君の幸運

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ずっと降り続くかと思った雨ではあったが昼過ぎには止み、曇天の隙間に青空が見えるようになっていた。 しかし、地面は雨の名残にぬかるんでいて、久方ぶりに出掛けているというに、着物に泥が跳ねないのを気を付けなくてはならなかった。 なにせ今から出掛けて会いに行くのは、雛を妻として娶る相手なのだ。 いっそうのこと、泥塗れにでもなれば愛想をつかしてくれるかと思うがそんな訳はない。相手が必要なのは雛自身ではないのだから。 ーそれなら気にしなくても良いのではないか。知りもしない男が泥塗れになった雛を見て歪める顔を眺めてやれば、少しは気持ちが晴れるかもしれない。 「いけないことを考えているね」 水溜まりに向かって進んでいた雛の手を引いて、浅黄が振り返ってくる。水溜まりに突っ込みかけた足は、寸でのところで避けさせられた。 駄々をこねる妹を見る顔をした浅黄は、軽くため息をついた。 「君を大切にして貰わなくてはならないんだから、そんな事を考えては駄目だよ」 結い上げた髪が崩れないよう、頭を撫でるかわりに髪飾りに触れ、離れていく指先を雛は見つめた。 それから回りを見渡す。街を行く人々は笑いあい、子供たちが泥団子を作って遊んだりしている。 が、まるで夢物語のように、雛に触れていくことはない。ここにいる誰も。 物心ついた時から共にいる浅黄でさえ、兄のような顔をしながら、雛を見ない。 再び歩き出した浅黄に手を引かれながら、雛が口を開く。 「浅黄、あなた、故郷に帰るって聞いたわ。本当?」 「ああ、君を送り出してからね。嫁を貰うんだ。故郷には、小さいけれど家と土地がある。そこで、嫁とふたりで生活するよ」 「ふぅん……。おめでとう」 雛の声が平坦になる。まるでなにかを抑えるように。 「ありがとう。君のおかげだよ。付き人として君を世話してきたから、送り出したあとは謝礼を貰えるんだ。さすが君の家は格が違う………目玉が飛び出るかと思ったよ。その謝礼額には」 浅黄は幸せそうに笑っていた。天涯孤独の身で生きてきた彼には、漸く手にいれることが出来るのだろう。家族も。幸せも。 もうじきー自分がいなくなれば。 「だからさっきも言ったけど君のことは大切にして貰わなくちゃ。不安かもしれないけど、大丈夫。きっと幸せになれるよ。君は幸運を運ぶーーなんだから。まわりが幸福になれば、君も幸福になれるだろう」 「…………」 目眩がした。雛は俯いてそれをやり過ごす。 逃げ出してしまいたかった。しかし、それをすることは皆を不幸にする。 慣れた事だったからその感情には蓋をした。そうして沸き上がってきた思いは事実だけを告げる。 (私の幸福は………) 雛ではない誰かが決めるものらしい、ということ。 雲が散り散りになるように、この心も無くなってしまえばいいのにと雛は心で呟いた。
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