その椀を借りるということ

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その椀を借りるということ

 ダイダラボッチの足跡でできた池がある。座敷童子が出る屋敷がある。天狗が書いた詫び証文がある。  あなたの地元にはどんな伝説・逸話・伝承がありますか?  五月四日、午後八時過ぎ、無事祖父母の家に到着。朝の速報通り、どこの道路も混雑していたせいで、日が出ている内に着く事はできなかった。ヘッドライトの光が、家の玄関を照らした時、安堵のためというよりも旅の疲れを吐き捨てるかのように父は大きな溜息をついた。 「さぁ、着いたわよ。」  母の声と共に車のドアが開く。私は弟の手を引きながら車を降りる。降りて、祖父母の家の方へ目を向ける。  雑木林に囲まれた平屋の家。縁側に面した居間のカーテンの隙間からこぼれる光と笑い声。私が住んでいる町よりずっと田舎だけれど、耳を澄ますと水やテレビ、換気扇などの生活音が聞こえ、隣人の気配を感じ取れる。街路灯は多くはないのに、目を凝らすような暗さでもない。  薄暗い中、両親が各々持つ荷物を相談する声が聞こえる。  引き戸の磨りガラスに人影が映り、戸が開く。 「遅かったねぇ。心配したよ。」  満面の笑みで祖母が私達の方へ歩み寄ってくる。その後ろから祖父が脱げそうなつっかけと悪戦苦闘しながらも、祖母と同じく笑顔で出迎えてくれる。 「こんばんは。道が混んでいてこんな時間に……。」  私が深々とお辞儀をしたのに対し、祖母は軽く頭を下げ、「大きくなったわね」と以前と全く同じことを言った。無理もない。前に祖父母の所へ来たのは三年前。私が小学生の頃だ。あの頃に比べれば、背も随分伸びたはずだ。 「ええと、今は中学生?」 「中学二年です。弟の宗太は小学生になりました。」  私は宗太に挨拶を促すが、人見知りする宗太は私のスカートを握りしめたまま動こうとしない。私がもう一度「挨拶は?」と問いかけるが、少し頭を下げただけで、口を開こうとはしなかった。そうこうしている内に、父と母が荷物を持ってやって来る。大人達の会話が始まり、私と宗太は少しの間蚊帳の外に出される。私は弟の頭を優しく撫で、話が終わるのを待つ。 「そうだ、そうだ。麻里ちゃん、着いたばかりで悪いけど、これ、行ってきてくれんか?」  祖父は、少し離れて立つ私達二人に折り畳んだメモ用紙を差し出した。 「これ以上遅くなるとお隣さんに失礼だからねぇ。」  私はメモを受け取り、笑顔で返事をする。 「そうですね。すぐ行ってきます。」  祖母と話し込んでいる両親に一言声を掛けた後、弟の手を取り、車道の方へと歩き出す。 「パパとママは?」 「お姉ちゃんと一緒にお遣いは嫌?」  不思議そうな顔を向ける宗太に、私は意地悪な事を言う。何の為に祖父母の所へ来たか理解していない弟でも、父と母と一緒にいたら、大人達に囲まれる事ぐらいわかっているだろう。宗太は両手で私の手をしっかりと握ると、少し早足気味に私の横を歩き始める。  道へ出て、私は予め用意しておいた小さな懐中電灯をバッグから取り出す。幅は狭いが、歩道があり、街路灯も点々と舗装された道を照らしている。それでも私は弟の手を握り直し、弟を車道へあまり近づけないようにする。時折私達に眩しい光を浴びせながら車が通り過ぎ、闇へと消えていく。山道のためか、おかしな風に道が曲がりくねっており、暗さと相まって上手く距離感が掴めない。また、外灯の光が思いの外明るいため、却って光が届かない影の場所が一層暗く見え、何か潜んでいるのではないかと不安に思ってしまう。暗がりに懐中電灯の弱弱しい光を当てるが、一瞬直視するのを躊躇ってしまう。宗太も同じように感じているのか、私に抱きついてくる。 「大丈夫。お隣さん、すぐそこだから。」  私は屈んで、宗太の頭を包み込むように抱き寄せる。宗太が泣きそうな時は、いつもこうしている。宗太はもう小学生だ。甘やかし過ぎていると言われそうだけど、私は母のように言葉で上手く諭すことができない。宗太のためではなく、私自身がこうやってその場を誤魔化すことを由としてしまっている。  暫く無言で抱き合う内に、近隣から家族団欒の声が聞こえてくる。この辺りは畑と木々ばかりで、人家がまばらにしかないかもしれないが、全く人がいない訳ではない。温かなその声で人心地がつく。 「あそこの赤い提灯わかる?」  私は三軒ほど先にある提灯が飾られている門を指差す。提灯の灯りは、街路灯の光に比べると、何かを照らすという役目は果たせていないけれど、門の位置を示すだけの存在感はかろうじて保っている。 「あそこがお隣さんだから。」  何とか宗太を勇気付けて、門の前まで来る。門は時代劇で見るような瓦が載った純和風の門構え。木で組まれた高い塀だけど、それはほんの数メートルだけ。後は、草木が歩道との境目ぎりぎりまで茂っていて、門はあくまでここが入り口であることを強調しているにすぎない。  門の前で一礼し、敷居を跨ぐ。弟が転ばないように手を引きつつ、門の内へと入っていく。土むき出しの一本道が奥まで続いている。その道の両脇は草木が生い茂っているが、荒れ果てた感じはなく、清然としている。人の手が入った庭園のような美しさではなく、自然と花々の陰影が目に入り、木々の葉が擦れ合う音が耳に心地好い空間。つつじ、あやめ、さつき。暗さで色ははっきりと識別できないけれど、姿形は見て取れる。ふといつの間にこれ程力強く月の光が降り注いでいたのか、不思議に思ったが、敢えて気にしないことにした。所々、弟の背丈ほどの竹垣があり、宗太はその垣越しに庭を見て歩く。 「手毬みたい。」  弟の視線の先を見ると、白い小さな花が球状に咲いている。風で静かに揺れるそれは、弟の言う通り手毬をついているかのよう。 「コデマリっていう花なんだって。」  花に詳しくない私は、祖父の言葉を思い出しながら花の名前を口にした。  私が初めてお隣さんの所へお遣いに行く時は、祖父が付き添ってくれた。祖父はもっと色々な花や木の名前を言っていた気がするけれども、私はこの花の名前しかはっきりと思い出せない。おそらく、私の名前が入った花だったから、これだけが印象に残ってしまったのだろう。  目に見えぬ誰かがつくこのコデマリを、弟と同じく小さい頃の私も見ていた。いや、私もまだ子供。幼い頃を思い出しながらも、視線は上下するマリを追いかけ、魅了されている。 「足元気を付けてね。」  坂道というほどでもないなだらかな斜面の先に、お隣さんの家の戸が見える。戸は少し開いているが、中の様子を窺い知ることはできない。  私は戸から離れた所で一礼し、弟に祖父から渡されたメモを広げて見せる。 「大きな声でここに書いてあることを読むの。できる?」  訳が分からず戸惑っている弟に、「読むだけでいいから」と私は短く言う。弟は背筋を伸ばし、恐る恐ると声を出した。 「お茶碗九つ、お椀八つ貸して下さい。」  言い終えると弟はすぐに私の後ろに隠れた。戸の向こうからおばけが出てくるとでも思っていたのだろうか。私は気にせず、再び一礼した後、来た道を戻り始める。 「お椀借りないの?」 「取りに来るのは明日。お隣さんだって準備が必要でしょ。」  小走りに追い付いてきた宗太の手を握り、帰りを急ぐ。宗太はお隣さんが気になるのか、何度か後ろを振り返るような仕草を見せた。  門をくぐり、外に出ると、人工的な明るさに一瞬、はっとさせられ、立ち尽くす。祖父がいたら、「狸か狐に化かされたか」とからかわれそうだ。近所のスーパーへ行くような距離なのに、大分時間を費やしてしまった。中学生にもなって、椀を借りに行くだけのお遣いで、何をまごまごしていたのだろう。  早足で祖父母の家に帰り、お遣いの報告をする。祖母は、余程心配だったらしく、玄関先で今か今かと待っていた。 「どうだい? ちゃんと頼んできたかい?」 「ちゃんとお願いしてきました。また明日取りに行ってきますね。」  座敷の前を通る時、ほんのり頬を赤く染め、酒を酌み交わす祖父と父、そして伯父の姿を見つける。 「伯父さん、お久しぶりです。」 「麻里ちゃん、本当に大きくなったね。宗太君も。」  私は苦笑いをしつつお辞儀をして、洗面所へ向かう。  お隣さんにお願いした茶碗の数から察していたが、どうやらいとこの花穂さんは来ていないみたいだ。花穂さんはもう大学を出て社会人だから、きっと仕事が忙しいのだろう。小さい頃から面倒を見てもらっていた花穂さんは、憧れのお姉さんだ。私自身が宗太の姉になり、下の子を見る大変さを知ってからは、花穂さんに対する尊敬の念はより強くなった。花穂さんがしてくれたように私も立派で優しい姉を務めようとしているのだけれど、気弱な宗太がぐずぐずしていると、つい腹が立って厳しくしてしまう。最近は宗太に「ママより恐い」と言われてしまう始末だった。  手洗いを済ませ、台所へ行くと、女性陣がわいわいと世間話をしながら配膳をしているところだった。母に先にお風呂に入るように言われ、伯母さんに軽く挨拶をして、その場を離れる。この時も、宗太は私の後ろに隠れて、伯母さんの方へ顔を向けることはなかった。お風呂から出た後、その事について宗太の髪を乾かしながら注意する。 「宗太、ちゃんと挨拶しないと伯母さんに失礼でしょ。」 「うん。」  覇気のない返事にもう一度注意しようとしたが、私の顔色を窺うような宗太の顔を見てぐっと堪える。悪いことをしたと思っているから、私が怒っているか見ているんだ。これ以上声を荒げても良いことなんてない。「あなたも宗太ぐらいの頃は、そんなものだった」。母の言葉を思い出す。最近、私が宗太を厳しく叱りつけた時、よく言われる言葉。わかっている。そんなこと。でも、納得できない。じゃあ、なぜ母は、私には厳しくするのだろう。宗太ばかり贔屓されているように感じるのは気のせいなのかな。 「次はお願いね。」  私が怒りを抑え、できる限り優しく声を掛けると、宗太は黙ってしっかりと頷いた。とりあえず、そのやり取りでこの話は終わりにした。祖父母の家に来てまで、私も怒りたくはない。 宗太にパジャマを着せ、座敷へ行く。母達が料理を並べ終えていて、私と宗太以外全員座って待っていた。 「明日が本番だけど、今日も乾杯しておくか。」  すでに酔っている三人が、声を揃えてグラスを合わせた後、再びお酒をグビグビと呑み始める。私達も手を合わせて、ご飯を頂く。いつもならすでに寝ている時間なので、宗太がゆらゆらと揺れながらお箸を動かしている。私も長時間の移動や弟の面倒で、すっかり疲れていた。 「ご飯食べたら寝ようね。」  宗太は短く「うん」と答えただけで、後は黙々とご飯を食べ続けた。
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