第三逃 色メガネ

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《女スパイ#5》  金があればなにができる?──ガキのおれでも大人のように生きられる。  大人のように生きてどうしたい?──やりたいことをやる。  やりたいこと? それはなんだ?──わからない。ただ、奴隷の暮らしはもうたくさんだ。  そんなに奴隷はいやか?──当たり前だ。そんなもの好きなやつがどこにいる。  ふと我に返る。おれは誰としゃべっているのか──顔なし女(あいつ)か。目をつぶり、心のなかをのぞきこむ。 〈なんかようか〉  化けものは札束を積み木代わりにして不気味なものを作っていた。そいつがなんなのかを聞く。 〈いもむし。おまえにそっくり〉  相変わらずふざけたことしかいわない化けもの。ぶっ飛ばせる手段がなにもないことにいらつく。 ──さっきのはお前か。 〈しらない〉 ──じゃあ誰だ。 〈いもむし〉  話にならなかった。 「寝てるのかしら」  耳もとでいきなり声がした。目の高さもがつん(・・・)と低くなる。 「ちっとも聞いてないわね、私の話」  床から立ちあがり、ぶっ倒した丸椅子をつかんで起こす。尾てい骨が少しだけしびれていた。 「聞いてたし、寝てもいねえよ」 「そう。じゃあ昆布茶が体にいい理由、いってみて」 「はい、先生。昆布茶はカルシウムなどのミネラルをたくさん──」 「あなたに聞いてるんじゃないのよ、児島さん」  壁の時計を見た──二時十五分。五時間目は二時何分までだったか。 「ほら、答えて」 「だからあれだろ。酸っぱさが体にいいとか、そういうことだろ」 「『全然聞いてませんでした』っていってるようなものね。なに考えてたの?」 「なんでもいいだろ。授業じゃねんだから」  相馬が目を閉じて口をすぼめる。 「なんか、生まれたばかりのカマキリ見てるみたいだわ」  どうせいい意味じゃないに決まっているたとえ──舌打ちだけした。 「気にいらない?」 「うるせえな」 「うるせえな、か。そんな言葉づかい、柳原中でもされたことないわ」  下を向いて笑う相馬──弱々しい笑い。どういう意味でそうしてるのかはわからないが、見ていてなんとなくいやな気分になった。 「まあ、そういう年頃なのかしらね」 「ガキ扱いかよ」 「ほらまたそうやって」  相馬が顔をあげる。レンズの向こうの目がこっちをまっすぐに見つめてくる。反射的に睨み返した。大人と目が合うと、おれはどうしてもそうなる。 「怖い目ね。怒ったの?」 「別に」 「もっとやさしい目をしたらどうかしら」 「生まれつきこういう目なんだよ。今さらどうにかできるもんじゃない」 「今さらって、あなたまだ小学生よ」 「まだ(・・)ってなんだよ、まだって。結局ガキ扱いしてんじゃねえか」  相馬の口が開きかけて閉じた。口争いはおれの勝ち。 「⋯⋯そうね。今のは私のいい方が悪かったわ。ごめんなさい」 「別に謝んなくたってい──」  相馬が──大人の相馬がおれに頭を下げだした。いったいなんの真似だ。児島の顔を見る──まん丸の目玉。おれのそれもたぶん、同じ。首の向きを戻す。目の前のつむじを見ているほかに、なにをすればいいのかわからなかった。 「急になんだよ」 「なんだよって、謝ったのよ。見ればわかるでしょ」  頭をあげながら相馬がいう。 「謝るだけじゃ足りないかしら」 「⋯⋯いや、そんなことねえけど、だからってそんな、子供に頭なんか下げんなよ」 「どうして。悪いと思ったら謝るのは当然でしょう。相手が子供だから謝らなくていいなんて道理はないわ」  相馬は変わっている。大人は普通、子供に頭なんか下げない。少なくともおれはそんな大人を見た覚えがない。今の話がそのとおりなのはわかるが、ほとんどの大人は子供に対していばっている。だから謝らない。それだけならまだしも、場合によっちゃことの責任をこっちへなすりつけてくるまである。 「いいよ、もう。なんか調子狂うわ、そういうの」 「許してもらえたのかしら」  顎で頷く。かなりぎこちない動きでそうしたのが自分でもわかった。 「そう。じゃあ、さっきの続き──」  相馬の態度から今までの申しわけなさが消し飛ぶ。 「ああいうもの言い、わざわざ自分を弱く見せてるようなものよ」 「モノ⋯⋯なんだって?」 「も、の、い、い。すぐ人に食ってかかる沢村の悪いくせのこと」  別に──なにかいい返しそうになるのを顎に力を入れて堪えた。へたなことをいってまた謝られても敵わない。少し間を置いてから、どうしてそれが自分を弱く見せてることになるのか、なるべく角が立たない言葉を選んで聞いてみた。 「ことわざにもあるでしょう。弱い犬ほど──」 「もらいが少ない」  それは犬じゃないと笑われた。児島までけらけらやっている。正解を聞いてそっちだったか、と思った。が、そんなことは大きなお世話だ。 「先生、先生」 「ちょっと待って⋯⋯」  目とメガネの間を魚の柄のハンカチでこする相馬。食ってかかりたい気分が復活してくる。だいたい、そこまでいわれるほどぼろかすに弱いわけじゃない。静恵やハツをぶちのめすぐらいなら朝飯前だ。 「⋯⋯なに、かしら」  ハンカチを白衣のどこかへしまった相馬が児島に聞く。
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