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《チャンス#2》
「ところでさ」
松本の声の感じがいきなり軽くなる。おれは眉の動きだけで『なんだ?』と聞いた。
「その顔どうしたん?」
担任をはじめ、朝から十回以上聞かれていることをおれにいわせようとする松本。うっぷんは溜まらないが、うんざりはする。
土曜から月曜──つまり昨日までおれは学校を休んでいた。きちがいどもの言葉に従ったわけじゃない。あの晩からゲロが、その翌朝から高熱が止まらなかったからだ。もちろんそこのところは誰にも話していない。松本にも当たり前に省略する。
「ケガしたんだよ。見ればわかるだろ」
「どんなことしたら、そんなケガになるん」
昨日の昼には調子を戻し、午後には例のかっぱらいに精を出していたおれ。松本と顔を合わせるのはだから、金曜の放課後以来──四日ぶり。
「橋から落ちた。川原へ」
立ち止まって拳をさすっている松本の横を過ぎながら、今日さんざん口にしてきたセリフをいってやる。
「どこの?」
「上松川橋」
この街と、となりの小布施町の間を流れている、魚のいない赤茶けた川にかけられた橋の名前を口にする。これも十何回め。おれたちはそこを渡り、学区外へよく出かけていく。
「普通はそんなとこから落ちないよ」
「らんかんの上、歩いてて足が滑った」
医者に見せたのかという質問に、そんなのは根性なしの馬鹿がやることだと答えてやる。
「なんかうそくさい」
当たり前だ。こんな顔になる勢いで橋から落ちれば、よくて骨折、運が悪ければ死ぬ。おれの本当の暮らしぶりを誰かにしゃべるつもりはない。
「信用できなきゃ、別にいい」
本当の暮らしぶりを思いだしたせいで、口のなかにあの味と感触がよみがえってきていた。どれだけガムを噛んでも消えない酸っぱさと舌触り。歯を磨いてもそれは同じだった。口の内側を誰かと丸ごと取り替えたくなる。
「信用しとくよ」
松本が小走りで追いついてくる。モズだかヒタキだかを追っかけまわす猫がおれたちの影を踏んづけていった。
「実はさ」
野鳥の悲鳴が聞こえた。落ち葉がバサバサいう音も聞こえた。『実はさ』に続く言葉だけがなかなか聞こえてこない。悲鳴は少しずつ小さくなっていった。
「なんだよ」
立ち止まって後ろを向く。つんのめっておれにぶつかってきた松本がよろけた。
「急に止まったら危ないじゃん」
「そんなことより続きをいえよ、続きを」
なにを考えているのかわからない目玉がふたつ、おれの顔を見ては逸らすことを繰り返す。
「からかってんのか」
「ちがうよ」
「じゃあ、なんだよ」
「前から考えてたことがある⋯⋯んだけどさ」
目の前の顔がしっかりとおれに向く。引き続きなにを考えているのかわからない目玉が下を向き、横を向き、戻ってきてまたおれに向いた──なにかを決心したような顔つき。誰にそうしているのかわからない頷きに合わせて、松本が左の手のひらを右の拳で叩きはじめた。
「よし。沢村も一緒にやらず」
松本の口からはときどき方言が出たが、静恵やハツほどめちゃくちゃな言葉は使ってこない。
「だからなにをだよ」
「まだ、内緒」
にやついてるだけで、その先をしゃべろうとしない松本。心にうっぷんの芽が生える。
「なんだそりゃ。どうせ大した話じゃないんだろ」
少し強めの口調でいった。
「聞きもしないでそういうこといわない」
内緒話がもし、どけちな兄貴や家族のそれならおれには関係ない。松本もそんな話につきあわせるつもりじゃない⋯⋯とは思うが、さっきの話の流れでいくとそこのところは微妙だった。そういう話以外で金のかからないことなら乗ってやってもいい。どうせおれは三年半後まで暇だ。
「んじゃ、もったいぶってないでいえよ」
「いちゃつくなし」
いちゃつくなし=焦んじゃねえよ。千葉ならまるで意味の変わってくる言葉。松本がおれの少し前を歩きだす。
「ツレションとかいうなよな」
松本の考えたこと。考えそうなこと──わからなかった。想像の範囲をもう少し広げてみる──テレビゲームが馬鹿みたいに好きな松本。
「ゲーセンとかだったら行かねえぞ」
「そうだな⋯⋯えっと、こっちだ」
「無視すんなよ、おい」
松本が山の側=ゲームセンターとも帰る方向ともちがうほうへ歩きだす。
「そっちじゃねえだろ。どこ行くんだよ」
「まあ、いいじゃん」
よくなかった。あまり道草を食って帰りが遅くなるとハツが面倒くさい。畑を手伝わねえガキは出てけ=野良仕事をサボると決まっていわれるセリフ。これにくだらない暴力と朝飯抜きの刑がもれなくついてくる。
「なあ、おい⋯⋯」
おれの事情などおかまいなしに歩いていく松本。いったいなにを『一緒にやらず』なのか。うっぷんの芽から枝や葉っぱが伸びはじめる。
「ここで、いっか」
ぼろい小屋の前で松本が足を止めた。
「なんだここ」
「知らないよ。りんごとかしまっとくとこじゃん?」
松本が入口の扉を引っぱり開け、小屋のまわりとなかをざっと見まわす。つられておれも同じことをした。人影らしきものはない。
「誰か来たらやばいぞ」
「大丈夫、大丈夫。りんごの収穫なんてもうとっくに終わってんだし、人なんて来やしないって」
堂々と小屋のなかへ入っていく松本。しかたなくおれも後に続いた。
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