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第四逃 みぞおち
《結論#1》
佐東に怒鳴られ、校長のハゲに絞られ、めったに怒らない担任=いつの間にか戻っていた岩倉にまでお目玉を食らった。
説教もそろそろ終わりかと思っていたところへ、今度は保護者どもが登場してきた。蝿野郎の両親。それにハツ=最悪の顔ぶれ。生徒相談室の空気が一気に重たくなった。
十分が過ぎ、二十分が過ぎる。蝿野郎の父親はなかなか話のわかる男だったが、母親のほうは馬鹿だった。キンキン声で喚き散らしたあげく、帰り際におれの横っ面を引っぱたいてきやがった。次に会うことがあれば息子ともども血祭りにあげてやるところだが、あいにくとそれはできない。運のいい母子だ。
「困るのは沢村、お前自身なんだぞ」
どっかから持ってきた文句をそのまんま口にしている岩倉。だが、悔しいことにそれは当たっていた。おれの未来は今、ヘンタイのせいで台なしになりかけている──予定になかったハプニング。いや、トラブルか。とにかく、今夜の計画に影響が出ない方法を特急で考える必要があった。
「おらうちの孫ぁまあずごったくで」
他人の前じゃいい祖母さんぶりを発揮するハツ。なにが孫だ。頭のなかじゃ、ひと足先におれを──奴隷のおれをぶちのめしてるくせに。
「いえいえ、沢⋯⋯安西さん。今回のことは怜二くんひとりが悪いわけじゃ──」
「ほれ、先生にちゃんと謝れ」
話をさえぎるハツ。岩倉もいってることが少しおかしかったが、人の話なんか聞きやしないやつらに盾をついてもはじまらない。今は特にそうだ。
「謝んねかっ! この⋯⋯」
言葉の尻がうやむやになるしゃがれ声。忌み子、うじ虫、やくなし、ごくつぶし。さすがに教師どもの前じゃいつもの決めゼリフは使えない。老いぼれがやくざのような顔つきでおれを睨みつけてくる。その後ろ=扉ガラスに輪郭のはっきりしない人影が浮かびあがった。
「そしたら今日のところはこれで」
開けた扉から体を半分だけ生徒相談室へ突っこんできた佐東がいった。岩倉がハツに小声でなにかをいう。それに対して頷き、頭を下げるハツ。目玉だけを動かして岩倉の腕時計を盗み見た──銀の針が四と十を指している。頭をあげたハツがおれの後頭部を小突き、自分が岩倉にしたのと同じことを無理やりにさせてきた=裁判の終了。佐東から馬鹿みたいに重たいランドセルを手渡された。
両脇を岩倉とハツに、前を佐東、後ろを渡辺に挟まれての移動。札束が眠る事務室の脇を過ぎ、昇降口のほうへと歩かされた。
廊下には生徒どもがまだうじゃうじゃいた。掲示板になにか貼りつけていた新聞委員どもがその手を休めてこっちに顔を向けてくる。見てんじゃねえよ──目でいった。ほかの顔ぶれは戸締まり週番にクラブのやつら。それから──そのどれでもないやつら。つまり、野次馬。知った顔はない。週番のメンバーのなかには松本がいた。こっちに気づいちゃいたが、ちゃかしてくるような真似はしてこない。それよりも鍵のチェックのほうに神経が向いている様子──いいことだった。
野次馬のなかにひとつだけ覚えのある顔を見つけた──給食室のあたり。泣き顔がよく似合っている。そいつが聖香なら少しは気分もよくなるところだが、その何倍もでかい北沢じゃ慰めにもならない。おれは自分じゃ痛くもかゆくもないくせに涙が出せる男を、不思議に思う前に馬鹿なんじゃないかと思いはじめていた。
「ほら、邪魔だ。早く帰れ」
佐東ががなる。どやされたガキどもが廊下の壁にへばりつく。おれは馬鹿かもしれない男に向かって笑ってやった。泣き顔は不思議がる顔を挟んで普通になり、それから笑顔になった。調子に乗って片目もつぶってやる。見たこともないへたくそなウインクが返ってきた。
「お前には反省の心ってものがないのか⋯⋯」
岩倉がぼそっという。そうだった。今は台なしになりかけている未来をなんとかしなきゃいけないときだった。どうするか。逃げたほうがいいのか。このままいけばおれはたぶん、担任か誰かの車で地獄屋敷へ送られる。トンズラをかますなら今じゃないのか──でもどうやって?
ガードが甘そうなのは後ろだが、逃げ道を考えたら前⋯⋯いや、待て。逃げれば当たり前に追われる。仮に逃げきったとしても、今度は探される。そうなれば今夜の計画にますます影響してくる。ここは一旦おとなしくしておいて、逃げるのはハツとふたりだけのときにしたほうがいろんな意味で利口だ。
考えを決めたおれは大人どもの足並みに合わせて歩いた。しょげたふりに悲しいふりを足し、反省用の顔をでっちあげる──どうだ、児島。これが本当のカメレオンだ。
誰にもわからないようにおれの脇腹をつねってくる指=明治の昔から生き延びてきたろくでもないそれにむかついた。うっぷんが溜まった。痛みを無視して歩く──頭のなかで開かれる緊急委員会。老いぼれをぶち殺したくてうずうずしているおれが、そいつをためらうおれを説得する。痛みが増す。無視を続ける。賛成派の声がでかくなる。これでもかとつねりあげてくる節くれ立った指──屁でもない。おれはそっぽを向く。そうしている間にも続けられるおれとおれとの話しあい。
痛みがふいに消えた。カメレオンをやめて顔をあげる──職員用の下駄箱へと向かう佐東以外の大人ども。
「ほら、外履きに履き替えろ」
頭のなかに歓声が湧き起こる。多数決の結果に拍手が贈られる。立ち止まるおれの背中を馬鹿教師が突き飛ばすようにして押してきた。
「先生はこの後も忙しいんだ! 早くせんか、こら」
結論──口をふさげ。なんなら息の根も止めろ。今までとはちがう決定に文句をいってくるやつは誰もいなかった。
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