第三章 ピエロ

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第三章 ピエロ

*  少女の背後から忍び寄る。 (ドックン、ドックン……)  鼓動が胸の中で鳴り響く。  汚れを知らないこの少女を、このナイフで突き刺したらどうなるだろう……。  この真っ白なシャツを真紅の血液で汚したい。  苦痛に歪む顔……断末魔の悲鳴が聞きたい。  そして、そんな少女をさらに汚す……。  少女に近づくにつれて……悪しき考えが沸々と湧き上がるにつれて、僕は変化する。  自分でも分からない……何か、得体の知れないものに。  黒く、汚く、醜い……。  そんな自分が、この美しい少女を傷つけ、汚す。  涙を流し、命を乞う瞳で僕を見つめる……しかし、赦さない。  溢れ出る血で彼女をひたすらに汚し、汚れのない肉体を、僕のこの醜い肉体で汚す……。  考えるだけでむず痒いほどの快感が僕の全身を駆け巡る。  ナイフの刃の先が、少女の背に触れる。  少女は訝しげな顔をして振り返る……その瞬間! 『ガシャン!』  僕の前に鉄格子が現れた。 (何だ、これは……?)  鉄格子の向こうはさっきまでとは異なり……僕の前には屈託のない笑顔を浮かべたピエロがいた。 「ひっ……」  僕の全身に鳥肌が立つとともに、言い様のない恐怖が走る。背筋が凍るほどに冷たくなった。  独りでに後ずさる僕を見つめて、ピエロが不穏な笑みを浮かべる。 (嫌だ……怖い、怖い)  僕は逃げようとするが……ここは鉄格子の檻の中。どこにも逃げ場がない。  鉄格子の向こうの不気味な笑顔は、微塵も崩れずにニタァと僕を見つめる。 (嫌だ、嫌だ! 僕はピエロが怖い……怖いんだぁ!) * 「うわぁあ!」  僕は叫び声とともに飛び起きた。寝汗をぐっしょりとかいている。 「夢……?」  最悪の悪夢……しかし、それはやけに鮮明で。  振り返った少女の訝しげな顔、キラリと光るナイフの刃、そして、不穏な笑みを崩さないピエロ……。  それらが、僕の頭の中を占拠して離れなかった。  あのまま、ピエロが現れなかったら……きっと、僕は少女を刺していた。  動機は何もない。  恨みなんてないし、夢の中のその少女は知り合いでもない。  ただ、美しい少女が血に汚れるのを……痛みと苦しみに顔を歪めるのを見たい。想像しただけで、言い様のないエクスタシィが走る。  これは飽くまで夢の中の話であり、現実とは無関係なのだが……たとえ夢の中であっても、少女のそんな姿に恐らくは快楽を覚えてしまっていた自分自身に対して、背筋が凍りつくような恐怖を感じた。  しかし、僕の中では、その感情……美しいものを汚すこと、そしてそれを歪に歪めることに対する至上の快感は、物心のついた時から絶対的なものだった。  自分の今までの歪な感情を思い出す。  小学生の頃、クラスメイトの美しい少女が教師に酷く叱られて顔を歪めて泣いているのを見て、この上ない興奮と快感を覚えた。  テレビで美しい女性が残虐に殺されるシーンを見て、訳の分からない興奮を感じた。  飼育していた熱帯魚の水槽から、最も美しいと思ったものを掬い上げて暫く放置し、水槽に戻すことを繰り返して徐々に弱らせ、言い様のない快感を味わっていた……。  それらのことを思い出すと、自分は、あの殺傷事件の犯人……少女達に残虐なことをした上、強姦して性的なエクスタシィを味わった人種と同一なのではないかと、自分の中に潜む醜い『魔物』が恐ろしくて堪らなくなった。  しかし、今日もいつも通りの日常……いつも通りに通学し、学校で『面白いいじめられ役』を演じる、そんな日常が始まる。ピエロが、自分の中の醜い『魔物』を檻に閉じ込め、封印するのが分かった。  今日もいつもと変わらず、満員電車に乗り込む。  ぞろぞろと行列をなして、まるで意志を持たない人形のように。  意志をもたないかのような彼ら……そう。  僕には分かる。  みんな、頭の中は空っぽだ。空っぽになって、ただ、いつも通りの日常……ひたすら演技をするだけの舞台へ向かう。  その舞台が、学校の教室か、職場の事務所か……今、この電車に乗っている者達にアイデンティティをつけるとすれば、ただ、それだけの違いなのだ。  誰もが、その舞台では自分の本性を隠している。  誰もが、仮面を被っている……。  虚ろに泳がせる僕の目が、手摺につかまる一人の少女を捉えた。  透き通るような白い肌をした美少女……恐らく、年齢は十歳くらい。小学五年生くらいだろう。  彼女もまた、空っぽ……。  いや、違う。  手摺を掴む手をギュッと握り、眉間と目尻に皺を寄せ……苦痛に顔を歪めているかに見えた。 (どうしたんだろう?  何が、彼女をそんな表情にさせているのだろう?)  ほどなく僕は気がついた。  小学生の少女のスカート……腰のあたりに触れている手。こんな年端もいかない少女を汚している奴がいる。  その手は、少女が悲鳴を上げずにただ堪えているのを良いことに、容赦なく彼女のスカートを捲り上げ、胸をまさぐり、そして、手の主は耳に口を近づけた。少女はぐっと目を瞑り、その口から逃れようとする。  しかし、その手は決して少女を離さない……。  その時だった。  少女の耳に口を近付けるそいつと目が合った。  僕と目が合ったそいつは、途端に怖気付いたかのように、目を伏せた。 (僕、こいつ……知っている)  何故だか、分からない。  クラスメイトなのかどうかすら、分からない。  でも……何故か、知っているのだ。  この、怯えた顔。  小心者のくせに、びくびくとしているくせに、理性での抑制が効かない、こいつ……。 「なぁ……絶対に、誰にも言わないでくれよな」  下車後、そいつが僕に縋るように言ってきた。 「言わないよ。僕にはそんなこと言う奴のあてはないし、それに……」 (君は僕の欲望、そのままのことをやってくれたから)  その言葉を飲み込んだ。  そう……こいつのやったことは、僕がやりたいと思っていても、どうしてもできなかったことだ。  美しいものを壊したい……汚したい。  その感情は、物心ついた時から僕の内面を支配する。  しかし、実行に及ぼうとする、その瞬間……自分の中の何者かがそれを制するのだ。  思う存分に汚すことができれば……汚れることができれば、どれだけ満たされるだろう。そんな想いは、僕の口から出ることは許されなかった。 * 「今日は積分のテストを行う」 「は、マジで!?」 「聞いてねぇよ」  数学教師の一言で、教室内は騒ついた。 (下らない……。積分のテスト如き、簡単なものに一々騒つくな)  本心ではそう思ったが……僕はピエロの顔になる。 「ひゅえぇえー!」  僕は突如、突拍子もない声を上げた。  クラス中の皆が、こちらを向く。 「せ、せんせぇは、ヒットラーですか?」 「は?」  教師は眉を顰めた。教室内が凍りついたかのように静まり返る。 「ナ、ナ、ナチスの独裁者だぁ!」  僕が教師を指差して声を震わせながら言うと、教室内がドッと笑いに包まれた。 「ナ、ナ、ナチスの独裁者だぁ~」  今西が僕の真似をして茶化すと、教室内はさらに笑いに包まれた。 「はい、お前ら。馬鹿なことはもういいから。テストを配るぞ」  教師は呆れ顔でプリントを一番前の席の生徒に十枚程度ずつ配った。それを一枚ずつ取り、徐々に後ろへ回す。  プリントが回されている間も、教室内の所々からクスクス笑いやプッと吹き出す声が聞こえた。  プリントの全てが配られ、ようやくテストが開始された。  この瞬間、僕はピエロの呪縛から解き放たれ、ホッと息を吐く。  どれほどの奇行をしても僕はこのクラスの中でトップの成績をとる。だからこそ、僕はピエロであり続けることができるのだ。  成績優秀でなくただ奇行を繰り返すだけであれば、僕はただの問題児としてこのクラスから排除される。  答案用紙上では、僕は自由だ。  ピエロである必要もないし、皆の笑いの的となる必要もない。  ただ、ひたすらに数式が創り上げる宇宙空間に没頭する。  人間が考えた一つの数式……それは、この答案用紙上で神秘的に美しい図形を描く。一片の解れもなく、完成された図形……それは恐らく、人間の手で創り出すことは不可能だ。  その図形の面積や体積を、また、一つの数式で求めることが可能である……そのことに、人間の持つ宇宙が創り上げた世界の驚異的な美しさを感じる。  僕は、数式により頭の中で創造した世界を、答案用紙に表現する……。 『キーンコーンカーンコーン』  授業終了のチャイムと共に、僕は下らない現実に引き戻された。  また、今西が僕の机の前に来た。  僕の目の前で、僕の顔真似……まるで鳩が豆鉄砲を喰らったかのような顔をして、先程の僕の口調と言葉を真似する。 「せ、せ、せんせぇは、ヒットラーですか?」  周りからクスクス笑いが聞こえる。 「ナ、ナ、ナチスの独裁者だぁ~」  今西がさらに茶化す。 「お、おまぇ、ぼ、ぼくを、誰だと思ってるんだぁ!」  僕が襟を掴むと、今西はいつものように大袈裟に仰け反った。 「うわぁ、ヤバい、こいつ。イっちゃってるよ。殺される~」  教室中はさらに笑いに包まれた。 「ホント、勉強ができても、あれじゃあな」  周囲はそんな言葉をまくし立てる。  そして僕は、ピエロに掛けられるその言葉に、得体の知れない優越感を覚える。  しかし、そんな言葉の中で、一つの言葉が耳に留まった。 「ナチスのヒットラーか。また、新商品が出たな」 (新商品……?)  その言葉に違和感を覚えた。  僕はこのクラス内で確かに『商品』を産み出している。皆の嘲笑の的、『ピエロ』になるための商品。  しかし、そんなことはクラスの皆には知られてはいけない。  飽くまでも、僕の『素顔』がピエロである……そうでなくてはいけないのだ。  『新商品』という言葉に、誰とも識別できないクラスメイトの言葉が続いた。 「なぁ。昨日の特番、見た? 例の殺傷事件を起こした『少年A』。クラス内では、みんなからの笑い者だったみたいだぜ」 「え、マジで?」 「そう、そう。クラス内で演技をして自分から笑い者になって、自分の地位を貶めてたっていう」 「かぁ~、そんなことする奴の気が知れねぇぜ」 「そんでもってさ、少年Aって……」  聞こえてくる、誰とも知れないクラスメイトの声がくぐもる。 (やめろ……それ以上は言うな!)  僕の中で、『素』の自分のそんな声が響き渡る。 「笑い者なのに、成績は優秀で学年トップだったんだって~」 「うわっ、マジかよ。マジでまんま、あいつじゃん」  クラスメイト達の刺すような視線が突き刺さる。他の誰でもない……僕に。 「え、うそっ? あいつも、演技なの?」 「当たり前だろうが。お前、もしかして気付いてなかったの? 素であんなキモいワケねぇだろうが」 「うっわー、マジかよ。あんなことやってて、本当は密かに笑ってたのかよ。引くわー。元々ドン引きしてたけど、さらに」  周囲で飛び交うそんな言葉が、徐々に僕のメッキを剥がしてゆく。  そう。  周囲に何を言われても屈託なく笑う、『ピエロ』のメッキ……。  そして、『素』の自分が冷酷な、刺々しい空間に暴露されてゆく。  僕は見る見る息苦しくなる。  鼓動は速度を上げ、まるでこの教室が水没して、溺れているかのように……。  怖い……怖い。  クラスメイト達が。  『素』の自分にとってはあまりにも冷酷で刺々しい、この空間が。  メッキを装着することさえ許されない、この世界が……。  僕は、何者にも頼ることができない。  そう、『ピエロ』にも……。  そんな僕に、トドメの一言が向けられた。 「あいつもそのうち、ヤラかすぜ。少女強姦殺傷事件……」
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