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《名前#5》
「お前の声のほうがよっぽどうるさくて迷惑じゃねえか」
「あんたにお前なんていわれる筋合いない!」
「おれもお前にあんた呼ばわりされる筋合いじゃねえと思うぞ」
「屁理屈いわないで!」
「自分はどうなんだよ」
細く吊りあがった目と口。ただでさえ豚みたいな顔が本物と見分けがつかないぐらいに似てきた。顔のところどころに赤みも差してきている。ヒステリーの前ぶれだ。
「あんたが一番問題児なの! 先生だってすごく迷惑してたわ!」
「さっきから迷惑迷惑って、おれがいったいなにしたってんだよ」
「出てって! もうこのクラスから出てってよ!」
いわれなくても今夜そうする。豚の願いを叶えてやるのはしゃくだったが成り行き上、しかたがない。
「ねえ! みんなもそうでしょ! 迷惑でしょ!」
喚き散らしながら羊どもを見渡す豚──どっちも家畜のくせしやがって。頷くやつをひとりでも見つけたら、走っていってぶっ飛ばしてやるところだった。
「ほらみなさいよ! みんなそう思ってるのに、口に出したら後でひどい目にあわされるんじゃないかって、誰もなにもいわないじゃない!」
ものはいいようだ。タバコのことをいったら松本に脅されたとでもいうんだろうか。
「お前のことがみんな面倒くせえだけだ」
「そんなわけないでしょ! 変ないいがかりやめて!」
豚をかまうのもそろそろ飽きていた。だいたい、ここにいるやつらと顔を合わすことはもう二度とない。豚はもちろん、聖香も武田も、松本以外はみんなそうだ。今日は傷の手当てと鍵の確認。あとは万が一に備えて小銭をちょっと稼ぎに来ただけ。それ以外のことはどうだっていい。
「だっておれ今、すっげえ面倒くせえもん。お前の相手してんの」
「あたしは岩倉先生の代わりなのよ!」
女は大人も子供も、しまいにはわけがわからなくなってくる。それにむかついたからといって、男でも年上でもない相手をぶん殴るわけにもいかない。これ以上いい争いをしても疲れるだけだ。
「⋯⋯わかったわかった、んじゃ静かにするよ。それでいんだろ?」
「席へ着きなさい」
羊飼いの命令=教師が生徒にそれをさせるときの口ぶり。
「早くしなさい」
あんた呼ばわり、馬鹿扱いときて、今度は羊にされたおれ。よた者のせがれ、やくなし、うじ虫、ごったく、奴隷。どうして人はおれをなじる? けなす? 馬鹿にする?
「どうしたの? あたしのいってること、わかったんでしょう。早く席へ着きなさいよ」
「⋯⋯指図するな」
低い声でいった。武田のそれには遠くおよばない。
「聞こえないの? あたしは生徒会長──」
「おれに指図すんじゃねえよ!」
目の前の机を蹴り倒し、ひとつ脇の机に引っかけられていた誰かの絵の具箱を豚目がけてぶん投げた。短い悲鳴──クラスの女子のほとんどが同じ声をあげた。豚とそのまわりにいたやつらが背中を丸めて頭を抱える。絵の具箱はおれの狙いとはまるで見当ちがいの方向=黒板の『日直』と書かれているあたりへぶち当たり、中身を派手にばら撒いた。
「ノーコン、退場、ピッチャー交代」
暴投を野次ってくる武田。そのおかげで気分が少し落ち着いた。
「すっぽ抜けた」
「すっぽ抜けすぎだろ、アレじゃ」
絵の具箱の持ち主が恨みがましい目をおれに向けながら、バラバラになったチューブや絵筆を拾いにいく。謝る気にはなれなかった。
「ピッチャーは無理か、おれ」
「ムリムリ。キャッチャーがちゃんと捕れるタマ投げねえと」
あの程度が捕球できないようじゃ、そのキャッチャーも大したことはない。
「職員室行きケッテーだな」
「そんなもんは慣れっこだ」
教壇の脇へ屈みこんで泣いている豚を見ながらいった。保健委員の女子=坂巻寛子がその肩を抱いて慰める──いらぬ世話。タバコでも吸わせてやればとっとと泣きやむ。そう教えてやりたかった。
教室の空気がじっとりしていることに気づく。関係ないやつら=羊どものささやき声が耳にまとわりついてきた。なにをいってるのかまでは聞き取れない。声のひとつひとつは小さいのに、数がまとまるとそれなりにやかましかった。そいつはやがてひとつの言葉になっていき、じわじわとおれに向かってきた。
《謝りなよ》
──ふざけるな。
《謝りなよ、謝りなよ》
──なんでそんなことしなくちゃならねんだよ。
《謝りなよ、謝りなよ、ほら、謝りなよ》
──いいかげんにしろ、てめえら。
おれを取り囲むささやき。誰かれかまわず睨みつけてやった。誰もおれと目を合わせなかった。羊どもの輪唱だけが続く。
「うるせんだよ!」
椅子をつかみあげると呪文のようなささやきはぴたりとやんだ。羊の群れが窓の側と廊下の側とに分かれていく。
豚の正面にラベンダー色の背中を見つけた──安らいでいく心。持ちあげていた椅子を床へ転がし、おれは自分の机の上へまたがった。
また一歩、遠い存在になった聖香。だけどまだ手の届くところにいる聖香。その距離は今夜を境に死ぬまで⋯⋯いや、死んでも会えないそれに変わる。
ぐずりだすみぞおち。眺めるだけならいつだってそうしていられた背中を見える範囲の一番隅に置く──早く懐かしく思えるときがくればいい。念じるように思いながら、おれは藤色でもあやめ色でもない紫を心の奥へと焼きつけた。
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