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《名前#8》
いいに決まっていた。どういう理由であれ、聖香は今おれと話そうとしている。久しぶりに間近で見る聖香の顔=天使の顔立ち。話の中身なんてこの際どうだっていい。
「なんでだよ。いいじゃん、別にボクがいたって話せば」
よくねえよ。いいからどけ──心のなかで文句をがなる。
「お願い、ちょっとでいいから」
「じゃあ、給食のプリンちょうだい」
天使が困った顔をする。なんでだ? そんなものは断ればいい。なんならおれのプリンをやるぞ、聖香。
「だめなの? じゃあいいよ。どかないから」
強気な態度に出る松本。それに対してどこか弱腰な聖香──気に食わない。ふたりの間に流れている妙なふんいきがおれのみぞおちを揺さぶった。
「わかった。あげるから」
サンキュー──甲高い声が耳障りだった。机から跳び降りた松本がラベンダー色の肩をなれなれしい手つきで叩いていく。かちんときた。拳を握りしめた。聖香と目が合った──心がかたまった。
「あのね⋯⋯染川さんがいいたかったのは──」
おれのせいでプリンを失った聖香が案の定の名前を口にする──くそ、松本め。豚め。
「卒業まであと半年も──」
みぞおちが落ち着いていくのと入れ替わりで、今度は心臓の動きが派手になっていった。なに食わぬ顔を作りながら机を降りる。体をいくぶん斜めにして聖香のほうを向いた。おなじみの髪留めに目がいく。
「だからみんなで──」
夏の頃に比べて目の位置が少し高くなっていた──ちょっと大人になった聖香。左手を伸ばせばその髪に、肩に、腕に、今なら触れることができる。その気になれば抱きよせることだって──
「──ったんだよ。ねえ、聞いてる?」
「あ? ああ……」
ラベンダー色の腕が胸の前で組まれる。腕の隙間からのぞく細い指がゆっくりと二の腕を叩きはじめた=聖香のくせ。機嫌が悪くなるに連れて指の動きも速くなる。今はまだ、序の口。
「もう一回いうよ。染──」
「岡崎」
聖香の声にかぶせていった。
「面倒くせえんだよ、そういうの」
背が伸びたな、というセリフを勝手にちがう言葉へすり替えるおれの口。
「女の子にあんな暴力振るっといて、そういういい方ないんじゃないの」
もっと普通に、できれば明るく笑いでもしながら口が利けたらどんなにいいだろう。みぞおちの痛みがぶり返してきた──かまわなかった。今日が終わればもう死ぬまでみぞおちが痛くなることはない。好きなだけ痛くなれ。
「暴力って、別に当たってねえじゃねえか」
「当たってたらもっと大変なことになってるよ」
聖香の目が少しきつくなっていた。リズムを取っている指のスピードもさっきの倍になっている。
「染川さんに謝って」
「冗談いうな」
このまま話していても楽しいおしゃべりにはなりそうもない──思いで作りもここまで。
「ひと言『ごめん』っていってあげてよ。かわいそうじゃない」
「もういい」
「よくないよ」
「いいっていってんだろ、うるせえな」
帽子を取って声を荒らげた。聖香の瞳が揺れる。おれはなにをしているのか。
「⋯⋯みんな怖がってるよ、沢村くんのこと」
なんてひどい顔してるの、この人。表情から読み取れた聖香の心のなか=瞳が揺れた理由。
「どうでもいいわ、そんなの。好かれようなんて思ってねえから」
──お前以外には。
「どうして?」
「なめられて馬鹿にされるぐらいなら、ビビっといてもらったほうがこっちとしてもありがたい。まあ、こんな化けものみたいな顔してりゃ、誰だって怖がるけどな」
「ちがうよ」
「ちがわない。聖香だって今そう思っただろう」
「そういう意味でいったんじゃ⋯⋯ないよ」
天使の顔が下を向く──図星。
「⋯⋯ごめんね」
発作がおさまりかけてきた豚を、坂巻ともうひとりの女が教室の外へ運びだしていった──肉になる前の家畜。一刻も早くパックに詰めてもらえ。豚肉は前扉を出てからも、泣き腫らした赤い目でおれを睨んできていた。
「なに謝ってんだよ」
「気分悪くさせたから⋯⋯」
目の前のくちびるが動くたびに、いちいちそこへ吸いよせられるおれの目玉。キスしたときのことが頭に浮かぶ。夏草の青いにおいまでもがよみがえってきた。聖香はもう忘れちまっただろうか。ほかのやつらは知らない、ふたりだけの秘密を。
「あと⋯⋯」
困り顔の天使の目がまっすぐおれに向く。
「人前で名前呼ばないで。お願い」
釘を刺された。
「あ、いや、悪りい⋯⋯」
二学期のはじめにもそのことはいわれていた――聖香のルール。忘れていたわけじゃない。気をつけてもいた。が、つい口が滑った。いったいどこで――いや、だけどそれぐらい……聖香を聖香と呼んだって別にいいだろう――みぞおちがぐちをこぼす。
〝沢村! 六年二組、沢村怜二! 大至急、職員室!〟
佐東のがなり声だった。わざわざおれを指差して笑う松本と武田──目障り、耳障り。
「呼びだされちゃったね」
あんなものはどうだってよかった。それよりもおれは今、聖香の言葉にノックアウトされている。
「あの、くそ豚女」
気をまぎらわすためにいった。
「岩倉先生じゃないから、そういうこというと叩かれるよ」
聖香を名前で呼ぶ──そいつが許されるのは聖香に一番近い男だけ。夏休みのはじめまでおれはその位置にいた。今はそうじゃない。岡崎聖香を下半分で呼び捨てできるかどうかにはそういう意味があった。
「豚は豚だ。ほかにいいようがない」
「もう」
予鈴がぶち鳴らされる。話の中身はともかく、こうして聖香と話せたことは旅の前のいい記念になった。
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