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《女スパイ#4》
後で追加の絆創膏をもらうことを考え、ここは素直に従っておいた。新しいガムの外包みに口のなかのそれを吐き、視力検査表の前にあるごみ箱へ投げ入れる──口を真一文字にした児島と目が合った。頬も顎もマネキンみたいにかたまっている。
相馬先生──扉の開く音と同時に聞こえてきた声。
「⋯⋯あ、今まずいですね」
わずか三秒かそこらで閉められた扉。相馬はそいつ=六年三組の担任の顔を見ようともしなかった。
「なんか用だったんじゃないのか、渡辺」
「いいのよ」
そっけない態度。教師を呼び捨てにしたのに怒りもしない。いってもわからないガキになにをいっても無駄だと気づいたのか。まあ、それならそれでこっちも気が楽だ。おれは鏡の前から、かけ布団の下で足をぱたぱたやっているマネキンの近くへ移動をした。
「ガムどうした」
小声で聞く──飲んじゃった。ささやきで返されてきた答え。見せてみろともいっていないのに口を開けて舌を動かす児島。おれは歯医者じゃない。
「いちゃつかないの。みんな勉強してるのよ」
この場合の『いちゃつく、つかない』は千葉でも通じる意味のそれ。そんなことはしていないと強めに反発したが、相馬は赤い急須にお茶っ葉を放りこむほうが大事だといわんばかりにおれを無視した。
「美滝小へ移ってくる前はたしか⋯⋯長野市の小学校へ通ってたのよね、沢村は」
無視から問いへ──頷いた。
「そいつがどうかしたのかよ」
相馬はおれを呼び捨てにする。ほかの生徒にもそうなのか知らないが、児島には『さん』をつけていた。女子にだけそうしているなら、それは差別だった。
「私も三年前までそっちにいたのよ。中学校だけどね。長野は詳しい?」
「だいたいわかる。運動公園や権堂なんかへはよく行った」
「街中ね。それじゃ柳原なんて知らないかしら」
知らないもなにもない。須坂へ来る前、おれはそこにいた。
「転校しなきゃ、そこの中学へ行くことになってたと思う」
「あら。それじゃあなた、中俣か朝霧?」
ベッドの脇=児島の、見えていない足もと近くにある丸椅子へ腰かけながら、はじめに出てきたほうの小学校をいった。
「そう。私の家、村山よ」
その町は千曲川を挟んで須坂市と長野市の両方にまたがってある。どっちなのか聞こうとしたときに、体育で使う笛と悲鳴を混ぜたような音が、行儀の悪いガキどもみたいな勢いで耳に飛びこんできた。両手を耳へ当てる児島とおれ。相馬が窓辺の隅へ駆けていく。ふざけた音は二秒でしょぼくれていった。
「──あればいいのにね」
耳をふさいでいたせいで話の前半が聞き取れなかった。
「なにがあればいいって?」
「クラス替え」
児島がおれの脇までずれてきて小声でいう。話が微妙にぶっ飛ばされた気がしたが、それにはもう慣れている。宙をさまよっているときとはまるでちがう、強い光を持ったアーモンドの目がおれの答えを待っていた。
「そうだな」
千葉では二年に一度クラス替えがあったが、長野にはそれがなかった。入学してクラスが決まったら最後、途中で転校でもしない限り、同じ顔ぶれと同じ教室の空気を六年間吸いあって過ごさなきゃならない。だから美滝小のやつらも中俣小のやつらも、クラスメイトのことは気持ち悪いほどよく知っている──といってもまあ、北沢の弱虫についちゃ誰もあまり知らないみたいだが。
「武田と同じクラスになれてたかもしれねえしな。まあ、うるせえ担任の声が一番聞きたくねえか」
児島に関係するところを適当にくっつけて返してやる。湯飲みに茶を注ぐ音がやたらと耳についた。この学校には今、おれと児島と相馬しかいないんじゃないかと思えるぐらい、午後の保健室は静かだった。
「沢村くん、一組へ転校してくればよかったのに。不良の子、ひとりもいないから楽しいよ」
不良がひとりもいないんじゃ、かえって目立つ。それに聖香が同じクラスじゃなければ、おれはたぶん学校へ来ていない。
「だって二組は不良ばっかり。三組はわかんないけど。武田くんのこともほんとはあんまりわかんない。それにね──」
つかみづらい話を、小声とは呼べない声でしゃべり続ける児島。話していることの半分は意味がわからなかった。
相馬が特別サービスだといって、梅だか桜だかの絵が描かれた湯飲みをよこしてきた。たかが色つきのお湯ぐらいでなにが特別だ。
「こんなのより絆創膏くれよ」
「あげたでしょう。それだってタダじゃないのよ」
相馬の人差し指がおれの右手に握られている、一枚ぽっちのタダじゃないものに向く。
「全然足りねえよ」
帽子を取り、傷や痣を見せつけるようにしてアピールしてやった。
「だいたいそのケガ、ほんとに川原でやったの?」
アピール失敗──帽子をもとへ。
「あそこの石はカッチカチで手ごわいんだよ」
「なによそれ」
相馬は笑うきりで、一枚も追加をよこしてこなかった。メガネをかけているやつがどけちだという松本の言葉はかなり信用できる。
「まあいいわ。それ飲んだら教室へ戻りなさい。児島さんもね」
湯飲みに顔を近づけた。酸っぱいにおいがする。すぐにゲロまみれのあいつらを思いだした。覚悟を決めて湯飲みのふちに口をつける。茶碗を傾げる。なかの液体をおそるおそる、すする=思ったとおりの味。
「おいしいでしょ。体にもすごくいいのよ」
昆布茶と健康についての話がはじまった。中身がいくらも減っていない茶碗は空いている椅子の上へしらばっくれておいた。
「相馬先生」
「なにかしら」
ピントのずれた質問を児島が相馬にぶつける。おれは相馬の顔がこっちに向いたときだけ頷き、それ以外は今夜のこと=特に札束を手にしてからのことを考えていた。
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