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逃走
「だーれだ!」
耳元で思い切り叫ばれ、私も思わず叫んでいた。ぎゃああ、と。
そしてすぐさまバカ野郎――奈々子を突き飛ばして、すっ転んだそいつの尻を蹴り飛ばす。
「ば、ば! ばか、ばっかじゃねえの! ばっかじゃねえの! おまえ! おまえええ!」
それはもう何度も蹴っ飛ばす。何度も何度も何度も。
こいつは、こいつは、人がどんだけ心配したと思って……!
「やーだー、ミズキちゃんいたーい。ほんのジョークじゃん、ジョークぅーって、いたい、痛いから! ほんとに痛い! すとーっぷ! すとーっぷ!」
「うるさい死ね! いっぺん死ね! この! この――」
かつん。
音。
頭に登った血が、一気に引いた。
カツカツカツカツカツカツカツカツッ!
来てる、こっちに、速い!
私は奈々子の腕を掴んで引きずり起こして、そのまま突っ走る。
しかし奈々子は事態のやばさに気づいてないのか足をもつれさせて、
「な、なにミズキちゃん? トイレ? トイレなの? 一緒にいってあげるから落ち着いてってほら、しんこきゅーしよ? ひ、ひ、ふーって」
「うっさいちょっと黙ってろ! いいから走れ!」
カツカツカツカツカツカツッ!
近い! かなり近い! 後ろにいる! 振り返る余裕なんてない、ただどうにかして視界から逃れて隠れないと!
――ああ、くそ、ダメだ。私遅い。悲しいほどに足が遅い。
それに、もう体力、ない……。
こんなことなら、もうちょっと運動しとくべきだったかもしれない。
「よっと」
そんな気の抜けた声が聞こえたかと思ったら、突然、私の体が浮いた。
気がついたときには、奈々子の腕の中に収まっている。
――いわゆる、お姫様抱っこと呼ばれる形で。
目の前には奈々子の顔。
その顔を見て――こんなときに何考えてんだってアレだけど、どきり、とした。
奈々子の顔は私を見てはいなくて、まっすぐ正面を向いている。けれど私と違って焦りなんて感じてない様子で、舌なめずりをしたかと思えば、にんまりと口を笑みの形に歪めた。
いつものちゃらんぽらんなギャグ漫画みたいな、ふざけてる顔じゃない。
ただ、単純に楽しそうで、それでいて挑発的な――そんな顔。
余計な思考は、そこまでだった。
突然、世界が加速する。周囲の景色が後ろに吹き飛ばされていく。
速い。
私ひとりと、カバンふたつ分の重みを抱えているとは思えないくらい、速い。
私の焦燥感を掻き立てていた硬質的な足音が、一気に遠ざかっていく。
奈々子が一度角を曲がると、更に音は遠ざかる。
そしてもう一度曲がったときには――完全に聞こえなくなった。
奈々子はあっさりと、得体の知れない怪物から私を逃してくれたのだった。
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