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辰巳と翔は近場で車を停めて現場に向かった。 二人を確認した巡査が規制線を持ち上げて二人を中に入れる。 規制線の前にはすでに野次馬が十数名と、何処から嗅ぎつけたのか報道関係者と思われる男が二人、現場を覗いていた。 巡査は野次馬達にもう少し下がるよう指示しながら、辰巳たちを現場のニ〇三号室に案内する。 三階建ての古びたアパートの鉄製の階段は、浜風に長年当たり続けたせいか錆びついていた。 三人が登るたびカンカンと音が鳴る。 部屋に近づくにつれて、磯の香りに混じって鉄のにおいがした。 血のにおいだ。 遺体はすでに運ばれていたが、部屋を入ってすぐに上がり框が現場である事は明らかだった。 おびただしい血痕が被害者の凄惨な最期を物語る。翔は胃がむかむかした。 巡査が現時点で判明している事を報告するのを聞きながら、翔は部屋を出て廊下の手摺に寄りかかった。 背中に辰巳の視線を感じたが、今はそれに応える余裕はない。 警察官になって殺人事件の捜査をしたのは一度や二度ではない。でも何度現場に来ても気分が悪くなってしまう。最近は外気に当たるとだいぶ楽になるまでには、何とか慣れてきたけれど。 翔は手摺から小港町の町並みを眺めた。左に港の見える丘公園や赤レンガ倉庫などの観光地に行き当たるこの場所も、海側に歩けば横浜港から出港する貨物船用のコンテナが所狭しと積まれている。 僕の家はあっちかなぁ、などと殺人現場には不釣り合いな事を考えながら気分を落ち着かせていた。 それともうひとつ。先程から視界の端にちらちらと不審な人物の影を確認しているため、警戒されないように敢えてのんびり構えていたのだ。 翔が景色を眺めつつさりげなく確認すると、野次馬の後方に男が一人、現場を背伸びして覗いていた。 濃い灰色のジャンパーを羽織ってフードを目深に被っているため、年齢はよく分からない。 今日は五月二十三日。 この時期特有の日差しに、翔も辰巳も耐えられずにスーツの上着を車に置き去りにした程の暑さだ。 それなのに、ジャンパーのファスナーをしっかり閉めている男の様子は奇妙に感じた。 (身体つきからして多分二十代から三十代かな。妙に落ち着きがないなぁ。後で話を聞いてみようかな) 翔がそんな事を考えていると、辰巳が横に来た。 「大丈夫か?」 「はい、すみません。どうしても慣れなくて。でももう大丈夫です」 「こんなもん、慣れなくていいんだよ。誰だってむかむかする」 「辰巳さんも?」 「もちろんだ。あんま気にすんなよ」 優しく諭されて翔は自分の顔が赤くなるのが分かった。僕の憧れの人はなんて優しいんだろう。赤くなる自分を見られるのが恥ずかしくて翔は話題を変えた。 「あ、戸田さんと槙さんだ」 見ると二人が規制線をくぐってこちらに手を挙げている。 「遅え」 辰巳はやれやれと言った風情で、早く上がってこいと指でクイッと合図した。 そんな姿もかっこいいなあと翔が辰巳を見た時、件の不審な男と目がばちりと合ってしまった。 男はびくりと体を硬直させてから二、三歩後ずさると脱兎の如く走り出す。 あっ!と翔は叫んで追いかけようとしたが、翔がいるのは二階だ。俊足の自分でも追いつけるかどうか。 いっそ手摺からとびおりちゃおう、と手摺に足をかけたところで隣で同じ格好をしている辰巳と目が合った。 辰巳は翔に笑いかけると大きな身体をひょいと持ち上げてあっという間に視界から消えていく。 翔もなんだか嬉しくなって後に続いた。
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