第三逃 色メガネ

12/19
前へ
/375ページ
次へ
《女スパイ#1》  午後の授業は教頭がやるといっていた。最後の記念に出ておこうか──そんな気持ちも二ミリぐらいはあったが、かったるい気分を負かすまでにはならなかった。ついでにいうと教頭(やつ)のえらそうな態度もおれは好きじゃない。  放課後までサボることを決めたおれはランドセルを置きに一旦教室へ戻り、それから保健室へ向かった。渡り廊下を使って体育館の脇を行く。こうすると職員室の前を通らずに済んだ。佐東や教頭とばったりというのは具合が悪い。  保健室が見えてきた。手前の水飲み場で口をゆすぎ、ペンギンガムを一枚噛む──涼しくなる舌。今じゃ、やみつきの感覚だ。  扉を開けると先客がいた。口を利いたことはないが顔はわかる。肝心の保健医はいなかった。 「ちゃお」  ベッドの上で本を読んでいた女が聞き覚えのない言葉を、これまた聞き覚えのない声でしゃべってくる。無視をしていると今度はおれの苗字を口にしてきた。 「顔色変だね。具合悪そう。寝る?」  顔色がおかしいのは体調のせいじゃない。と、ここでそれを説明してもはじまらない。おれは帽子を深くかぶりなおし、はじめて口を利く相手にどうでもいいことを聞いた。 「相馬(そうま)は?」 「さっき出てったよ」  誰もいない保健室で友だちの彼女とふたりきりになるわけにはいかない。じゃあ、後にするわ――そういっておれはまわれ右をした。 「二時間目休みのとき、職員室に呼ばれてたね」  児島がおれの背中にしゃべりかけてくる。後ろ向きで答えるのも変だと思い、もう一度まわれ右をした。 「佐東にさんざん小言をいわれた。担任でもないくせに、あの野郎」  佐東は一組=児島たちのクラスの担任。やつはおれを職員室へ呼びだした後、げんこつで二回、出席簿で四回この頭をぶっ叩き、それ以外のときはストップウォッチをカチカチやりながら、三時間目の間中(あいだじゅう)、豚とは関係のない文句をこの耳に垂れ流してきた。  親御さんがなくたって立派になった人はたくさんいる──そりゃいるだろう。  お祖母(ばあ)さんにしっかり感謝しろ。お前の面倒をちゃんとみてくれてるんだから──奴隷としてな。  よそはよそ。お前はお前だ。自分が他人とちがうからって卑屈になる必要なんかないんだぞ──勝手に決めつけんじゃねえよ。  佐東は(*012)八気取りだった。思いついたことをとんちんかん(・・・・・・)にしゃべり、自分だけいい気になっている馬鹿教師だ。そういうとち狂ったことはミミズや赤ん坊のくそを食ってからいえ。しまいには体育館の裏から出てきたタバコの吸いがらまでおれのせいにされかけた。 「わあ、どの先生も呼び捨てなんだ。評判悪いだけあるね」  なんだこの女。おれにケンカを売ってるのか。軽く睨みつけると児島はかけ布団をずりあげ、そいつで目の下までを隠した。 「ねえ」  くぐもった声で話しかけてくる児島。アーモンド型のつやつやした目玉がおれに向いている。 「なんだ」  なんでガム噛んでるの?──くせみたいなもんだ。  やっぱり不良だから?──だから、くせみたいなもんだっていってるだろう。食うか?  それ食べたらわたしも不良かな──そう思うんならやめとけよ。 「ちょうだい」  両腕が突きだされてくるのと同時に、かけ布団がずり落ちる──こぢんまりとした顔。下半身にかけ布団を乗っけたまま児島が体を伸ばしてくる。シャツの襟もとへ自然と目がいった。首のつけ根より下の肌が丸見えになっている。おれは目のやり場を女子どもの誰もがやっている松田(まつだ)聖子(せいこ)の髪型に固定し、胸まわりがやばいことになっていると本人に教えた。 「いいの。おっぱいちっちゃいから」  そういう問題じゃない──武田の顔がちらついた。 「ちゃんと隠せよ」  児島に身だしなみを注意してからガムを渡し、クレゾールやイソジンが並べてある棚へと近づく──ガラス戸に映りこむ顔色最悪のろくでなし。心のなかでは顔のない化けものが武田の怒った顔を真似ていた──リーゼント以外はまるでへのへのもへじ。 「武田くんがね」  意味もなく跳ねあがる心臓。いや、意味がないことはない。()けかけたガラス戸をなぜか閉めたおれは、そこに映っている反対向きのベッドと児島を見た。 「これをね」  ベッドのほうへまわれ──左。枕の脇へたたんであったGジャンのポケットに児島が手を突っこんでいる。 「くれたの。蝿とか蚊は嫌いっていったら」  紙きれのようなものをひらつかせて児島がいう。 「はえとかか?」 「横浜の」  横浜のはえとかか=蝿とか蚊=横浜銀蝿=コンサートの話から竹の子族。そこから児島の誕生日が来週だとかいう話を思いだした。
/375ページ

最初のコメントを投稿しよう!

13人が本棚に入れています
本棚に追加