夜の底

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夜の底

 和と一緒なのは、駅までだった。 和は私鉄で、おれは地下鉄で、それぞれの地元へと帰る。 朝のラッシュほどではないが、駅はちょうど、利用客で込み始めた頃だった。  私鉄の改札前まで、おれは和を送った。 人の流れの邪魔にならない所に外れて、和はおれに左手を差し出してきた。  退院したあの日以来、和はおれと別れる間際に必ず、握手を求めてくる。 ――握手以外の、以上のものをそこに見ているのは、おれにも分かった。  握り返したおれに、 「相変わらず、センセイの手、冷てー!」 と叫ぶ。  言葉とは裏腹に、笑いながら。 和の手が暖かい、いや、熱いだけだとおれは思うのだが・・・黙っていた。  冷たい、ガサガサしていると文句を言うくせに、和は、おれの手をなかなか離そうとはしない。 それも、あの日以来のいつものことだった。  笑うのを止めて、でもおれの手を握りしめたままで、和が言った。 「センセイ――おれたち、付き合ってるんだよね?」 「・・・(なぎ)」 「ヤってないけど」  改札口を行き交う人びとには、けして聞こえないような、ほんのほんの小さな声で付け足してくる。  おれの左手の甲に置かれた親指は、答えを探し出そうとするかのように、ゆっくりと行き来をした。 愛撫、そのままだった――。  そんな和に、おれは言った。 「――付き合っていないよ」 「え?」  和の手の力が一瞬、緩んだ。 その隙に、おれは和の手の中から、愛撫から逃げ出した。 「今はまだ、付き合ってはいない」 「センセイ・・・」  おれは和の顔を、和の目に映る自分の顔を、見ていたくなかった。 ――見ていることが出来なかった。
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