第三逃 色メガネ

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第三逃 色メガネ

《名前#1》  三十三=夜中に数えた傷の数。松本に噛みつかれたところを除けば三十二。金曜の晩から十一個増えた計算。  おれは登校してきたその足で保健室へ行き、昨夜(ゆうべ)とその前の傷を自分で勝手に手当てした。そのとき保健医に適当ないいわけをして、せんべい布団とはまるでちがう寝心地のベッドへ寝かせてももらった。 「堂々とサボりやがって」  垂れ目の不良がしゃべりかけてくる。 「サボってなんかねえよ。ちゃんと保健室にいた」  黒板を見る──チョークの腹で書かれた自習の文字。本鈴と同時にやってきた教頭が書いていったものらしい。 「それ、サボり以外になんていうんだよ」  本当ならこの時間=二時間目は担任の岩倉が算数をやっているはずだったが、市内の中学校へ通う自分の娘が授業中に倒れただかなんだかで、今はそっちへ向かっているという話をそのへんの女子から聞いた。おれと岩倉はちょうどすれちがい、というかたちだ。 「だけど、ひでえ顔だな」  帽子で隠しているこっちの顔をわざわざのぞきこんできていう武田。 「見んじゃねえよ、いちいち」  おとといかっぱらってきた整髪料=MG5ふたつをランドセルから取りだし、全然小学生っぽくない格好=革ジャンにリーゼントで決めている武田の腹へ押しつける。 「いいから早く、金くれ」  武田が革ジャンのポケットへ手を突っこむ。引っぱりだされてきたのは伊藤博文。 「釣りはいらねえぜ」  手渡されたそいつを四つ折りにして、とっととGパンのポケットへしまう。 「そんなものはじめっから用意してねえよ」  武田んちはとんでもない金持ちだ。だからなにか欲しければ店へ買いにいけば済む。そうしないのはおれに金がないことをこいつがよく知っているからだった。 「ヤクザか暴走族(ぞく)にでもぶっ飛ばされなきゃ、そんな顔になんねえだろ」  冗談とも本気ともつかない顔で武田がいう。おれはほかのやつらからの注文品がまだどっさり入っているランドセルを自分のかばん置き場へ放りこんだ。 「言葉が通じるだけ、そっちのほうがマシかもな」  デブと静恵にやられたところを狙い打ちしてきた老いぼれ。やくざ者のせがれ、うすらごむせ(薄汚い)血ぃの流れている体、ごろつき、ちんぴら、ごくつぶし。おらうちの娘を(うちの娘を)てめの親父ぁ(お前の親父は)ぼろっぼろにしゃあがった(ぼろぼろにしやがった)。この()み子め!──今夜の計画が頭になければ、おれは昨夜まちがいなくハツを殺していた。 「じゃあなんだ、ガイジンかよ?」  武田がかばん置き場の縁に手をかけ、その上へ跳び乗る。 「そんなようなもんだ」 「もしかしてぶっかけババアか?」 「どうしてそういう話になんだよ」  ぶっかけばばあ=校門を出て坂を下っていった先にある駄菓子屋『くじゃく屋』の婆さん。ばばあといってもハツほど老いぼれちゃいない。なんにも買わずに店の前でたむろしていると、バケツに満ぱんの水を容赦なくぶちまけてくる、それぐらい元気なくそばばあ。武田はこないだ革ジャンをびしゃびしゃにされたうえに、ひしゃくで頭までぶっ叩かれていた。 「あのババア、年よりのくせしてアメリカ語しゃべるって話だぜ」  そんな話は聞いたことがなかった。 「よくわかんねえけどよ。アニキたちがいうには昔ニッポンじゃねえとこに住んでたって話だ。そんときの仲間じゃねえか?」  鬼のようにとんちんかんな話。武田はこのやられっぷりを本当にぶっかっけ仲間=外人相手のそれだと思っているんだろうか。まあ、それならそれでかまわない。根掘り葉掘り聞いてこられるよりはマシだ。  おれはその場から後ろへ跳び、武田と同じ場所へ腰をかけた──教室を見渡せる高さ。まじめに教科書を読んだり、ノートを広げたりしているのが七、八人。それ以外は好き勝手にやっている。  男どもの大半は三日前の日本シリーズ=八年ぶりに優勝を決めた巨人(ジャイアンツ)の話で盛りあがっていた。松本もその騒ぎのなかにいる。おれは壁に貼りつけられた写生大会の絵の色が背中へ移らないように、脇へ積み重ねてあった画板で間を仕切った。
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