に“あれ”の視界から外に出る。
やっと、一安心だ。
塀に強く背もたれながら、大きく深呼吸をした。もう二度と大声なんて出さない。
今気づいたが、私の体は汗でじっとりと濡れそぼっていた。額から頬に伝う、粘りのある脂汗。シャワーを浴びたい。着替えたい。帰りたい。
そのためには、出口――
突然。
私は右腕を掴まれる。
「え――」
直後に目元を抑えられた。真っ暗闇だ。
え、え……え? 嘘。なんで。さっきのは、もう、あっちに――
混乱する私の耳元へ、声が――
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