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疑惑と疑問
後日。予想通り、橋下さんの仕事も抱えることになってしまった。
当然のように、一人減り二人減るオフィスに居続け、結局私が最後の一人。それでも無駄な残業はしたくないとしゃかりきで仕事を終わらせ、オフィスを後にした。エレベーターを降りエントランスを小走りで行きかけて……私、急停止した。ファイルを一つ忘れたことに気がついたのだった。それは橋下さんから引き継いだ案件のもので、翌日までに読み込んでおきたかった。私は慌ててエレベータに乗りオフィスにとって返した。
ほとんどがすでに皆退社して電気を落としている。廊下だって足元の非常灯が頼りだ。こう暗くて静かと、別に悪いことしてるわけじゃないのについ忍び足になってしまう。
私、動きやすさ重視でペタンコ靴を履いているから大して足音は響かなのだが……。
息を潜めて暗いオフィスに足を踏み入れようとした時、人の気配を感じて仰天した私は廊下の壁にイモリよろしく張り付いて、恐る恐る無人であるはずに室内を覗き込んだ。
思わず出かかった声を、両手で抑える。
まばらについている隣のビルの明かりで、かろうじて見えた、うごめく人影。
その人物は伊沢君の席のあたりで身をかがめていた。顔は、見えなかった。パソコンの青みがかった光が、ディスプレイの罷免で四角く切り取られている。
一体何をしているの……。
人気がなくなってから、明かりもつけずにパソコンをいじるなんて、伊沢君本人であるはずがない。
怖くて後ずさりしたら、尻餅をついてしまった。
私のお尻が床を打つ音が、シンとした廊下にやけに大きく響いた気がして、 一瞬息が止まった。
どうしよう、気づかれた? 私は四つん這いで必死に這い這いをして、オフィス横にある給湯室に身を潜めた。
でも私、とっさにこの場所に逃げ込んだことをすぐに悔やんだ。
休憩室には扉がない。
そして……エレベーターはとは給湯室の前を取りすぎた向こうだ。
侵入者がエレベーターに乗ろうとこちらに歩いてきたら、ちょっと視線をこちらにやれば亀みたいに身を縮こませて床に頬を擦り付けている私は簡単に見つけられてしまうだろう。
冷蔵庫と来客用の茶碗やお盆が置かれた棚の間で私は息を殺した。
しばらくして、足音が足早に遠ざかってゆくのが聞こえた。
よかった。こっちに来なかった……。
首だけ廊下に出した私は、侵入者の背中を見ることができた。小さくなって行くコートの背中に、ばさりと垂れた髪が蛇のように波打っていた。廊下の突き当たり、ふわりと髪が広がり方向を変えて階段方向へ消えていった。
私、コツコツというヒールの音が、随分遠くなるまで動けなかった。
あたりに静けさが戻るなり、私はオフィスに飛び込んだ。デスクの上のファイルを掴んでから、ちょっと怖かったけれど……伊沢君の席を確認した。荒らされた形跡は、ぱっと見、ない。
だからと言って、先ほど見た光景を打ち消すなんてできない。
ジワリ、と悪寒が這い上がってくる。
いつまでも、この場所に居たくなかった。私はブルリと肩を震わせるとエレベーターにむかった。
徐々に減ってゆく階数の表示を睨んで、自分の中の形の見えない不安を押し込めた。
エレベーターから降りると、笹森さんがエントランスを横切っていくのが見えた。私は思わず手をあげて彼女に声をかけようとしたのだけど……ハッと口をつぐんだ。しかし私の中途半端に上げた手に、彼女の方が気づいた。笹森さんが私に駆け寄ってくる。彼女が動くたび、背中までの長さの軽くウェーブのかかった髪がふわりと左右に揺れた。
「あれ、先輩。遅いですね、残業ですか」
笹森さんの声は明るい。
「う、うん。ちょっとね……笹森さんは?」
「私も残業ですよ。決算前で色々あるのは仕方ないんですけどね」
……私は疑惑でいっぱいの心の内をうまく隠せただろうか。
以前、休憩室で聞いてしまった女性二人の会話が不吉な響きでリフレインした。
——私の前に女性が立っていたんだけど……。その人がいきなり男の人の背中を突いたのを見ちゃったのよ……。
——髪が長くて、ふわふわってしてたのは印象に残ってるわ……。
違う、違う。
だって伊沢くんが助かって、私が取り憑かれなくなったと聞いてものすごく喜んでくれたじゃない。絶対に、違うから。
「それじゃ、駅までご一緒させてください」
そういってきた笹森さんに、私は頷いた。ぎこちなくなってしまったけれど……。
駅までの道のりはせいぜい十分程度。なのに、やけに長く感じられた。
「もー、ほんと寒いですよね。先輩、夕飯どうしますか。よかったら一緒に食べて行きません? 帰ってから作るなんてしませんよね? コンビニに寄るのも面倒だし」
彼女の口調に屈託はない。
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