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夜のオフィスに忍び込んで、こそこそと他人のパソコンをいじったりして、こんな風に朗らかに喋れるだろうか。
私、急な〈思いつき〉に飛びついて悶々としている自分が可笑しくなった。
そうだ、きっと違う。笹森さんであるはずがない……。
笹森さんに手を引かれるようにして地下街に下りた。そういえば、この間ここに彼女と来た時に、中田さんを見かけたのだった……。
せまい間口のその店先に視線をやると、お客だろうか、扉を押し開け人が出て来た。
「!」
驚いてしまった。だって、今まさに考えたところだったから。黒のコート姿がすらりとして、まるでモデルのような立ち姿が眩しい。中田さんだ……。彼を見た途端、先ほどまで胸を締め付けていた形のない不安なんて消し飛んでしまった。
彼も私を見て、目を丸くする。
「亀谷さん……」
好きな人に名前を呼ばれるだけで、使い古した自分の名字がキラキラと輝き始める気がした。
なんだろう、これは。もしかして運命?
都合よく考えたがる惚けた頭を振るって、息を吸い込む。
私が何か言う前に、横にいた笹森さんが小走りでショーウィンドウに駆け寄った。中田さんが出てきたお店のショーウィンドウ。そこは以前中田さんが立っていた場所。ガラス製のペーパーウェイトを真剣な目で見つめて……。
私を振り返った笹森さんが、口だけ動かした。
……無いです。
あ、と思う。咄嗟に私、中田さんに目を走らせた。ビジネスバッグだけ。紙袋の類はない。スーツの胸ポケットに入れた? いや、そうするには重すぎる。ガラス製のペーパーウェイトなんて。
「やあ、こんなところで会うなんて奇遇だね」
中田さんが目を細めて私を見た。笹森さんを目で指し示して、お友達? と聞いてくる。私は、ええ……と頷いた。
「会計課の笹森さんです。こちら営業部の中田さん」
初めまして。と頭を下げる笹森さんに中田さんが会釈を返す。
「こちらこそ、どうぞよろしく。これから二人で食事?」
「そうなんです。中田さんはお買い物ですか」
さらっと、ごく自然な会話の流れで笹森さんが質問した。私にはできない芸当だ。
「実は、そうなんだ。でも、一足遅かったよ。もう売り切れてしまっていた。すごく綺麗なガラス製のペーパーウェイトだったんだけどね」
中田さんは肩をすくめると、形の良い眉を下げて寂しげに微笑んだ。明らかに落胆しているその様子に、心を突かれた。
なんとかしてあげたい、と思ってしまった。
中田さんは言葉を続けた。
「手に入ったら、決心する良いきっかけにできると思ったんだけどなぁ。ものを口実にするなって言う神様の思し召しかもね」
中田さんの言葉にピクンと心が跳ね上がった。私、気取られないように下唇を噛み、無表情をキープした。
じゃあ、また……と軽く片手を上げた中田さんが滑るように遠ざかってゆくのを、笹森さんと二人見送った。
中田さん、決心するって一体何を?
言い出せなかった言葉がコトンと胸の奥に転がった。
二日後。私は、橋下さんの家を訪ねた。
玄関の呼び鈴を鳴らすと、ガチャリと音がしてドアが開いた。ドアを開けながら顔をあげたのは橋下さんだ。会社では決して見せないスッピンに一瞬固まってしまった。だっていつもばっちりメイクして、甘めのスーツを着こなしている彼女しか見たことがなかったから。
「玄関で立ち話って内容じゃないですから、どうぞ上がってください」
再度、どうぞと言われるまま靴を脱いで上がらせてもらう。リビングに通されて、テーブルの椅子を引き、座る。「すみません、片付いてなくて」と橋下さんは言ったけれど、正直私の部屋より片付いている。部屋の隅に、大人用の紙オムツの袋が置いてあった。
「祖母はデイサービスに行っています。母は寝たところなんです」
そうなんだ……と答えながら、何気なく部屋を見回した時。出窓に置かれたソレに目が釘付けになった。
色とりどりの虹を閉じ込めた、ぽってりとしたガラス製の球体……。
私の視線に気づいた橋下さんがいそいそとお茶を用意しながら口元を緩めた。
「ああ、あれ、素敵でしょう。祖母は少しボケてて、花瓶があるとその中の水を飲んでしまうことがあるので、うっかり花も飾れないんです。仕事帰りにあのペーパーウェイトを見つけて。私一目惚れをしてしまって……つい買ってしまって」
ーー遅かったよ。もう売り切れてしまっていた……。
中田さんの言葉が頭の奥で再生される。
そっか、中田さんより一足先にこのペーパーウェイトを買ったのは橋下さんだったのね。
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