1人が本棚に入れています
本棚に追加
故郷の景色
両親から毎日のように言って聞かされた。
生まれて死ぬまで、どう生きてどう死んだかによって、死後たどり着く場所は変わるのだよと。
だから、日々の生き方と最期の死に様は大事になさいと。
同じように生きて、同じように死ぬことで、同じ場所に到達出来る。
そう、それは旅のようなものだと。
―― 五日目 ――
今朝も夜露の冷たさでクァルは目を覚ました。
顔を濡らす水滴もそのままに、まずは慎重に周囲に目を走らせる。幸いな事に、今日も危険な存在は見当たらなかった。そばだてた耳にも可愛らしく鳴く鳥の声しか聞こえない。
ほぅと白い息と共にため息を一つ出すと、ようやく顔を袖で拭った。
緩やかに起こした身体は、無理な姿勢で寝たせいか背中や腰が鉛のように重い。枕にしていたズタ袋をひっつかみ、茂みから身体を出す。まだ昇ったばかりの太陽に目を細めながら、丈の短い草地まで移動をする。
昨日の内に見つけたこの場所は、予想通り人通りのない場所だったようで、足跡も人の気配もない。遠いながらも町が見える距離にあり、旅人であれば野宿を選ばずに頑張って町まで行くだろう。木の実やキノコがとれる森とも逆側という、わざわざ立ち入る理由のない草原。その中に胸元程度まで伸びた茂みが幾つか点在しており、カモフラージュにも適している。
念のため、街道や町に対して死角になるように位置取ってから、ズタ袋に入れてある保存食を食べ始める。それが終わると、相棒の大ぶりな鉈の手入れをする。粗末で刃の欠け等もあるが、いざという時に頼れるのはコイツだけだ。ほとんど潰れてしまっている刃を軽く研ぎ、取っ手に巻いている皮の汚れを丹念に拭って、万が一にも滑る事がないようにする。
そうして一通りの準備が終わると、最後に金属を磨いて作った鏡を取り出し、櫛で髪をとかした。
顔や衣服が泥に汚れ、草まみれになっても、それでも女性らしさを保ちたいという気持ちは忘れていない。
「よし」
金属面にあいまいに映る自分の顔はお世辞にも綺麗ではなかったが、少なくとも寝癖がおさまったので良しとする。
丁寧に鏡を袋にしまうと肩に背負い、町を迂回するように移動を開始した。
「ひとまず、川を目指す。途中で食料と水を補給する」
故郷を離れる時に母に教えられた言葉を反芻する。
「それから川伝いに上流へ行く。そうすると、母の姉が住んでいる集落がある」
何度も口にした言葉は淀みなく出てくる。
「そこに着いたら、故郷の事を伝える」
太陽の位置を元に方角を確認すると、周囲を警戒しながら歩き始めた。
「みんなの話をたくさんする」
連なる言葉を紡ぎながら、今日もクァルは歩き始めるのであった。
―― 七日目 ――
先日の寝床に程近かった宿場町を大きく迂回しながら歩いていたところ、ぽつんと平原にある、丁度良い感じの牧畜をしている人家を見つけた。
その家の者が離れている隙に柵を乗り越えて、手ごろな鶏を一羽頂戴する事にした。
少々手こずったが、何度か振るった鉈が偶然にも一羽の首に当たり、仕留める事が出来た。
鶏の騒ぐ声を聞きつけ、すぐに家の者もクァルを発見するが、鉈が怖いのか近づいては来ずに遠巻きに様子を伺っていた。
クァルとしても目的を果たしたので、長居する事なく山に入るべく移動を再開した。
その日の夜は、久しぶりに動物性たんぱく質を摂取する事が出来た。
―― 九日目 ――
数度に分けて食べた鶏の肉が無くなった頃、ようやく視界から町が見えない場所まで来た。
最近は物騒なのでこんな夜逃げか何かのような行動をとっているが、本当に大変だった。物陰や物音に反応しては立ち止まり、じっと身体を固く小さくして待った。加えて、可能な限り身を隠したかったため、茂みや樹といった物陰を選んでジグザグに歩いていたので、かかった時間の割にはあまり前に進めなかった。
「お腹が空いた」
春の陽気に優しくそよぐ風、これでお弁当でもあれば完璧なピクニックなのに、あいにくさっき食べた鶏肉で食料はほとんど底をついていた。袋の中には保存用の干し飯くらいしかない。水が無くては生きていけないという教えを守り食料よりも水を多めに持ってきた結果、どうも袋に詰める配分を誤ったようだ。歩む度に袋の中で揺れる水の音と腹の虫を聞きながら、過去の自分を恨めしく感じていた。
話し相手が居ない事も良くない。集落では同じ年の頃の友達といつも一緒に駆け回って遊び、賑やかすぎてたまには一人になりたいと思う程であったのに、今は旅の同行者は空から見守ってくれる太陽くらいのものだ。
その太陽も気まぐれに隠れたりする。
「曇ってきた……雨の匂いがする」
クァルと太陽が互いに頂点を過ぎ下り坂に差し掛かった辺りで、にわかに灰色がかった雲が増えてきた。風は雨の匂いを運び、そう遠くない内に振るであろう雨の気配を感じさせた。
このまま進むか雨宿り場所を探すか迷いつつも、空腹で鈍った判断力は惰性での歩みを選択させた。
そうこうしつつ下り坂を歩いていると、じくりと足元がぬかるんだ。どうやら湿地帯に突き当たったらしい。草の背が高かったため、気が付かなかった。
クァルは足を止め少しだけ思案すると、そのまま緩やかに姿勢を落とし草に隠れる。それから今来た方向に戻り始めた。自分の足跡を踏んで、新しい足跡は残さないように気を付ける。どれも、外敵から見られていた場合を考えての行動だ。幸いな事に背丈がクァルの肩辺りまであるような草がびっしりと生い茂っているので、上手く身を隠せている事だろう。
たっぷり五十歩は戻ったところで方向転換し、高台の方へ進路を変える。お腹は空いているが、まずは身の安全と経路の確認が先決だ。
高台には小ぶりではあるが新緑を携えた樹が一本立っている。雨宿りには最適だろう。
樹の根元に背中の袋を下ろし、自身も腰を下ろす。袋からなめし革のポンチョを取り出し頭から被る。冷えにはそこまで効果は無いが、雨風は防いでくれる。
ポツリと地面の草を叩く音が聞こえたかと思うと、一気に雨が振り始めた。
こうなっては何も出来ない。長期戦に備え、まずは鍋を取り出し雨水を貯める事にする。ある程度溜まったところで干し飯を入れ、半刻ほどもどす。口の中で噛みながらもどしてもいいが、あれは最終手段だ。飲み水を使ってまでは勿体ないのでしないが、雨水であればいいだろう。
じっと待ちつつもどした干し飯を少しずつ摘まみながら、ぼんやりと眼下の湿地帯を眺めてみる。遠目には雨のカーテンもあってよく見えないが、今頃川が形成されつつあるだろう。
「魚が捕れるといいのだけれど」
旨くない食事を終えると、雨水を捨てた鍋を樹に立てかけて水を切る。その後は、手でポンチョの開いている前を合わせ、ただ雨が止むのをじっと待つ事にした。
気が付けばクァルは少し眠っていたようだ。静かに目を覚ますと、雲の切れ間から茜色に染まった太陽がかすかに顔を覗かせていた。
袋に鍋を放り込み、急いで坂を下る。するとそこには、太陽の光を反射して美しく輝く川が湿地帯に出来ていた。よく目を凝らすと魚の姿も見える。先を急ぐか悩ましいところではあったが、この先食料を補給できるとは限らないので、当座をしのぐ分として二、三匹捕まえる事にする。
「魚捕り遊びが役立ったわ」
小ぶりの魚を三匹捕まえると、生きたまま網に入れて持ち運べるようにした。さっさと食べた方が美味しいのだけれど、少しでも明るい内に移動してしまいたい。それに、夜暗くなってから川岸を歩くのは危ない。かと言って火を焚きながら歩くのも、外敵に居場所を知らせる目印になってしまう。
多少鮮度が落ちるだろうけれど、そこは我慢だ。
ズタ袋とピチピチと跳ねる魚の網を背負い、川の上流に向かって進む。
陽が落ちて星が瞬く頃には、故郷の集落があった山とよく似た小山が見えてきた。まだ遠いが、明日の昼過ぎにはたどり着けそうだ。
目印にしてきた川は雨が降った時にだけ出来る支流で、小山から続いているそれなりに幅のある川が本流なのだろう。川の両岸は開けていて視界が良すぎるので、今夜は本流から離れた場所で寝る事にしようと、野営の準備を始める。
手近な低木まで移動すると、幸いな事に根本は乾いていた。そこに腰を落ち着け、すっかり静かになった網の中の魚を生で食べる事にする。
本当は焼いて食べたいところだが、燃えそうな枝が見当たらない。
小刀で捌き、水袋の水で洗い、小さな切り身にして一切れ口に入れる。
「うん、美味しい」
塩でもあればなお良かったのだけれど、贅沢は言えない。そのまま魚を一尾ぺろりと平らげると、残りの二匹は水をはった鍋に入れて保存する。
「残りは明日の朝ご飯にしよう」
雨上がりの少し肌寒い夜風に震えながら、今夜も無事に眠りにつけた事を喜ぶ。
―― 十二日目 ――
故郷を離れてから続いている旅する日々。今日も同じような一日が始まる。
起きて、周囲を警戒して、人気のない事を確認してから食事、道具の手入れ、最後に身だしなみを整える。今日は近くに川があるので、久しぶりに水浴びをした。身体を洗うのはいつぶりだろうか。
山の中腹、まばらに茂る木立の中に、岩がうまい具合に堰となって流れが穏やかになっている場所があった。静かに流れる川に身を浸し、しばし心を安らかにする。
髪を洗うと、べっとりとした脂の感触が手に伝わる。顔も黒ずんでいたのか、身体を浸してしばらくは黒ずんだ汚れが川に広がっていった。しかし、その内それも収まり、元のせせらぎに戻る。
身を清めてさっぱりとすると、久しぶりに日常を取り戻したかのような気持ちになる。残念ながら服は替えが無いので脱いだ物に再び袖を通す事になったが。
これまでの旅路とは違って、山には生き物の気配や息遣いが感じられる。
「今日はいい日になりそう」
この場所より川上は岩場を縫うように流れているようなので、きっとこの場所が水汲み場だろう。であれば、そろそろ集落があるはずだ。
はやる気持ちを抑え、慎重に歩きやすい道を選んで進む。
太陽は頂点を少し過ぎたくらい。きっと集落のみんなも畑仕事を中断し、昼食をとりながら休んでいる頃だろう。
「もしかしたら、のんびりと昼寝でもしてるかも」
母と自分が横に並んで昼寝をしている姿を思い出して、クァルは久しぶりに少しだけ笑えた。
一歩、また一歩と山を登り続けると、急に視界が開ける。
木製の膝丈くらいある柵。畑の畝と成長した植物。藁ぶきの簡素な家。木陰で横になる大人。甲高い声を上げて走り回る子供たち。
そこには、懐かしい故郷と瓜二つの光景が一面に広がっていた。
―― 一日目 ――
クァルはその集落に生まれ、その日まで一度も集落の外に出た事がなかった。
痩せてはいるが畑があり、家畜も多少はおり、集落に住む五十に満たない程度の人数であれば自給自足が出来る。小さいながらも山の頂上付近という、賑やかな都会等とは地理的に隔たりがある立地なので、人通りは基本的にない。唯一、同じく五十名程度の規模の人里が山の麓にあるが、基本的に交流も接触もない。
そんなのどかではあるけれど世間から隔離された場所なので、余程理由のある大人以外は柵を越えて外の世界に行く事はなかった。
その日もクァルは午前中畑仕事を手伝い、昼食を食べた後は同じ年ごろの子供たちと駆け回って遊んでいた。遊ぶといっても遊具の類が有るわけでもないので、かけっこや鬼ごっこといった単純な遊びになる。いつもは何で遊ぶか決めるのに揉めたりもするが、そろそろ暖かくなりつつある日だったので、久しぶりに川で遊ぼうと全会一致で決まった。
集落を囲う柵の中で、子供が唯一越える事を許可されているのが川へ通じる柵だ。畑仕事や炊事等、水汲みは頻繁に必要となる。そのため、手が足りない時には子供が川へ水を汲みに行く。勿論、水汲み以外でも行って良い事になっているので、柵を越えるという特別感もあって川遊びは人気があった。
坂を駆け下りてたどり着いた先には、冬の間凍り付いていた氷雪がすっかり溶けて、さらさらと水が流れている川があった。クァルは足先を水につけてみたが、あまりの冷たさにすぐに引っ込めてしまった。まだ川遊びをするのは気が早いようだった。他の子達も同じようで、仕方なく川沿いを散歩する事にした。
川の水は冷たかったが、穏やかな日差しはとても暖かく、ぽかぽかとした陽気の元での散歩は意外と楽しかった。
そうして川沿いを歩いていると、川岸に杖を突いた老人を発見した。
「お爺さんが居る!」
クァルはその老人に駆け寄ると、どうかしたのかと声をかけた。少々訛りの強い言葉を辛抱強く聞くと、どうもクァル達の集落を探していて道に迷ったらしい。川遊びも出来なくて丁度暇をしていたクァル達は、初めて見る外からの来訪者に興味を抱き、我先にと道案内を始めた。
老人がしゃがれ声を張り上げると、離れた場所から合わせて五人の大人がやってきた。一番年長らしきその老人以外はこの土地の言葉を話せないらしく、一々老人に通訳してもらう必要があった。
彼らが言うには、旅の行商人という事であった。そういえば、大小の差はあるにせよ全員大ぶりな荷物を抱えており、自衛のためか武具を身に着けている者もいる。集落にない何かを調達する必要が出た時は、基本的に大人の男が山を下りて麓の里まで行っている。そのため、少なくとも子供たちは行商人が来たのを見たのは初めてであった。集落以外の人との交流自体も初めてなので、子供たちは興奮しつつ集落の様子を語って聞かせた。
行商人達にとっては間が悪い事に、丁度今朝から大人の男達は山を下っているので、本格的に物を買うのは夕方ごろになってしまうと伝えたが、行商人たちは急ぐ旅ではないからと気にせず案内を求めてきた。
老人の通訳ごしではあったけれど、知らない大人達との会話は存外楽しく、あっという間に集落の柵まで戻ってきた。柵の一か所を切り取って付けられた扉を開き、ぞろぞろと中に入ると、そろそろ昼ご飯を済ませて午後の仕事をしようという大人達と鉢合わせになった。
子供たちが行商人の紹介をしようと声を出すよりも早く、その頭上を何かが飛び去る。赤い熱を持った塊が先頭に居た大人の顔に当たるや否や、それは弾けて周囲の大人を全てなぎ倒した。
目を眩ませる光と遅れて届く熱風。地面に転がる黒い炭。
大人たちが消えた。
突然の事に動けないで居るクァルを追い越し、行商人たちは集落を駆け出しはじめた。
黒い炭が蹴られて舞い上がる様を見ている間にも、留守を預かっている女性たちが次々に倒れ伏していった。ある者は剣で切り裂かれ、ある者は弓に貫かれた。神に仕えると思しき白衣の者は、分銅で頭蓋を割っていた。
そうして一通りの大人を静かにすると、今度は子供たちにその暴力が向いた。
その先は、覚えていない。
折り重なる友達の重さにうなされながら身体を起こすと、そこには燃え盛る故郷の姿があった。
呆然と集落の中を歩き回るが、クァル以外に動く姿は見つからなかった。さほど広くない集落を一周する間に、母の姿を見つける事は出来なかった。
その内、火と煙が喉と肺を責め立てるので、仕方なく柵の外まで避難する事にした。
途中、共用の貯蔵庫に立ち寄り、持てる範囲で食料や水、調理器具等をズタ袋に放り込み、雑ながらも旅支度を整えた。
母が言っていた。何かがあった時は、南に見える山に住む姉を頼りなさいと。
「……行こう」
集落の近くで夜まで待ったが、誰一人として柵を越えてくる事はなかった。
父達も、帰ってこなかった。
―― 十二日目 ――
木製の柵は破壊され悠々と乗り越えられる程度の高さになっていた。畑には収穫を目前にしていた植物が踏み荒らされている。藁ぶき家の土塀は穿たれ屋根は火が放たれていた。赤黒い地面に横たわる大人は寝息もなく転がっていた。狂乱の声を上げて逃げ回る子供たちは次第に数を減らしていった。
そこには懐かしい故郷と瓜二つの光景が一面に広がっていた。
眼前で繰り広げられる殺戮。狼藉者どもによる暴力の嵐を見ながら、いつかの情景を思い浮かべていた。
あの時は、幸運にも自分だけ生き残る事が出来た。しかし、幸運というものは二度も三度も訪れるものではないらしい。
「――――」
理解の出来ない異国の言葉を互いに交わしながら、二人の男がクァルの方へ近づいてくる。片方は赤黒い斑点の目立つ革鎧と剣で武装していて、もう片方は純白のゆったりとした服を着ていた。
純白の衣服の男性はきっと神に仕える者だろう。クァルは一縷の望みをかけて懇願した。
「助けて下さい!」
二人が少しだけ言葉を交わす。
静かに待つクァル。
しばしの沈黙の後に、救いがもたらされた。
最初のコメントを投稿しよう!