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《名前#9》
「肝心なこと話せなかったから、後で⋯⋯昼休み、いい?」
肝心なこと──おれが期待するような話じゃないのはわかっている。それでも聖香とおしゃべりができるなら──思いでを増やせるなら、おれはどこへでも行く。ただ、昼休みはちょっと都合が悪い。
「放課後じゃだめか?」
「今日、公文あるから⋯⋯」
「じゃあ、いいわ。どうせ豚のことだろ」
「またそういうこという」
聖香のくちびるがすぼむ。そいつを見つめそうになるおれ。慌てて顔を背けたが目玉だけはいうことを聞かなかった。みぞおちがもう勘弁してくれと悲鳴をあげる。
「次、移動教室だから行くね。沢村くんも早く佐東先生のところへ行ったほうがいいよ」
「昼休みは無理だぞ」
聖香が身をひるがえす。ラベンダーの背中へ伸びそうになる手を握り拳にして、自分のみぞおちを小突いた。
「いいよ、放課後ね」
それだけいうと聖香は教室を出ていった。代わりに武田たちが近づいてくる。
「いいフンイキだったじゃねえか。なあ、松本」
垂れ目を垂れに垂らした武田が、わけのわからない片足ダンスのサービスつきで冷やかしてくる。松本は武田の問いに返事をしなかった。
「百倍に拡大したミジンコみてえだな」
「ツイ、ストって、いえよ、ツイ、ストって」
世良公則とふとがね金太の顔が頭に浮かぶ。
「そんな名前のがいるのか、ミジンコに」
「オメエ、ロックン、ロール、なめてん、だろ」
息を弾ませながら文句を返してくるミジンコ。横浜銀蝿を見て勉強しろともいってきた。
「けどよかったじゃねえか、仲なおりできて」
ミジンコから人間に戻った武田のちゃかし。
「そんなんじゃねえよ。話の中身は豚の文句ばっかだ」
「そいつでうめえことホーカゴのデートに持ちこんだんだろうが。ナニいってやがる」
おれのために聖香がなにかをサボるなんて、いったいどれぐらいぶりだろう。嬉しい気持ちに寂しい気持ちが、その上にじんとこみあげてくるような思いが重なっていく。こういうのをほろ苦い気分というのかもしれない。がなり声がまた聞こえた。
「佐東先生、めちゃんこ怒ってんじゃん。どうすんの?」
「あんなもの、勝手に怒らしときゃいい」
豚をかまったおかげで聖香と口が利けた。久しぶりに。そして最後に──いや、最後は放課後か。いずれにしろ、それを思えば佐東の説教ぐらいなんてことはない。
「ま、記念にバッチシ絞られてこい」
「なんの記念だよ」
「そんなの人生バラ色記念に決まってんだろ。気合入れてけよ、気合」
手に教科書やらノートやら筆箱やらを持った松本と、そういうものを一切持っていく気がない武田が揃って前扉を出ていった。
「まあ、バラ色っていえばバラ色か」
誰もいなくなった教室。五日前から手首に食いこんでいる髪留めを外し、人差し指でそいつをまわした。馬鹿みたいに。あほみたいに。くるくる、くるくる、くるくる。
放課後、会えなくなることを聖香にいおう。意味なんか通じなくてもかまわない。とにかくちゃんと、さよならだ。
三度めのがなり声が聞こえた。どうでもよかった。ぶっ叩くでもなんでも好きにすればいい。おれの人生はもう決まっている。檻にでもぶちこまれない限り、バラ色のそいつが変わることはない。
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