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けたたましい家守の鳴き声に、青瑠は目を覚ました。眠りは浅く短かかったが、興奮のためか、眠気はなかった。体の節々が痛みを訴える。
起き上がると、厨に面した板戸をそろそろと開けた。家人の姿はないが、夜明けは近いはずだ。
蝶の首飾りが揺れ、青瑠は襟元に手を滑らせた。
表へ出ると、砂を掻き混ぜるような潮騒に包み込まれた。アダンの葉を揺らす潮風は、犬の舌のように湿っている。まだ夜の匂いが強いものの、濃藍の空では星明りが滲み溶け始めていた。
青瑠は海沿いの道を駆け出した。やがて家屋は途切れがちになり、右手は奥深いイザイの森に変わった。
久高島の西の端には徳仁港があり、港を中心に集落が形成される。イザイの森は、ちょうど村の東に広がっていた。
十二年に一度、島で催される大祭のイザイホーのときには、イザイの森で「ナンチュ」(三十歳から四十一歳の女性)が三日三晩お籠りをする。霊力高い森とされ、男子は禁制の地だ。
出し抜けに「コホーコホー」と梟の鳴き声が聞こえ、青瑠は跳び上がるほど驚いて足を止めた。森の奥は、綾目もつかぬ闇に塗り込められている。
以前、玉弥から聞いた噂が頭を過ぎった。
『イザイの森にはね、幽霊が出るんだってさ。悲恋の末に自死した女の幽霊が、恋人を求めて、彷徨い歩くのさ』
青瑠はブルリと震えた。女には禁じられていない場所であっても、好んで入りたくはない。しかし――。
(美屋久に見つからないためには、いざとなったら、イザイ山に隠れるしかないのね)
そのとき、耳鳴りのように湧いていた虫の音が、糸を断ち切られたようにふつりと途絶えた。
物々しい静けさに呑み込まれる。
続いて、パシッ、と木の枝を踏む音が聞こえた。
青瑠は目を凝らした。闇の奥から、もっと深い闇が湧き出してくる。下藪を踏む音が聞こえる。
(……きっと猫よ。ヤシガニかもしれない。こんな早朝から、イザイ山を歩き回る人が、いるはずない)
己に言い聞かせながらも、震えが止まらなかった。鳥肌が立つほど寒いのに、冷汗が滲み出した。歯の根が合わない。
もし何者かがいるならば、それは。
甘藻が海流に踊るように、闇がゆらりと揺れた。
「♪大村御殿の角なかい 耳きり坊主が 立っちょんどー」
襟足から冷水を注ぎ込まれたように、一瞬で総毛立った。
たとえようもなく美しいが、掻き毟られるほどに悲しげな、女の歌声だった。
「♪幾体 いくたい 立っちょがーや 三体 四体 立っちょがーや」
青瑠は、動けなかった。得体の知れない何かが迫っていると、頭では理解していながら、魂を落としたように突っ立っていた。
影は唄い止んだ。頭を擡げ、どうやら、正面を青瑠に据えているようだった。
月桃の花のように真っ白な手が、すーっと伸びた。
おいで、おいで、と手招きする。
背後から押されたように、青瑠は蹌踉めいた。足元が沼と化し、沈み込んでいくような気がした。
(イザイの森の……幽霊……恋人を失って……淋しくて……)
夢と現が溶け合う。泥濘の中へずぶりと落ちてゆく。
頭上のサガリバナの枝から「コホッ」と咳き込むように梟が鳴いた。たちまち青瑠は尾を踏まれた猫のように跳ね上がると、背を向けて逃げ出した。
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